02



 夜の盟主はしばらく留まっていたようだったが、結局、それ以上は一言も発さずどこかへ行ってしまった。羽音が、たったのだ。
 考えあぐねたまま口を閉ざし続けていたからかもしれない、とイーデルト・クローデリアは思った。尋ねた方がよかったのだろう。『ならば、私はここに残ってもよいのですか』、と。けれども、尋ねたとて答えは得られそうになく、やもすると否定されそうな気がして、ついに口には出せなかった。
 朝が過ぎて、昼になった。夜の盟主が神殿に戻ってくる気配はない。
 ちちち、ちちちと鳴きながら、イーデルト・クローデリアのすぐ傍に小鳥が降り立った。木漏れ日が揺れる中、小鳥は石床のひびから生えた草の実を器用についばみはじめる。
 ちちち。ちちち。
 小鳥は愛らしく小首を傾げる。イーデルト・クローデリアは知らず目を綻ばせた。緊張していた心が緩んで日溜まりに溶けていく。すると今まで気にもしなかったひびが神殿の壁に走っているのがやたらと目についた。
 むやみに人が立ち入ることを禁じている神殿には人気がない。その分、手入れが行き届かないのか、床に限らず、神殿の壁や柱などいたるところが朽ちかけていた。
 日溜まりのあたたかさにイーデルト・クローデリアは強張った身体をそろそろと伸ばして力を抜く。息を吐いて、ゆっくりと天を仰いだ。
 屋根の内側に施された彫刻は消えかけている代わりに、絡みついた蔦が紋様を描いている。屋根の先端にのぞく空は青く凪いで、広がる木々に風を送っていた。
 草の実を食べ終えた小鳥が、満足そうに明るい空へ向かって飛びたっていく。小鳥の行方を見送るうちに、イーデルト・クローデリアは夜の盟主の姿を見なかったことにはじめて気がついた。
 イーデルト・クローデリアは立ち上がる。一度屋敷に戻らなければならなかった。



「また来たか」
 次にイーデルト・クローデリアが神殿を訪ねた時、夜の盟主は既に来ていたようだった。昨夜よりも随分遅い時間になってしまった。辺りは既に夜に閉ざされている。イーデルト・クローデリアは屋敷から持ってきたランプを掲げて神殿を照らした。油のよく染み込んだ灯心の先を火がじりじりと焼く。灯りはぼんやりと神殿の白壁に反射した。イーデルト・クローデリアはぐるりとランプを巡らせる。
「どこにいるの」
「どうせお前には見えぬよ、イーデルト・クローデリア」
 笑いを含んださざめきが神殿の壁に反響した。昨夜とは別の方向だ。イーデルト・クローデリアは、声のした方へランプを向ける。しかし、どこもかしこも広がるのは暗がりばかりだった。
 夜の盟主を探そうとイーデルト・クローデリアは躍起になってランプをあらゆる方向へかざす。聞こえるのは虫の音。浮かび上がるのは生い茂る木々と神殿の消えかけた彫刻のみだ。それ以外に、目に見えるものは何もない。
 やがてイーデルト・クローデリアは諦めてランプを石床に置いた。持ってきた毛布で身をくるみ、彼女はランプの傍に大人しく座り込む。ケーキとワインを籠から取り出した彼女は、腕を伸ばし、少し離れた位置にケーキとワインを順に並べた。
「存外おかしなことをする」
 意外そうな声が暗がりで木霊する。昨夜とは異なる気安げな口調にイーデルト・クローデリアが驚いていると、闇が動いた。ランプの明かりが照らしていたはずの石床のあたりまで、暗闇がぬっと伸びたかと思うとケーキとワインを巻き込んで、静かに元の位置まで引いていく。イーデルト・クローデリアは目を瞠りかけ――無理にひきつれた瞼が痛みを訴えたため、慌てて目を伏せることになった。
「礼だ」
 ケーキとワインを飲み込んだ暗闇から、今度はごろりごろりと林檎がいくつも転がり出る。神殿の石床から転がり落ちた林檎を、イーデルト・クローデリアは拾いにゆかねばならなかった。
「ちょうどビンビステの林檎が頃合いだった」
「ビンビステ? 海の向こうの山ではないのですか」
「ほぉ。ビンビステを知っているか」
「本で」
 イーデルト・クローデリアは拾い集めた林檎を籠に詰めながら答えた。籠に入り切らなかった大半は、仕方がないので籠の横に連ねておくことにする。
「本で読んだのです」
 感心したように夜の盟主は頷く。仕草こそ見えはしなかったが、イーデルト・クローデリアにはそう感じられた。
「ビンビステは土壌がよい。人も虫もよく働く。持ってこそ来れなかったが、今年のキーリの花酒は格別であった。すっきりとした飲み心地なのだ。キーリの花の香も、うまく酒にのっていた。おととしはだめだったが、今年はよい。本当によい」
 夜の盟主は上機嫌で語る。どうやらほろ酔い気味の夜の盟主は、くだんの花酒をつい今しがた飲んできたばかりらしい。どのようにしたらたった一日で海の向こうの大陸まで行って帰ってこれるのか。気になりはしたが、それは神のなせるわざなのだろう。それよりもイーデルト・クローデリアが気になったのはキーリの花についてだった。
「キーリの花は一日しか咲かないと本にはありました」
「あぁ。そうだ。その花が咲いてしまう前に酒につけるのだ」
「蕾のうちにつけてしまうのですか」
「でないと風味が逃げてしまうだろう」
 呆れたように夜の盟主は言った。当り前だ、と。そうなのかもしれない。それでもイーデルト・クローデリアは、『あんまりではないか』と思わずにはいられなかった。
「それでは花が咲くことはないのですか」
「花を咲かすのは酒の中であろうが。咲かせて風味を中へ溶かす、と。本で読んだのなら、そう書いてあったろう」
 イーデルト・クローデリアは黙り込む。そうだったかもしれない。残念ながら彼女の記憶には残っていなかった。
「では、酒の中でしか花は咲かない?」
「何を莫迦なことを。なんだ。お前は、キーリの花を見たこともないのか」
 夜の盟主の尋ね方には冷やかさがあった。本で見ました。そう答えたら、夜の盟主はまた呆れ返ったように息を吐くのだろうか、とイーデルト・クローデリアは思う。
「キーリの花すら見たことがないとは。ここらにだって咲いているだろうに」
 いや、ここではまだ早かったか、と夜の盟主は自問する。
「まぁ、探せば少しくらいは咲いておろう。どれ。ひとつとってきてやろうか」
 夜の盟主はこの思い付きをいたく気に入ったようだった。闇の気配が愉快そうに揺らぐ。イーデルト・クローデリアが声をかけるよりも早く弾かれて枝がしなり、木立ちの合間を羽音が遠のいていった。
 イーデルト・クローデリアは呆気にとられて、静かになった闇間を見つめる。
 りぃりぃ、りぃりぃと、鳴く虫の音が草の下から漏れてくる。溜息のような鳥の声を耳にして、イーデルト・クローデリアは息を詰め、辺りの闇を注意深く伺った。
 たえずあちらこちらから聞こえる囁かな音は、イーデルト・クローデリアを取り囲む。微かな音がどこまでも続く静けさを満たす分、イーデルト・クローデリアはこの神殿にいる自分の異質さがいっそう浮き立っているように感じた。
 あらゆるものを拒むことなく内包する夜は、豊かで、やさしく、それでいて寂しい。火を吹き消してしまえば、自分の指先さえ見えなくなってしまうのだろう。意識して感じられるのは、自分だけだ。けれど、世界に溶けだしてしまいそうな闇の中では、『イーデルト・クローデリア』がはたして本当に『イーデルト・クローデリア』自身なのかもわからなくなってしまいそうになる。
 たえまなく続く夜の静けさは変わらない。震えだしそうになったイーデルト・クローデリアは、傍で灯るランプの明かりを思い出してほっと息を吐いた。
 周囲にはびこる森の暗がりと、まるで見分けのつかない空を見上げる。
「明かりがあれば」
 少しは変わるだろうか。頼りなく灯心の先で揺れる炎が確かな安堵感をもたらしたように。毛布を引き寄せたイーデルト・クローデリアは、抱き込んだ膝頭に頬を載せた。ランプの灯を眺めて目を細める。夜の盟主が帰ってくる気配はない。うつらと彼女の瞼は落ちた。
 昨夜は気を詰めて一晩中起きていた。昼になり屋敷に戻ってからは両親にことのあらましをつたない言葉で説明し続け、夜が来る前にと急いで神殿に引き返して来たのだ。思っていたよりも身体は疲労を訴えている。
「さみしい」
 身じろいで、イーデルト・クローデリアは額を膝頭へ押し当てた。りぃ。響く虫の音が耳元で薄れ、ぼんやりと意識の奥に沈む。夜の盟主は、まだ帰って来ない。風が吹いて、ふつりとランプの火が消えたのにもイーデルト・クローデリアは気がつかなかった。


 背に染み込む光の暖かさで、イーデルト・クローデリアは目を覚ました。寝てしまったのだと気づいた彼女は、はっと顔をあげ、辺りを見渡す。見渡して、彼女は目を疑った。
 木々の隙間から目映い朝日が射し込む。光の筋を受けて反射する白石の床に、黄色い花は散らばっていた。幾重も連なる細い花弁は、花を珠にかたどっている。
「キーリの」
 たった一日しか咲かない花。それがイーデルト・クローデリアを中心に石床に転がり、どれも花開いていた。
 本で見た挿し絵と同じく、キーリの花は鮮やかな黄色を身に纏う。神殿を渡るそよ風に、散らばる花が床を転がる。ふくよかに広がった香りを、イーデルト・クローデリアは流れる風に合わせて吸い込んだ。





「おぉおおお。頭が痛い」
 三日目、神殿にやって来た夜の盟主は開口一番、呻いた。
 日が暮れるのに合わせて、枝を組んだ焚き火の上に鉄皿を置き、湯を沸かして待っていたイーデルト・クローデリアはほんのりと笑みを浮かべる。
「キーリの花は人を酔わせ、同じその花で酔いの患いを和らげる」
 イーデルト・クローデリアは沸かした湯を杓子で掬い、キーリの花びらを沈めた湯のみに静かに注ぎ入れる。熱い湯の中で、黄色い花びらはくるくると舞った。夜に沈んだ神殿の隅々に花の香りが満ちる。
「あなたの言う通りでした、夜の盟主。今日、本で調べなおしました」
 どうぞ、とイーデルト・クローデリアが差し出した湯のみに、遠慮がちに夜の暗がりが伸びる。よほどきまりが悪いのか黙り込んだ夜の盟主は、キーリの話題には触れなかった。かわりにさもわざとらしく咳をする。しばらくして差し返された湯のみに、イーデルト・クローデリアはそろりと手を伸ばした。中身が空になっている。知って、彼女は安堵した。
「それで」
 夜の盟主は切りだす。
「どうするか決まったのか」
「いいえ」
 問われた言葉に、イーデルト・クローデリアは向き合った。首を振る。
「いいえ。夜の盟主」
「そうか」
「早く決めろとは仰らないのですね」
「猶予は授けると言った。そう長くはとれぬがな。その間であれば、決める時期を決めるのもまたお前だ。私ではない」
 夜風に吹かれた木の葉がざらりと震える。目を凝らしても、闇に紛れる夜の盟主の姿は見当たらない。イーデルト・クローデリアはひそやかに息を吸った。夜に向かって言葉を繰る。
「父と母はほっとしていました」
「だろうな」
 イーデルト・クローデリアは眉尻を落とした。
「あなたのおかげです、夜の盟主。私は両親の名誉を傷つけずにすみました」
 夜の盟主に付された猶予は、そのまま彼女が夜の神殿に留まる理由となった。行く当てをなくさなかった娘は、神の使い子イーデルトと認められたわけではなかったが、異界の迷い子クローデリアとして神に邪険にされたわけでもない。異界の迷い子クローデリアを出した家と両親が糾弾されることもなかった。
「感謝しています。この時間を」
 イーデルト・クローデリアは不格好な瞼を閉じて、闇の向こうへ深々と頭を下げた。焚き火の光を灯した娘の長い金の髪が、石床に細やかにこすれて広がる。
 ふん、と夜の盟主は鼻白んだ。
「夜の盟主?」
「グラーチェだ。その称号は、私には随分と荷が勝ちすぎる。かの神の名を預かるには、この身はあまりにも不相応だ」
 イーデルト・クローデリアは言葉を探して、静かな葉擦れのざわめきを纏う闇の内を見つめた。思考を巡らせるのもままならない。不思議な響きに、彼女には聞こえた。
「夜の盟主ではないのですか」
「言われはじめたのはここ数百年だ。夜しか渡れない。たったそれだけのことだよ、イーデルト・クローデリア。朝のと昼のが、どうかまでは知らないがな。少なくとも私は、お前たちが気にかけねばならない存在でもない」
「よく、わかりません」
 夜の盟主は大気を揺らしゆったりと笑う。
「それでいい、イーデルト・クローデリア。よい茶だった。いくらか痛みも和らいだ」
「グラーチェ」
 遠のこうとする気配を感じ、イーデルト・クローデリアは慌てて呼びかけた。揺らぎかけた暗がりが夜の静けさを取り戻す。
「私がここに来たら迷惑ですか」
「そう決めたのなら、そうしてもよい。だが、もしここに留まりたいと言うのなら、お前はお前そのもののままではいられなくなるよ。なんとなくお前にもわかっているのだろう。この場所は異界と同じくお前たちにとっては異質なところだ」
 娘の金の髪は所在なく夜風に吹かれた。銀と瑠璃の双眸が戸惑いに揺れる。瞼さえ歪でなければ完璧さを称えられただろう。夜の盟主はそろり、溜息をついた。
「朝昼夜とすべての色を一身に持ち合わせるとは希有なこと。もしもお前の姿がそうでなかったら、世界はもう少しお前に優しかったろう」
 宥めるように夜の盟主はイーデルト・クローデリアに言った。
「だが、決めきれないのは世界ではなくお前自身だよ、イーデルト・クローデリア。世界に答えを委ねてはいけない。急かしはしないが、いずれ決めねばならないことだ。でないと、世界そのものにお前は呑まれてしまう」
「どういう、意味?」
 イーデルト・クローデリアは震えを隠すように、広がる夜を縋り見た。纏わりつく空気が、ひんやりと肌をなぞる。
 夜の盟主は断言を避け、沈黙を保った。
 それどころか羽音を立てて無情にも遠ざかっていった夜の盟主に何も言えずに、イーデルト・クローデリアは肩を落とす。
 決める。決めなくては。わかっては、いる。
 それでも、夜の盟主に会いに来ることだけがイーデルト・クローデリアがここに存在していられる理由である以上、今はまだここに来るより他の何かなど、彼女には見当がつかなかった。