四、入相の様を望む【5】


 薄い木皮同士が縦に横にと、隙間なく格子に編み合わされた蓋。
 蓋が取り外されたせいろの内からは、白い湯気がもくもくととめどなく湧きあがった。一本の腕が立ち込める湯気をかきわけ、必要な分だけ饅頭を取り出す。
 そうして再び、逃がさんとばかりに、湯気共々格子のある蓋に閉じ込められた。
 トクルの実の粉を練り込み、蒸しあげられた薄茶の饅頭は、ふっくらとして丸い。いびつなく形作られたトクルの饅頭からは、先と比べれば頼りない程か細い湯気が、うっすらと身をくゆらせつつ空気に溶けてゆく。漂い始めた芳しい香には、一嗅ぎしただけで満面に笑みを広げてしまいそうな甘みが含まれていた。一口かぶりつけば、それと同等か、もしくはそれ以上の甘さが口いっぱいに広がることだろう。
 甘味屋の入り口では、幼い姉弟が羨ましげに中の様子を覗き込んでいた。弟の方などは、指をくわえて、今にもよだれをたらさんばかりである。
 甘味屋の主人は、饅頭に負けず劣らぬふくふくとした手で、白く湯気を吐き出し続ける饅頭を四つ、大人の顔ほどもあるトクルの葉で手早く包み込んだ。こうしておくと、饅頭の香が増して、より旨味が引き立つ。一度でも、トクルの饅頭を食べたことがある者ならば、誰もが知っている知恵であった。
 実己は、紅への約束の品をその手に受け取ると、主人に軽く礼を言って店を出た。
 饅頭の包みを抱えた客が動くのと同時に、姉弟二人の目線もつられて泳ぎ出す。
 店を離れる間際、実己が何気なしにそちらへ目を向ければ、姉の方は丸い頬をぱっと朱に染めて、逃げていった。
 置いて行かれることに気付いた弟は、心許ない足をからませながら、懸命に姉を追いかける。けれども、彼は歳の離れた姉に追いつけはしなかった。人混みの中、とうとう姉の姿を見失い立ちつくした弟は、次いで、わぁわぁと火がついたように泣きだした。
 そのかしましいこと、かき集めたありったけの犬が、すぐ耳元で吠えあっていても勝りそうな激しさである。
 しかし、泣きわめく幼子の傍を、素知らぬ顔で通り過ぎる者はいても、あからさまに眉をひそめるような者はいなかった。ある者たちは、仕方がないなと苦笑しあい、またある者たちは、彼の肩を優しく叩いて、「大丈夫さ」と口々に宥めかけては、幼子をあやした。
 弟がついてきていないことに途中で気付いたのだろう。先に駆けて行ったはずの姉も、すぐにまた姿を現した。
 弟は姉へと両腕を伸ばす。姉は、泣きわめく弟を発見するや否や、彼の両頬を叩き包んだ。
 泣き声がさらに甲高くなる。それは、頬をはたかれた痛さからか、はたまた、姉が見つかった安心からか。
 一向に泣きやまぬ弟を、姉はますます恐い顔で睨んだ。彼女は、しかつめらしい顔をつくりながらも、泣き続ける弟の手を引く。今度は、駆けることなく、ゆっくりとした足取りで、姉は弟と一緒に通りを歩きだした。
 周囲の者たちも、彼らの再会に自分のことの如く胸をなでおろしているようだ。幼い姉弟に声を掛けながら、また各々、目的の場所へと向かう。
 人々の足が動き始めると時同じくして、通りの店々では、客を呼び込む掛け声が、再開された。
 決して裕福とは言えぬひなびた店や、家々。
 それでも、賑やかな村だ、と実己は思う。
 よそ者さえ快く受け入れる奔放で優しい空気が、この村にはあった。
 買うべきものを揃えた実己は帰路を辿るべく、足を速めた。
 きゃらきゃらとはしゃぎながら、数人の子らが、真横をすり抜けて行く。老若入り混じった男たちが皆、深刻な顔をして話し集っているかと思えば、すぐ隣の雑貨店ではすっかり腰の曲がった婆たちが意気揚々と楽しげに立ち話をしていた。
 映り込んでは流れ過ぎてゆく景色を、彼は気に留めることなくやり過ごす。大股で歩を進めていると、饅頭の包みよりも先に、抱えていた小壺の中で、塩がざっざと鳴り動いた。
 その度に、蘇るのは、壺の内へと流れ込む塩の音。
 ざぁーっ、ざぁーっ、と途切れることなく続いた、塩が落ちる音は、まさに潮騒そのものであった。
 だが、聞けば、この塩は海のものではなく、むしろ大陸中部――山の中腹でとれた岩塩を崩したものだと言う。なのに、海によく似た音がするとは奇妙なもんだ、と塩屋の店主は、壺に塩を注ぐ手を止めることなく笑った。
 一度、目をつむれば、陽光に煌めく青い海を思い描くことができただろう。分かっていたからこそ、彼は瞬きすらできなかった。
 潮騒が耳の奥で唸り続ける。子が泣き叫ぶよりもやかましく脳天を打ち響き続けた。
 だから、それが本当に潮の音なのか、はたまた塩の音なのか、判別は付かなかった。
 ただ、実己が歩く度に、壺の中身が、ざっざと存在を主張していた。





 遥か彼方で光り輝く光景。時折白い筋がちらちらと現れては消えるのが、丘の上からでもよく見えた。
 地の果てが、どこまでも青い。否、果てにあるあの青は、地ではなく水であると言う。手で掬えば透明でしかない水が、如何様にすればあのように染まるのか。
 あまりの青さに、実己は馬上で息を呑んだ。
「おおうっ! あれが、音に聞く海か。噂通り真っ青なんだな。だが、あれはでっかい水鏡なのだろう? もっと空に似ているのかと思っていた」
 声を上げたのは、なだただ一人。
 茂久那もくなからの長い旅路を経て、ようやく、残すは丘を下るばかりというところ。今まさに谷津牙やつがの城下へ入ろうとしていた一行の誰もが、世に生を受けて以来、初めて目にした海に言葉を失くしていたというのに、この男だけは、飄々として常と調子が変わらない。右手をひさしがわりとして額に掲げ、「ややあっ!」と、海のある方向を望む。乗り手に呼応するかの如く、彼の馬までが顔を上下に振り降ろし、いなないた。
 灘の直属――六刀の上役であり、ここまで、谷津牙へ嫁ぐ茂久那の一の姫、紅華くれはなの付添人一行を纏め上げてきた同仁どうじんは、近頃深みを増してきた皺を、さらに深めた。いつまでたってもお調子者から抜け出せないらしい若者の頭を手甲で小突く。
 今しがた、あれが海なのだと説明したばかりの谷津牙側の案内人は、彼らのやり取りに苦笑した。
「そうですね。水鏡と言うには、いささか語弊があるやもしれません。湖面ほどぴたりと静かに海が凪ぐことなど、そうそうありません。海は絶えず動き続けていますから」
 ご覧ください、と案内人は下方にある海を指差す。
「あそこに波が立っているでしょう。そう、あの白いものです。あれら、全てが、海が動いている証。波は勢いよく岸へ押し寄せてきては、同じ勢いを以って、また沖へと引いて行くのです。それが毎日、途絶えることなく繰り返されます」
「その……波、と言うものは、どのように動いているのでしょう? もしや、水が勝手に動くのですか?」
 最も年若い浮和ふわは、好奇を湛えて、問う。
 案内人は「どうでしょう」と首を傾げた。
「実のところは、私にも分からないのですよ。海からは強風が吹きます。だから風に煽られて動いているのかもしれません。けれど、月の満ち欠けにも、左右されています。確かなのは、あの海の先に、この南の大陸と同じような大陸が、いくつかあると言うこと。耳にしたことがございますでしょう? 我が国、谷津牙は、隣国の双日よりも港が小さい分、他国との交易が頻繁ではありませんが、嘉隈かぐま様は、これから力を入れて行こうと精力的に取り組んでいらっしゃいます。できるのならば、どこよりも先に、この谷津牙こそが、向こう岸である大陸まで交易路を伸ばしたい、と。この国の港が、双日と並ぶこともそう遠い夢ではないでしょう。そう思いませんか?」
「それは、それは」と目を丸くした同仁に向かって、案内人は微笑を投げかける。
「手の届きそうにない目標ほど、目指したくなるものでしょう?」
「なるほど。そのように大層な夢、共に見られるならばこれ幸い」と口の端をにんまりと持ち上げたのは、白髪頭の成尊せいそん
「そんなこと仰ったって、老い先も残りわずかでしょうに」と、歳の割に豪胆な老武人に対して、倶堆ぐては、肩を竦めてみせた。
「人を爺呼ばわりするんじゃない、若造が」
「一応、三十六になるのですが。まあ、あなた様から見れば、みんな若造なのでしょうけど」
「はっ! 勝手に言っておれ。倶堆に心配されずとも、姫様の御子をこの目に映すまではしぶとく生き延びてやるわ」
 馬が牽く車の物の見窓から、顔を出していた紅華は、口に手を添えて、くすくすと笑う。
 彼女と同じく、狭い車の中から外に映える景色を眺めていた侍女のしなは、「まったく」と、秀眉を寄せた。一目見ただけならば、茂久那の一姫と見紛う程よく似通ったその顔を、科は綺麗に歪ませる。
「呆れますわ。谷津牙側の御方の前だと言うのに、あのように自分本位に振る舞うなど」
 風に乗って運ばれてきた苦言は、実己の耳まで届いた。明らかに、ただ一人――灘を指しているのだと分かる科の苦言。実己は、あのまま、一行の先頭まで行ってしまった一つ上の友人を擁護するでもなく、苦笑いを浮かべる。
 よいではないの、と紅華は、笑いを押し込めるでもなく、未だ鈴のように笑って言った。
「御覧なさい、科。あの海。なんと美しいのでしょう。浮かれずにいる方が無理と言うもの。それに、灘のおかげでよいことが聞けました」
 紅華は、侍女から目を逸して、再び、丘下に垣間見える海へ向き直った。明朗と光を灯す茶の双眸を、彼女はとくと眇めて、青い海を見据える。
「これがわたくしの、第二の郷国となる国なのですね」
「“わたくしたちの”ですよ、紅華様。そこは、わたくしたちも、御仲間に入れていただかないと」
 愁眉をやんわりと開いた科は、ふふと、表情を微笑に変えて指摘する。「そうね」と紅華は、溜息を洩らすかの如き静けさで彼女に応じた。


 ゆったりと時が流れる、穏やかな旅路であった。
 次に、一行が揃って同じ丘を辿ることとなったのは、それから三年と九月後のこと。
 その間に、同仁には二人目の孫が産まれ、灘と科が夫婦めおととなり、そうして、谷津牙は滅びた。