03



 夜が訪れる。
 その度に決まって神殿で待っている娘に、夜の盟主は何も言わなくなった。
 いつも途方に暮れた顔をして、膝を抱えて座り込んでいる娘は、夜の盟主が神殿に辿りつくと、安堵したように表情を緩める。時折、見てきた風景を話せば、イーデルト・クローデリアは相違の双眸を輝かせ、固唾を飲んで耳を澄ませているようだった。
 イーデルト・クローデリアは本を開く。ランプの頼りない光に目を凝らして、彼女は楽譜に書かれた旋律を指で辿った。たどたどしく、声が夜に沁み込む。木々すら葉を揺するのをやめ、あまり美しくはないかすれた歌声を森の中へ通した。
 相変わらずイーデルト・クローデリアは答えを見つけ出せはしなかった。
 屋敷と神殿を行き来し、夜の盟主とたわいもない話をする。それだけが彼女の生活のすべてであり、世界だった。優しい世界だった。


 
 日が沈むにつれて影はよりいっそう深い色をして広がっていく。やがてすっかり太陽が地表の向こうへ消えてしまうと、神殿の柱の根元からのびていた影は溶けだし、辺りに満ち始める暗がりとの見分けがつかなくなる。背を丸め膝を抱えていたイーデルト・クローデリアは、ぴんと背筋を伸ばした。姿勢を正して座りなおし、耳を澄ます。
「今日は何を読んできた?」
 のんびりとした羽音が神殿のすぐ脇に降り立つ。たたんだ羽が擦れたのか、地面の砂がざらりと鳴った。
「地図を持ってきました」
 イーデルト・クローデリアは、はずみそうになる息を意識して抑え込み、屋敷の額縁から外して持ってきた世界地図を広げた。地図の中央で弧を描いている大陸は、四方を海で囲まれている。海には帆船と共に奇妙な姿の動物が蠢いていた。
「これ」
 イーデルト・クローデリアは、手にしたランプで海上を照らし出す。
「ワーナリガラックと言うの」
 昆虫の胴体に魚の尾をくっつけたような気味の悪い赤茶の生物を指差して、イーデルト・クローデリアは首を傾いだ。
「本当にいるの?」
「さぁ。見たことはないね」
「海の泡を糧にするのですって。本に詳しく書いてあったの」
「ふぅん」
「信じていないのね」
「お前は、泡で腹が膨らむと思うのか」
「膨らみはしないけど……ワーナリガラックはそうなのかもしれないわ」
 イーデルト・クローデリアは、闇に向かって肩を竦めてみせる。
「ワーナリガラックに出会った船乗りは、決して陸に戻れはしないのですって。船が六本の脚で壊されて沈没してしまうから」
 顔の前で十指を曲げたイーデルト・クローデリアは、関節のある虫の脚を真似て、指をわしゃわしゃと蠢かせてみせる。夜の盟主はほひゅると溜息をついた。
「本当にそうならば、ワーナリガラックに遭遇した船乗りは誰一人として生きていないことになるだろう、イーデルト・クローデリア。一体誰がその奇妙な生き物を見たと言うんだ」
 夜の盟主の指摘に、イーデルト・クローデリアは息を呑む。あからさまに落胆を滲ませた娘に、夜の盟主は天を仰ぎたくなった。
「……昼に出ているのかもしれないよ。あるいは朝か。私が知らないだけだろう」
 とってつけたように慰めを口にした夜の盟主は、言葉が余計に空回りしていることに気付いて呻いた。
「イーデルト・クローデリア」
 風は娘の金色の髪を撫でながら、そよぎゆく。ひそり。夜の盟主は、風に任せて薄紅の花を娘の元に散らした。
「もう時期が終わるせいか、花は小さいが」
「素敵」
 イーデルト・クローデリアは膝の上に落ちた小花を指先で掬う。ひしゃげたまなこをほのかに崩し、彼女は口の端を緩めた。
 夜の盟主は、イーデルト・クローデリアを注視する。漏れた吐息は都合のよいことに、吹いた夜風に掻き消された。
「お前は、その目を恨むか」
 夜の沈む木々の合間に目を向けて、イーデルト・クローデリアは小首を傾げた。口を開く。
「ええ」
 瞬間、彼女にまとわりついていた花びらが、肩から零れ落ちた。
「こうでなかったら、あなたの話す世界の一片でも、私はもっと自由に歩きまわっていたでしょう」
 それこそごく当然のことのように、と娘が吐露したのは、夜の盟主から見ても違いようのない事実だった。「けれど」と娘は目を伏せることなく続ける。
「これほどにたくさんの本は読まなかったかもしれない。あなたから、本以上に広がっていた世界の話を聞けなかったかもしれない」
 だから、とイーデルト・クローデリアは困ったように微笑う。
 微かな名残を残してランプの火はふいに掻き消えた。暗転した神殿からは森との境目すら見当たらない。辺りを満たす夜の中で息づく気配だけが闇間を蠢いた。
 イーデルト・クローデリアは目を閉じる。静かに瞼に触れた何がしかが、やがて通り過ぎるのを、彼女は目を閉じたまま待った。諦観の滲む細い嘆息が、閉じた闇の中でやけに響く。
「お前の目は、いつも笑っているようでよい」
 夜の盟主は、平らかな声でささめいた。
「いつも泣いているようでよい。いつも何も感じていないようでよい」
 ほろ苦くうち笑う、娘の口角に添って、揺らめく暗がりはイーデルト・クローデリアの頬を撫ぜる。はい、とイーデルト・クローデリアは囁いた。目に映るものの何もない暗闇の中、彼女はいびつに歪んだ瞼を開く。そろり、と現れ出た銀と瑠璃の眼差しは、恐らく夜の盟主にしか見えるものではなかった。
「よく聞くんだ、イーデルト・クローデリア」
 固く声を低めて、夜の盟主は言った。
「明朝から三日三晩雨が降る。雨が上がった時間から先四日。この期間が過ぎてしまうまで、お前はここに来てはいけない」
 虫も鳥も息をひそめている夜の中で、木の葉だけが絶えず騒ぐ。ひときわ強くさざめいた木々の揺れに、イーデルト・クローデリアは知らず肌を泡立たせた。
「なぜなの、グラーチェ」
 暗闇が占める狭い世界の中で、唯一はっきりとしていた頬に触れる感触がイーデルト・クローデリアの元からするりと抜け落ちる。闇が引くにつれ、消えたと思っていたランプの灯りが再び辺りを照らし出した。今までの暗さが嘘だったかのように、ランプの火は煌々と朽ちかけた神殿を照らし出す。
「絶対に足を踏み入れてはいけない」
 問いに答えは与えぬまま、夜の盟主は色濃く警戒を滲ませ彼女に強く諭し含ませた。



 夜の盟主の言う通り雨は夜が明ける少し前から降り始めた。
 イーデルト・クローデリアは、明かりを通す不透明なガラス窓に手をつける。白濁した青緑のガラスは雨粒が当たる音だけを彼女に伝えた。ひどく降っているわけではない。それどころか今にも上がってしまいそうなほどささやかな雨だった。娘が一人森の中に立ち入ることを、危ぶむようなものではない。ケープを頭からすっぽりかぶってしまえば気にもならないだろう。降り続く雨の音に耳を傾けながら、イーデルト・クローデリアはなぜなのだろうと思う。
 結露したガラス窓の表面は、外気の涼しさを掌に沁み込ませた。イーデルト・クローデリアが触れる場所から、雨垂れのように溜まった水滴がガラス窓を滑り落ちる。
 ふと、瞼をなぞる指の感触を思い出して、彼女は目を伏せた。イーデルト・クローデリアはひきつる醜い瞼を爪の先でそっとなぞる。温かかった。いたわるような優しさだった。それと同時に夜の盟主は存在するのだと、彼女は改めて実感した。胸に迫る衝撃だった。
 イーデルト・クローデリアは吐息する。目に触れられることを厭ってきたわけではない。
「だけど、私の前で口に出したのはあなただけだった」
 光を通す窓に額を押しつけて、彼女は銀と瑠璃の双眸を歪んだ瞼で押し隠す。
 歩いてみたいと思う。見てみたい。夜の盟主が見ている、広い世界を。
 けれども、ひとり離れて世界を歩く。そんな未来は彼女にとって現実味のない絵空事にしか思えなかった。
 雨は勢いを強めることなく三日間降り続けた。ようやく雨が上がった時、空は藍色に薄らぎ、夜明けを迎える準備をしていた。息を詰めてその瞬間を待ち望んでいたイーデルト・クローデリアは、皆が寝静まっている屋敷から抜け出して神殿の方角を見つめた。丹念に手入れされた庭を取り囲む壁は高く、神殿はおろか、そこへ至る道も見えない。靄がかかった早朝の空気は寒いくらいに澄んでいた。イーデルト・クローデリアは息を吸う。ここからあと四日。イーデルト・クローデリアは、夜の盟主に指定された日を指折り数えた。
 イーデルト・クローデリアは書斎から取り出してきたいっとう分厚い本を開く。今度は何の話題にしたらよいだろうか。どんな話が聞けるだろうか。ぱらぱらと無造作にページをめくりながら、窓から差し込む光の眩しさに彼女は目を細めた。いつもなら夜に備えて読んだ本の内容を夢中で頭に叩きこむのに、雨が上がってからここ三日、光の加減が変わるたびにいちいち気が散ってしまい身が入らない。夜の盟主が言った期日までまだ半日もあった。浮き足立つような言いようのないもどかしさと共に、この日も確かな落胆を感じてイーデルト・クローデリアは息をつく。
 入ってはいけない、と夜の盟主自身が定めた期間にも夜は日々の決まり事としてやって来る。夜が訪れる。そのたびに、夜の盟主はあのくちかけた神殿に来ているのだろうか。あの暗闇の中にひとり、木々に溶け込むようにして。
 寂しくはないの、と聞いてしまったことがある。答えは是でも否でもなかった。イーデルト・クローデリアには感じられないだけで、森には生がいたるところに満ちている。それが、夜の盟主の答えだった。
 あの時、寂しいと答えてほしかったのだ、と彼女は本をめくりながら唐突に悟った。イーデルト・クローデリアは眉根を寄せる。どうしても自分で処遇を決め切れない彼女は、今のまま屋敷から神殿に通う理由を無意識に夜の盟主に求めていたことに気付いてしまった。
 それでも、ほどなく夜は訪れた。イーデルト・クローデリアは暗くなりはじめた外の気配に息をひそめる。あと少し。夜が明けて再び日が暮れてしまえば神殿に行くことが許される。早々に床に就いた彼女は、けれどもとうとう一睡もできないまま夜を過ごした。
 薄れ出した暗闇が空に細くたなびく雲だけを黒く浮き上がらせる。玄関先に座り込んで、イーデルト・クローデリアは藍色に輝きだした夜空を見上げた。もうすぐで夜が終わってしまう。ちょうど四日前、雨が上がった瞬間もこのような色をしていた。あれは、まだ夜が明ける前だった。ならば、もう約束の期日になったのではないか。あの日、雨が上がった正確な時間はわからない。けれども、雨を吸ってぬかるんでいた足元の地面は、もうこんなにも乾いていた。
 間に合うかもしれない。今なら、次の夜を待たずとも、夜の盟主に会えるかもしれない。思い立って、彼女は立ち上がった。惑いながら踏み出した歩が、やがて裏付けのない確信を伴って走り出す。息の上がる鼓動を押さえることもできず、イーデルト・クローデリアは神殿に向かった。



 踏み入れた森はいつもに増してひんやりとした冷気が肌に沁みた。イーデルト・クローデリアは首を巡らせ、辺りを見渡す。夜の盟主が近くにいる気配はない。それどころか、靄に包まれた夜の森のどこからも何の音も聴こえてこない。あまりにも不自然な静けさだった。
 一体いつからこうだったのだろう。以前はあちこちから鳥の鳴き声や虫の音が聞こえていたはずだ。今は自分の存在ばかりが、反り立つ木々の間で異様に浮き立っている。今にも暗がりに塗りつぶされてしまいそうな気味の悪さがそこにはあった。考えて、イーデルト・クローデリアは震えあがる。
 ――――絶対に足を踏み入れてはいけない。
 イーデルト・クローデリアは背後を振り仰ぐ。暗がりから倒れてきた巨木に彼女は悲鳴をあげた。