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 あれからずいぶんと時が流れた。

 トゥーアナ、やはりあなたの考えたことは的確だったらしいと俺たちの息子、ラルシュベルグが告げる。
 ラルーは母という存在が居ないことに寂しさを感じてはいたが、母が居た記憶を持たない分、そのことに対する悲しみ方を知らなかったようだ。ラルーはむしろ自分の乳母であったメレディが死んだことを嘆き悲しんでいた。
 メレディがいなくなってしまった今、トゥーアナのことを自ら語ろうとする者もまた、居なくなってしまった。
 そのことが酷く哀しい。ラルーが母のことを覚えていないことが、まるでトゥーアナが存在しなかったかのようで。
 ラルシュベルグの存在こそが、トゥーアナがいたことの証でもあるはずなのに。
 だから、あの時、俺は顔をあげてしまったのだろう。懐かしさの香る旋律にいなくなった彼女の面影を重ねてしまったのだろう。
 気がついたら俺は口を開いていた。
「その歌は……」
 王城に招かれていた吟遊詩人は歌をやめた。大きな帽子を取り外し、胸に当てると、他方の手を水平に掲げ、大げさに腰を折る。
 顔を上げた吟遊詩人は笑みを刻んだ。
「おや、王様。この歌をご存知で?」
 俺はただ静かに頷きを返す。
「これは今は亡き国、ルメンディアの民謡歌。“眠れぬ夜の子守歌”にございます」
 歌うようにそう告げた吟遊詩人は再び大きく礼をした。
「彼の国も今はあなたのもの。訪れた際に耳にされましたか?」
「いや」
 俺は一度ゆっくりと首を振った。遠い日々を噛みしめるように。
「それは彼女がよく歌っていた歌だ」
「“彼女”、ですか?」
「ラルシュベルグの母だ」
「ラルシュベルグ王子の御母上様ですか……」
 吟遊詩人はちらと俺の隣に座るラルーを見る。
 ラルーの方も吟遊詩人を注視していた。
 これはメレディがラルーによく歌い聴かせていた歌でもある。ラルーもまた思うところがあるのだろう。
「失礼を申し上げたら、申し訳ありません。ですが、あなたは彼の王女を厭っていたはずでは? 王女を断罪したルメンディアの民をあなたは罪に問わなかった」
「ああ、そんな日もあったな」
 懐かしさに思わず笑みが零れる。
「では、あなたは民を裏切り、自国を滅ぼした王女を愛していたのですか?」
「トゥーアナは民を裏切りたかったわけではなかったのだ」
 吟遊詩人が「はて」と首を傾げる。それだけの動作にもかかわらず、なんとも滑稽に、酷くわざとらしく。
「それはここにいる誰もが知るところ。結果として、彼女はルメンディアの民を戦から守ったのだ」
 周りを見渡す吟遊詩人に皆の表情が真実を告げる。ラルーにとってもまた、母を知らないながらも何度もメレディに語り聞かされていた話だった。その表情に戸惑いはなく、彼は自信を持ってしかと頷く。
「愛したかのかと聞かれれば、愛したと答えるしかないな。あれにはすっかり捕らわれた」
 かつて、彼女が宣言した通り。
 いつの間にか捕らわれて、逃れることは今も許されない。逃げたいなどとも思わないが、俺を捕らえた彼女自身は暖かな記憶の一部へと今ではすっかり姿を変えてしまった。
「ほう、それは面白い」
 口に片手を当て、吟遊詩人はにんまりと笑う。
「ぜひ、お聞かせ願いたい。私は真《まこと》に興味があります。そうですね、もし、お聞かせくださるのなら、代わりに広めてさしあげましょう。民は王女が自分たちを裏切ったと思っている。その考えを、完全に変えることは難しい。けれど、せめてあなたが王女を愛していたという事実。それだけは歌い、広めましょう。この世界の隅々までも、歌って届けてさしあげましょう」
「お前は世界をまわるのか?」
「ええ、もちろんですとも。それが私らの役目。歌って紡ぐは古《いにしえ》の事。既に終わった物語。歌は絶えず次代へ渡る。私が死すとも歌だけは、歌い継がれて残るでしょう」
 吟遊詩人の翠の双眸がこちらを見据えて光る。
 彼女という存在が確かにあったと残すこと。それがお前の望みだろう、と。

 全くもってその通りだ。
 俺はトゥーアナが確かに生きた証を残したかった。
 あの日俺の元へとやって来た、ただ唯一の王女のことを。
 俺はふっと口の端をあげる。
「いいだろう。全てを語ってやる。お前が望む真実をな。その代り、必ず歌い継げ。それが条件だ」
 吟遊詩人は片手に持っていた帽子をかぶった。大きなつばの陰に隠れた彼の表情は窺えない。ただ、その口元に刻まれた笑み以外は。

「取引成立、ですね。歌い継ぐほどの逸材には滅多にお目に掛かれない。きっとお約束いたしましょう。陛下とあなたの王女の物語、必ず歌い続けると」

*****

 吟遊詩人によってつくられた歌は、ほどなくして民の間に流れ始めた。
 それは、過ぎ去りし日のほんのひとかけらにしか成り得はしない。
 きっと時が経てば己の国を滅ぼした愚かな王女の名など忘れ去られてしまうだろう。
 その王女を愛して泣いた王の名など受け継がれることも無いだろう。
 けれど、せめて、紡がれる歌の中で、トゥーアナの想いがわずかでも生き続けることができるのなら。
 そう願ってやまないのは、やはり愚かなことなのだろうか。
 だが、俺は彼女に返したかったのだ。
 ただ一つだけ、彼女が俺だけに残してくれた想いへと。
 トゥーアナは最期に微笑んだ。
 俺の想いが確かに届いていたのだと。
 彼女が『幸せだった』と伝えたかったのなら。

 俺は、あえて言おう。

 確かに『彼女は幸せに暮らしたのだ』と。