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 部屋を後にしてすぐ、自身の手を見下ろした。付着しているのは、粒子の細かな白い粉。いつついたのかと、訝しく思う。
 それに、トゥーアナ。
 彼女の肌に残されていた軌跡。
 赤く鮮やかなものではなく、薄くなりつつはあったが確かに付けられた薄紫の無数の印。
 そのどれもが、穏やかなものでない。鬱血したもの中には、指や歯痕と知れる痣まで混じっていた。
 この国ケーアンリーブへトゥーアナが来て一週間。その間、彼女はずっと牢の中にいた。
 つまりは、ここへ来るよりも前。一週間以上たってもなお残るほど確かに、痕をつけられたことになる。
 それは、明らかに自分以外の誰かが彼女の肌に触れた証だった。
 一体どういうことなのか。
「ガーレリデス様」
 唐突にかけられた声に、答えの出ない思考から顔をあげる。いつから部屋の前に侍っていたのか。回廊の壁に寄り添うように、そこには彼の王女の老侍女が立っていた。
「この度のご厚意ありがたく存じます」
 それが先程、侍従に頼んで知らせたことを指しているのだと察し、軽く頷く。
「一時的なものだ。それに恩を感じる必要はない」
「ええ、それでも。トゥーアナ様へのお心遣い本当にいたみいります」
 深く頭を下げるメレディに、先に見た王女の姿が甦った。
「それよりも、あなたに聞きたいことがある。王女のあの痣のことだが……」
 告げれば、メレディは顔をあげ、さっ、と顔色を変えた。
「トゥーアナ様が、あなた様にお話しになったのですか?」
 硬い顔をして問う老侍女に深く頷きを返す。
 トゥーアナからは、何も聞いてはいない。何も話さなかった。
 だが、この際、そこはどちらでもよい。
 やはり、この老侍女は、すべてを知っているのだ。
「はたき粉で隠してはみましたが、やはり無駄でしたか……」
 白い粉の正体はそれか、と逡巡していると、メレディはどこか安堵したようにほっと溜息をついた。
「ですが、これで少し安心いたしました。トゥーアナ様は、あなた様に話すことができたのですね。よかった。あれは、お一人で抱えるには恐ろしい、忌まわしい記憶にございますもの。本当に」
 最後の方は、まるで独語だった。かすれた声でなんとか言葉を繋げながら、王女と同じようにメレディもまた身震いをする。
「少し場所を変えよう。あまりひどくトゥーアナに問うことができなかった。あなたが話してくれるか? 知っていること。ありのまま、すべてを。あの国で、何が起こったのか」
 穏やかに微笑む彼女が国を滅ぼすこととなってしまった理由を。


「一体あなたは何を考えているのですか!」
 宰相であるバロフの怒声を無視して亡国の王女の老侍女――メレディに席に座るよう促す。
「別に何も起こらなかったから問題はないだろう」
「御身に何か起こってからでは遅いということなど、わかりきっているでしょう! あのような姫と床を共にするなど軽率にも程があります!」
 しれっと言ってみたが、それは逆に奴の怒りを煽るだけだった。
 額に青筋が浮き立って見える。そんな気がするほど彼は苛立っていた。
 こうなると思ったからこそ昨夜のことは、バロフには言わず、さっさと済ませる予定だったのだ。
 だが、状況が変わった。
 バロフにも聞いておいてもらう必要がある。
 そう判断したから、あえてここへ呼んだ。

 人払いをかけた王の執務室に残るのは、敵国であったルメンディア王国侍女のメレディ、宰相であるバロフ、そして王である己自身の三人のみ。
 気詰りな雰囲気が流れる中、応接用の椅子に腰かけていたメレディが「恐れながら」と前置きをし、バロフを睨み上げた。
「我が君はそのような無粋な真似は致しません。トゥーアナ様を侮辱するような勝手な憶測はおやめ頂きますよう」
 長年王家に仕えてきた者の貫禄か。ある種の矜持すら称えて、メレディは静かに言い放った。
 対して、バロフは臆することも、詫びることもない。感情を隠しもせず、冷ややかな目でメレディを見返した。
「そちらこそ、そういった類の憶測を呼ぶような軽率な行動はなさいませぬよう」
 平行線を辿りそうな睨みあいに辟易しつつ、バロフにも席に着くよう命じる。
「とにかく今はメレディ殿の話を聞くのが先だ」
 あからさまに当て付けの溜息をつきながら席についたバロフを横目で確認して、メレディと対峙する。
「ではメレディ殿、話を」
 老侍女は一つ首肯してから、その口を開いた。
「あなた様方は、我がルメンディア王国に跡目の王子がいたことはご存知ですよね」
 メレディの言葉に俺もバロフも頷く。
 トゥーアナとこの侍女が持ってきた首の一つこそがその王子のものだ。いまさら何を確認する必要があるというのか。
 訝しげに眉を顰めた俺とバロフを目に留め確かめると、メレディはさらに問いを重ねた。
「それでは、ルメンディア王家には跡目の王子以外他に王子がいなかったことも、もちろんご存知ですよね」
「ああ、知っている。生まれた他の王子は不幸にも、すべて病死されたとか」
 病死――あるいは、不慮の事故。
 この世界ではそう珍しいことでもない。
 王位を手に入れるために他の誰かが手を下すことなどよくあること。
 そう考えていたのが顔に出てしまっていたのだろう。メレディは物憂げに溜息をつき、再び話を切り出した。
「お察しのとおりです。跡目の王子であったリーアン殿下以外の王子はすべてリーアン殿下の手によってその御命を絶たれました。
 王子たちが一掃されたのはもう五年も前のこと。継承権第三位であったリーアン殿下が御年二十一歳の時のことです。記録にはもちろん残されてなどおりません。父王陛下は、どこかでお気付きになりつつも不名誉なこととして王子たちの死を病死と書き変えました」
 やはり、か。
 バロフも同じことを思ったらしく、興味なさそうに肩を竦めている。
「トゥーアナ様がここを訪れた際、何と仰られたか覚えておいでですか?」
 質問の意図がつかめず再び眉を寄せると、メレディは自ら答えを紡ぎ出した。
「トゥーアナ様は“王族はトゥーアナ様を除いて命ある者はない”と仰られました。
 つまりはこういうことなのです。王族は王、王妃及び王子、王女だけではなく、王弟殿下そして、それに連なる王族全ての者がいない、と」
 王女がこの城へとやって来たあの日、あの時、告げられた端的な言葉に込められた真実に息を呑む。
「つまり、それは……」
「そうです。すべては五年前に遡ります。五年前、リーアン殿下が王家に少しでも関係のあるすべての者を次々と亡き者にしはじめたあの恐ろしい日々。女も子も、継承権の順位どころか、その有無すら関係なく数十名もいた王族が、お二人を残してすべて殺されました。
 そのお一人、当時すでに老齢であられた父王陛下は命を取り留めましたが、それもリーアン殿下の思惑があってのことです。いくら他の者を排除したとはいえ、継承の証の剣がなければ王としては認められません。それは、私たちルメンディアの民にとってみれば、議会を脅したところで覆せるようなものでもないのです。代々王によって受け継がれる証は父王陛下に管理され、その時はまだリーアン殿下にその在りかが知らされてはいなかった。ですから、リーアン殿下は父王陛下を廃したくても廃せなかった、というのが実情であったのかもしれません。
 そうしてお二方目、王族が殺されていった中、王以外に唯一生き残ったのが……」
「トゥーアナ」
 思わず口にしていた彼女の王女の名にメレディは重々しく頷いた。
「そう、トゥーアナ様。リーアン殿下はトゥーアナ様のお命と引き換えにある条件を彼の姫に求めました。けれど、それは十六歳であられたトゥーアナ様にとって恐ろしく忌まわしい日々の始まり。地獄に身を落とすのと同意義だったのです」