五、移ろいを幾返りも繰る【2】


 冬枯れの枝間を抜けた矢は勢いよく空を切って、ツムドリの胸を射抜いた。
 どさり、と地面に落ちてきたツムドリの周りに、斑模様の茶羽が落ち葉に混じり散らばる。曇天の下を行くツムドリの群れは欠けた穴を補いはしたものの、隊列を崩すことなく彼らの頭上を横切ってゆく。
 実己は数歩先に落ちたツムドリの長い首を掴んで拾い上げると、すんなりとまろみを帯びた渡り鳥の胸に刺さった矢を引き抜いた。あかあかと一度大きく吹き零れた血が、胸の羽毛に沁み込んで、したたと落ち葉を濡らす。彼はツムドリの水かきのある黒い脚を縄で縛ってしまうと、背負い籠にくくりつけた。
 あかい掌が、そ、と逆さ吊りの鳥の茶羽に触れる。白雪に似た斑点の散る羽の流れに沿って、少女はそわそわとツムドリの滑らかな背に手を滑らせ、鳥の羽毛の柔らかさに感じ入っているようだった。
「すごい。あったか。大きいね」
「そうだろう。ツムは汁にしたらうまいぞ。焼いてもいい」
「いいね。ツムはとてもよい」
 紅は鼻先をツムドリの背羽に埋めて匂いを嗅ぐように息を吸う。実己は破顔した。むしった羽は袋に詰めて枕にしてやろうと彼は心に留める。近頃山から吹き下ろす風が随分と冷たくなった。一羽分では少し足りないかもしれないが、紅が抱えて寝る分にはちょうどいいように思えた。本当は羽を中に詰めて袍を作ってやれたらいいのだろうが、針仕事などしたことがない身としては袍の作り方どうこうよりも、袋の端を縫うだけで精一杯である。
 まぁ、羽が足りない分にはもう一羽何か仕留めればよいだろう、と実己は気楽に考えた。
 草鞋の下で枯れ葉が朽ちる。紅は抱きしめていたツムドリの羽間からぱっと顔を起こした。
「行こうか?」
 面を上向かせたまま、少女は実己に問う。尋ねられてはじめて実己は己の重心がいつの間にやら左足へ傾いでいたことに気がついた。
 無邪気に問うてくる。彼女のその仕草さえなければ気付きもしなかったろう。彼の足元で葉が鳴らしたのは微かな音だった。
「ああ。そうだな、行こうか」
「うん、行こうか」
 繰り返し、ツムドリの羽から手を離した少女に、実己は見えるはずのない頷きを返す。ひらと宙に浮いた紅の左手を取って、彼は山道を歩きだした。
 常緑の木を除いて葉を落としきってしまった木の多い山はどことなく閑散としていて物悲しい。なんとはなしに頭上を仰げば、枝間を縫って広がる空は雲一面に淡々とした光を孕ませ霞みがかっているよう見えた。
 かと思えば、歩くごとにさくりさくりと足元で崩れる落ち葉は赤みを残して目に鮮やかで、斜面一帯に折り重なる一葉一葉がつい先頃まで山を染め上げていた紅葉をそっくり映し込み、あかあかと広がっている。
 山中にも霜は等しく降りたのだろうか。山道の斜面を覆い尽くす枯れ葉は、枝間から漏れ入る薄日の中、表面を艶やかに色めかせている。今日のように薄雲りではなく、気持ちよく空が晴れ渡っていたのなら、さぞ眩しかったろうと思われた。
 積もった落ち葉はかさこそと乾いた音を立てる割に、ふかふかと綿を重ねたような柔らかさで、山道を登る彼らの足並みを受け止める。
 少女にはそれが、妙に嬉しいらしかった。仰々しく足を踏み降ろし、飛び跳ねかねない勢いで歩を繰り出している。
 紅が地面を踏みしめるごとに、繋いだ腕が上下に振られる。ぐいぐいと引っ張られる腕にあわせて、実己は堪え切れずに喉を鳴らした。
「おかしいの、実己?」
 大袈裟な素振りで歩き続けながら、紅は問うた。「ああ」と、実己は返して、己も大きく足を踏みつけてみる。がさり、と葉はいっそう音を立てて、衝撃を受け止めきれなかった葉が周りへ飛び散る。くすくすと紅は口に手を当てて笑い、飛び跳ねながら歩き、歩く。
「そうだね、楽しい」
「よい時期に来た」
 実己は深い心地を覚えて、自身を取り囲む景色を見はるかす。
 連なる木立は途切れることなく、色鮮やかな葉の斜面がどこまでも広がっていた。
 山に入る者たちによって長年踏み均されたせいであろう。彼らが辿る道だけは、妙にぽっかりと枝間が開けて真っ直ぐに続いている。
 道の枯れ葉を掃くように風が一本通り抜けた。空を渡る鳥につられて、時折、鳥が枝を弾く。姿は見えずとも冬支度にいそしむ動物は行く道々で動きまわっている。
 一度、己が来た場所を見ておきたいと思った。村から帰って来たあの日から漠然と考え、内に巣くっていたものである。
 見ておかなければならない。
 それは、溜まっていた澱を飲み下すためでもあり、だからこそ、こんなにも平素と変わらぬ心持ちでいられるとは予想だにしなかった。
『少し奥まで山に入ろうと思う』
 だから遅くなる、と実己が紅に告げたのは昨夕のことだった。
 家の裏手にほとんど繋がるようにして伸びている山に入るのは、何も今回がはじめてのことではない。むしろ、山菜や木の実、獣と食料に富んだ山に入る機会はこれまでにも頻繁にあった。ただ、周囲の地理を把握できるほど高く、開けた場所に出るのは避けていたように思う。そういった場所に行きつきそうになるたびに、彼の歩みは鈍くなり、終いには向きを変えてきた。
 今いる場所は、どこなのか。河の流れから漠然と方角は掴めるが、定かではない。何しろ闇雲に逃げていたのだ。当初の予定と比べると随分と道筋も狂っていただろう。だが、そう流されたはずでもないはずだった。
 塩屋が双日ふたひの兵を見たと言っていたくらいだ。場所はそう離れていないに違いない。
 この場所から去るべきならば、知っておく必要があった。辿るべき道順のおおよその方角を決めなければならない。少なくとも実己には、もう谷津牙やつがであったはずの場所にも、郷国である茂久那もくなにも身を寄せる場所はなく、寄せるつもりもなかった。一人であれば、いっそ双日に遭遇した方がよいようにも思える。
 あるいは、この先も変わらずここに居続けるならばなおのこと。
 実己が持つ物の中で、今も手元に残ったのは刀と――帯裏に縫い付けてあった金銭だけだ。水に流されいくらか欠けたが、残った分でもこのまま細々と暮らせばあと数年は余裕があろう。しかし、ないに越したことはなかった。
 途中で金銭を埋めてきた場所がある。あれは灘たちと別れる前だった。馬に載せていたものと、灘と科の所持していた分も含めて、祠のようなうろのある大木の根元に埋めたのだ。
「実己?」
 戸惑いがちに名を呼ばれて、実己は目線を傍らを歩く幼い少女に下げる。
 目を移せば偽りのない丸い茶眸が、こちらを見上げていた。歩くたびに、木漏れ日がちらちらとまたたき、やはり焦点はあわぬ眼差しがますます透き通ってゆく。
 なんでもない、と実己は嘯いた。知らず和んだ口の端を、彼は繋いでいない方の手で覆う。いつの間にやら顔半分を覆う鬱陶しい髭にも慣れ切ってしまった。ざらりと痛んだ長い髭の手触りに、彼はついの間、瞑目した。