四、入相の様を望む【4】


 ああ、そういえば、と、十重は、客に塩を手渡す瞬間――最後の最後で重要なことを思い出した。越して来たばかりだと言う客の男は、きっと知らぬだろう。ここらに住むのだから、念の為、言っておかなければならない。
 塩が詰められた小壺と引き換えに代金を支払い、早々に店を出ようとした男を、十重は慌てて呼びとめた。
「お前さん。さっき、確か山の入口に住んどると言ったよな?」
「ああ、そうだが」
 壺を小脇に抱えた男は、それがどうしたのか、といかにも怪訝そうに問い返してくる。それでも、男は通りへ出そうとしていた足を踏み留め、十重の方に向き直った。
「悪い事は言わん。山の東の入口には近寄らん方がいい。あそこには、あやかしが住みついとる」
「妖?」
「そうだ」
 店主は深々と頷いた。まるで秘めごとを打ち明ける時の如く、十重は左右に目を走らせると、声を落として、客に話しかける。
「妖の存在はお前さんだって知っておるだろう。ほんに空恐ろしい、化け物よ。見た目はいたいけのない女子おなごの姿形をとっておるが、……あの
 身の内をわき上がった恐怖が、ぶるりと身を震わせる。十重は大袈裟でもなく、寒風とは違ったうすら寒さを感じて、鳥肌の立った己が両腕をかき抱いた。
「あの瞳ときたら、気味のわりぃことこの上ねぇ。一度目が合えば、魂を抜きとられちまうともっぱらの噂だ」
 話し聞かせながら、十重は対する相手の反応を伺い、ひょいと器用に片眉を上げた。
「……お前さん信じとらんな? だが、一目でも見たことがある者ならば、誰も彼もが奴が妖女と疑わずにはおられまい。ありゃあ、人間じゃない。いつか死人が出る、いつか死人が出る、と思っとったら、あの妖女……とうとう、母を喰らいよった」
「――妖なのに、母がいるのか?」
「大方、産まれたばかりの赤子を喰ろうて、成り変わったんだろう。みんなそう言っとる。あれを産んだ母はこの村のもんだった。離せと言うのに、てこでも離さん。子が妖に喰われたと認めたくないさきの心持ちも分からなくはないが……言わんこっちゃない、咲は妖女に喰われてしもうた。憐れな娘よ」
 十重は、地面にできた己の影に深い息を吐きだした。客は、相打つことなく口を閉ざす。
「嘘じゃねぇ。うちの若いのだって、ちょうどその場に居合わせたんだ。咲が喰われたその場にな。おい、圭亮けいりょう!」
 こっちへ来い、と手招きした店主に、呼ばれた青年は「へぇ」と即座に返事した。整頓された大甕の合間をすり抜けてやって来たのは、先程、甕をこちらに運んで来たのと同じ青年。他方の若者が他の村の出であると説明したくらいだから、彼はこの村の出で間違いないだろう。ひょろりとした頼りない体躯に対し、はつらつとした印象を受ける根の明るそうな若者だ。
 しかし、店主から、妖女の話を振られると、彼は途端、顔色を変えた。さっと引いた血の気の引き具合は、思わず大丈夫か、と背を支えたくなるほどである。
 呼びつけた十重自身も、いち早く圭亮の様子に気付いたのだろう。己の席を譲り、ひとまず彼を座らせた。
 店主は客の男に目配せをして、「この通りよ」と肩を竦める。
「この大馬鹿者は、仲間内で肝試しに行ったらしい。若いもんのなかには妖女を見たことがない者も仰山いるからな。それ以前に、最近の若者は、妖を信じぬ者が多すぎる。――全く。そんな暇があるなら、休みなしで働いてくれればよいものを」
 十重は、圭亮を睨みつけると、若輩者の頭を後ろから掌でぱかりと叩いた。瞬間、圭亮は飛び上がるように、地面ばかりを見ていた顔をがばりと上げた。
「――っ、あ、あれは! あれは、女のはらわたを喰ろうておった。本当だ。この目で見た。何度も、腹をまさぐって、喰っておったんだ。女は血を吐いて、死んでいた。きっとあの妖女が、彼女の腹の中を食い破ったに違いない。泣いておったんだ。涙を流して、目をかっぴらいたまま死んでおった。なのに、あの子どもは! あの妖女は! 微塵も動揺せずに、女を喰っとった。喰い続けとった。俺は、あの場から命からがら逃げてきたんだ。逃げなければ、そうでなければ、俺まで喰われてしまうかと思った。恐ろしい。あのおぞましい紅い舌を、何度も何度も夢に見る。恐ろしい、恐ろしい……あんなに恐ろしいもん、俺は他に見たことがねぇ」
 圭亮は、堰を切り落とされたかの如く、喋り続けた。青年が一言喋るごとに、客はいよいよ眉をひそめた。
 触れ確かめるまでもなく、がたがたとうち震えだした身体。終いには、手で視界を覆って圭亮は呻いた。半ば取り乱し始めた青年を、店主はどうどうと宥める。
 まるで離れた場所に立つ男は、彼らを眺めやりながら、長細い目を、なお細めた。
「恐ろしいと思う心が恐ろしい」
「は?」
 二人は揃って動きを止めた。十重は客である男を、驚きを以って見つめ、圭亮は顔を覆い隠した指の隙間から、緩慢な所作で、そろりと男を見上げた。
 けれども、男と彼らの目線が絡むことは終ぞなかった。そもそも、彼ら二人が男を見た時、男は彼らを見てはいなかった。
 男の眇められた双眸が、幼子を背で揺すりあやしながら、明朗とした声で歌い歩く母の姿を追っていることは、傍から見ても明らかであった。
 ようやく己が、十重と圭亮二人の視線の的となっていたことに気付いたのか、彼は店内に視線を戻しながら「いや」とかぶりを振る。それから、彼は何事もなかったように、ふっと表情を綻ばせると、口の端に苦笑をのせた。
「そうだな。存分に気をつけておこう。そのような妖に行きあわぬようにな」
「あ、……ああ。くれぐれも東の入口には近づかんようにな」
 店の敷地から、通りへと躊躇うことなく足を踏み出した客に、十重はなんとか再度の注意を促した。男は壺を小脇に抱えたまま、振り返りもせず、ただ返事の代わりとでも言うのか、一度ひらりと手を掲げる。
 十重は、しばらく立ちつくして男を見送っていたが、いつまでも座り呆けている圭亮に気付くと、彼を小突いて立ちあがらせた。そのまま、圭亮を店の中から通りまで追いやって、出ていった客に向かい頭を下げさせる。
 なんとも掴みどころのない客だった、と十重は首を捻り捻り、己が座に腰かける。つい先まで、圭亮が陣取っていたそこは、壺の椅子と言えど、幾許か温かなままだ。
 そういえば名を聞き忘れたな、と気付いたところで、側方から声を掛けられ、十重はそちらへと首を巡らせた。
「おう、加地かじさんじゃないか! 今日は特に冷え込んだなぁ」
 見知った顔を見出して、十重は表情を朗らかに崩した。
 白髪頭を短く刈り込んだ男は、角ばった顔に貼りついた薄くひび割れた唇を引き結んで、「全くだ」と答える。
「こう寒くっては、おれらみたいな老身にはちぃとばかり堪えるなぁ?」
「おいおい。おれまで年寄り仲間にしてくれるな」
 十重は、かっかと明るい声を立てる。微笑ましげに、それを見ていた加地は、通りに目を向けると、「ところで」と十重に切り出した。
「さっきの若者は、十重の客か? 見かけぬ顔だが……」
「ああ、あの男な。つい先日こっちに越して来たんだと」
 見る見るうちに雑踏に飲み込まれ、小さくなっていく男の後ろ姿を、十重と加地の二人は違った面持ちで眺めやった。
「気にせずとも、妖女の家に近づかぬようにという警告はおれがしておいた」
「そうか……。そいつはよかった。ありがとうな」
 途端、加地はほっと安堵を滲ませる。対して十重は、そんな加地をぎろりと睨んだ。
「あんたもだ。加地さん。あんたの身の為に言う。妖女の家にはもう近づかん方がいい。いや、絶対に近づかんことだ。咲の体を清めてやったんだろう。過分すぎるほどに充分じゃないか。もう関わりあいになるな」
「だが、ようは、」
 加地さん、と十重は怒気も露わに彼の言葉を遮る。見るものが見れば、まるで十重が加地を脅しているのでは、と勘違いしたことだろう。事実、通りを歩いていた者は皆、目を丸くして彼らを見た。けれども、十重が怒鳴っている相手が加地だと知るやいなや、足を止めた者たちはまたそれぞれに歩を繰り出すと、変わらぬ足取りで通りを行き交わる。
「分かってるんだろう。今度はあんたが喰われちまうぞ! いいか、妖女の家に持っていく塩なんざ、おれは一粒たりとも売らんぞ! その空壺を抱えてとっとと帰りやがれ。いい加減、しょぼくれたその頭を冷やすんだな」
「待て、待て。そんなことになったら、かみさんにどやされちまうよ」
 加地は、壺を持った手とは他方の手を突き出し、今にも飛びかかってきそうな十重を落ち着かせる。すっかり眉を下げた加地は「やれやれ」とのんびり首を振ってから、十重を抑える役割にと、掲げていた手をおろした。
「安心しな、塩をようのところの持って行くつもりはない」
 だから、塩を入れてくれよ、と加地は長い付き合いの店主に小壺を差し出す。
 十重は憮然としたまま、鼻先に出された壺を加地の手からひったくった。


 ざぁーっ、ざぁーっ、と塩が壺の内に注がれる。
 加地は、黙りこくったまま塩を移し続ける友を見やって、こっそりと息をついた。青く突き上がった寒空へ、頼りない息が舞いあがって行く。
 ――こちらとて、少なくとも冬の内は、お目にかかりたくない、と。
 彼は、心内で呟いて、これから来るのであろう苦々しい冬に思いを馳せた。