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五、移ろいを幾返りも繰る【3】


 付いていく、と言い出したのは、紅だった。
 夕食時に帰りが遅くなる旨を告げた実己を前にして、寸の間、考える素振りを見せた紅は、そう口にし、以降それきり何かを尋ねることもない。よそよそしさの漂う静けさの中、彼女は黙々と夕飯を食べ終えると、何事もなかったように食器を片付けはじめた。
 少女よりも早く、夕飯を食べ終えていた実己は、紅が食卓から立ち上がったのを追って、重ねた食器を厨へ運ぶ。
 珍しいことだと思った。いつもは気のままに、畑に河原、裏山と一人でに出かけては、歩きまわっている彼女と山に入ったことは、これまでに数えるほどもない。そのうちのいくらかも、裏山の周りで遊んでいた紅と偶然行き当たったからだ。
 だが、いざ出かける段になると、紅はすでに携えていく昼飯まで拵えすっかり用意を整えていた。艶めいたガルムの大葉に包まれた包みは、どうやら朝食の傍ら作られたものらしく、触れてみると冷めかけのほんのりとした温もりが掌を伝わって来る。実己は紅の器用さに感心するのと同時に、彼女が本気で一緒に山に入るつもりなのを出かける間際になって、改めて知ったのだ。


「大したことじゃないんだ」
 髭を擦って誤魔化した実己の方へ面を上げて、紅は「そう?」と首を傾ぐ。
 飽いてしまったのか、葉を鳴らし鳴らし歩くのは、もうやめにしたようだった。いつもと同じ小振りな歩幅で進む。葉は踏みしだかれるままにかさこそと崩れる慎ましい音に戻った。
 代わりに、少女は何かを探るように口をつぐんだ。不意に顔を左に背けた彼女を追って、実己が視線を転じれば、その先には背の高い草間に隠れるようにして人一人がようやく通れるほどの細い横道が延びている。流れてきた風に真正面から行き当たった。
「ああ」
 細い前髪を風に幾方向にも散されながら、少女は確かめるように笑みを広げた。
「ラコタの花が咲いているね」
「ラコタ?」
「うん。お茶にすると冷たい感じがして、喉が楽になる。よかった」
 紅は透き通る茶眸で小道の先を見据える。
「まだちゃんと咲いていた。もしかしたらもう遅いかもと思ったから。ここで咲いているなら、教えた場所はもっとちゃんと咲いていたね」
 よかった、と一人でごちて、少女はいっそう軽やかに歩み出した。何のことだったか。取り残された実己は、先へ先へと進みゆく小さな背中に呼びかける。
「紅」
 立ち止まり、振り返った紅は、耳を澄ますようにして、木立の合間に佇む。
「行かなくてよかったのか?」
「うん。もうわかったから、いい。実己は行きたかった?」
 思いがけず問い返され、実己はつい今しがた紅が見据えていた方向へ顔を向けた。風に揺すられるたび、生い茂る草が道に向かって大きく揺れ、互い違いに辞儀をしあっている。まるで小道の先を遮るようだ。いくら目を凝らしても、紅の言う花の姿はここからは見えない。だと言うのに、吹き流れた風の中を澄んだ香りがかすかに渡った気がした。
「いや、いい」
 彼は首を横に凪ぐ。首を振りかけ、思い直した実己は「そうだな」とひとりごちた。
 小道に沿ってうっすらと開いた木の葉から覗いている曇天には、切れ間のない雲が連なり延びている。気のままに流れる薄雲の緩やかな速度に気がついて、彼は頷いた。
「また今度。連れて行ってくれないか」
「いいよ。今度ね」
 考える間もなく、紅はくったくなく笑って応じて見せる。くるりと踵を返した彼女の身に伴って、紅色の裾が翻った。てん。てん、と斜面を上がる紅の衣が、鮮やかに落ち葉満ちる斜面に溶け入って進む。ひとしきりそれを眺めていた実己は、思い出したように歩を踏み出した。


 道を塞ぐ二つの大岩を、取り巻く木の根を頼りに登る。紅を先に岩の上へ押しやった実己は、岩を登り切った途端、急に開けた視界に呆気にとられた。山の頂上までもう少しあるが、岩があるばかりで、これより向こうに道はない。代わりにここが終点だと言わんばかりの平らかな草地が広がっていた。
 家の庭よりいくらか広いだけの草地には風を遮る木が一本もなく、吹きつける強風は本当に気の流れなのか轟音なのかもはやわからない。
 実己は眼下の光景に惹かれるように前に出た。
 どこから流れてきたのか方角しか知れなかった河の流れが見渡せる。大きく芦野を巡って蛇行する河は、今立つ裏山のさらに向こうに幾重も連なる山々の谷間を通って、山間に消えた。
 闇雲に走ったつもりだった。その上、河にも流された。
 それでも方角だけはあっていたのだな、と実己はどこか他人事のように意外に感じた。
 何度も繰り返し仲間と確認し覚えてしまった地図の一片がそのまま足元より遙かに下に広がっている。
 あとどれだけ、とあの時、同仁は言っていたか。目指していた場所まであと五日もかからなかった。
 実己は足を踏み出す。吹き込むままに強風を吸い込めば、肺がぎりぎりと軋んだ。
 落ち葉を踏みしだしていた時分とは打って変わって、地面を探りながら、向かい来る風に拮抗して歩む紅が、立ち尽くす実己の横を通り過ぎる。
「紅、そこ」
 穴があいている、という実己の指摘は間に合わなかった。探っていた足先を見事に地面の窪みにはまらせ、少女がまろぶ。あまりにも見事な転びっぷりに、実己は目を見開いた。
 風にはためいて膨らんでいる褪せた紅色の袖を捕まえて、実己は紅を引き上げる。
「平気か」
「うううん」
 引き上げられた紅の方は、立ち上がりざまに風に煽られいくらかよろめきながらも、支えられている腕を軸にして再び地面に足裏をつけた。足場の安定を確かめるように、二三足踏みをした彼女は「へいき」と顔を上げる。
 幸い傷も泥も付いてはいないが、正面から倒れた少女の顔のあちらこちらに草切れがまとわりついている。だというのに額に頬に鼻に草を張り付かせたまま、平気だと素面で言ってのけた彼女の素振りがどうにもちぐはぐに見えて、実己は噴き出した。
 止まらぬ笑い声に、紅はとうとう眉根を寄せる。皺の立った彼女の顔を、実己は手の腹で拭った。
「おかしなことになっていた」
「おかしなこと?」
 普段より数段大きな声で紅は尋ねてくる。びゅおうびゅおうと風が耳元を叩く。ばたばたとはためき続ける薄れた紅色の袖は、飛び立つ前の鳥に見えないこともない。実際、この強風の中では少女はいつ飛ばされてもおかしくはないようだった。「ああ」と答えながら、実己は紅の背を押しやって元来た山道へ取って返す。
 どんな、と肩越しに声を上げて問う紅の手を取って、実己はさっき登ったばかりの岩場に戻った。ここまで来れば、囲う木立の連なりが垣根となって風がずいぶんと弱まる。
 背負い籠をおろして岩の上に揃って座り、実己は取り損ねたらしい草切れを、絡まる彼女の髪から解いて振り払った。
「内緒だ」
 引きずっていた笑声を喉の奥で堪えてささめけば、紅は納得がいかなかったらしく口元を曲げた。
 やおら顔に手をやって、実己がしたとおりに紅は額に頬を辿る。実己が見ている前で、結局のところ何も探れなかったらしい紅は、ますます不可解になったと言わんばかりの表情で、溜息をついた。
「……息ができなくて大変だったのに」
「息?」
「風。びっくりするくらい強かったから」
「あぁ。さっきな。紅なんか、飛んでいきそうだった」
「飛ぶ? 私が? どうして。それがおかしかったの?」
「そうじゃないが。飛ばされそうだった」
「ふうん。変なの。飛ばないのに」
 変なの、とやはり紅は納得のいかない顔で繰り返す。
 実己の見ている前で、はたはたと少女の睫がはためいた。両腕を伸ばし、目の前で掌をかざす。
 ふいに訪れる彼女の脈絡のない言動には慣れているものの、この時も少女の眼前でひらめき続ける掌の意味を取り損ねて、実己はしばらくの間それを眺めていた。
 手に縁取られた影が顔に落ちる。ひらり。ひらり。ちかり。ちかり。加減を変え、影を繰るように手を伸ばす紅の指の先に、縁取られた光を見て取って、実己は「ああ」と得心した。
「晴れたな」
 枝の隙間から覗く空は、まだ雲が多く残るものの青く晴れ渡りはじめた。
「すごく、おもしろいね」
 眩そうに目を細めて、紅は徐々に増しゆく光に手を伸ばす。
「空はいつも面白い」
 ひどく唐突に、実己は紅の世界を見てみたいと思った。
 狂おしいほどに焦がれて、手を伸ばす。その衝動は実己にはない。たとえば目を瞑り、視界を閉ざして、彼女の世界を真似ながら目を凝らしても、それは紅が知る世界とはほど遠いように思えた。
「きっと紅が見ているこの世は、俺が見ているものよりもはるかに色鮮やかなんだろうな」
 いっそ憧憬すら抱く。それはどんな表情をしているのであろうと。実己にしてみれば、紅は紅、青は青としか映らない。美しいと思うことは当然あるものの、それはそれ自体であり、他には想像もつかなかった。
「よく分からない。だって私が分かるのは光だよ。色はよく分からない」
「さあ、俺にもよくは分からないが」
 ただ一度、紅の世界を実己は見てみたいと思った。目の見えない彼女の世界を見たいなど、ひどく妙ではあるのだが。
 色のない鮮やかな世界を見てみたいと思う。
 もういいの、と紅はささめきに似た声で呟いた。
「いいの? ここで」
「ああ。ありがとう。お陰で着けた。ここまで来れたら充分だ」
 気遣うような仕草にしかと頷き返してはじめて向かい合う景色に目が向いた。
「どこもかしこもまっかだ」
 それはもういっそ呆れるほど。目が眩むばかりに紅色に朽ちた葉が折り重なっている。
「紅はこれと同じだよね」
 紅は身に纏った上衣に滑らかに手を滑らせる。摩る手を止めて、ふと思い出したように彼女は「なら」と頬を緩ませた。
「綺麗だねぇ」
 斜面に沿って鮮やかな紅の葉の錦が裾野を広げる。枝間から差し降りる木漏れ日に揺らされ、鮮やかに色合いを移ろわせる艶やかな葉。岩に腰掛けた二人は、揃ってそれを眺め続けた。


 庭にしがみつく枯れ草のそこかしこに夕暮れの気配が満ちはじめた。
 岩の上で昼飯をとった後、背負い籠いっぱいに木の実や果実を拾い集め、帰りに行き交ったツムドリをもう一羽ぶら下げて家に戻ってきた実己は、記憶にないヒィマメの束が戸口に立てかけられているのに気付き、戸にかけた手を止めた。
「なんだ、これ」
 昨日今日で採ったばかりのものなのか、細くすっきりとした鞘も茎もみずみずしい緑色をしている。ちょうど夕日に照らされているせいで、鞘はよけいつやつやと光沢を帯びていた。
「どうしたの」
 問うたそのまま、家の戸口に寄った紅は、爪先にヒィマメの鞘が当たったのだろう。「ああ」と理解した様子で腰を屈め、躊躇いなく艶やかなヒィマメの束を胸に抱いた。
「お豆だ。ヒィマメかな。他の豆はもうないもんね。煮付けにしようか。草臭い。きっとおいしいね」
「心当たりがあるのか?」
「心当たり?」
「誰がヒィマメをここに置いたか、紅は知っているのか?」
 少なくとも実己はこの辺りで彼女を訪ねてくる人間を見たことがない。村に下りてさえ行きあったのは、少女のことを快く思わない者たちばかりだった。にもかかわらず、ヒィマメを抱いた紅はあっさりと「加地かじさんだよ」と言い切る。
「前に実己に聞いたでしょう? 加地さんいるって。いらないって、実己は言ったけど」
「そういえば」
 そんなことを聞かれた気がする。まだ来て日が経たないうちのことだった。矢傷が膿んで熱を持ち、朦朧としていたことも相まって、すっかり忘れてしまっていたが。
「医者だったか? 薬を持ってくると言っていたよな」
「そう。薬は嫌いだけど、これも加地さん。家の前にあると母さんが“加地さんだわ”って言っていた。同じ加地さん。薬の代わりに持ってくることもあるよ」
「よく来るのか?」
「よくは来ないよ。でもお薬じゃないからヒィマメは嬉しいよね。村に行かなくてもいいしね」
「ふうん。そうか」
「ふうん。そうなの!」
 実己の問いを真似て返して、紅はくすくすと口に手を当て喉で笑う。ヒィマメを抱いているせいか、彼女が身体を揺するたびに、豆の鞘はさかさかと鳴った。
「近いうちに、その“加地さん”はまた来るだろうか」
 実己が尋ねれば、紅は「さぁ」と気が向かなそうに曖昧に呟く。
「来てほしいの?」
 問いながら仰向いた澄みきった眼が定まりなく実己の目を射抜いた。この国の誰もが持つ茶の双眸。茶そのものの色をした彼女のその深淵には、何も捉えていないように見え、反らしがたい清冽さがいつだってある。
「そうだなぁ」
 答えを出す代わりに、実己は紅の肩に手を乗せた。寸の間黙考しても、問われた通り会ってみたいのか、しばらくこのままでありたいのか、はっきりとした気持ちはわからない。
「早く入ろう。冷えてしまう」
 聞いてみたいことはあった。いつか会った時には聞いてみたいと自然と胸の内に浮かぶくらいには。
 誤魔化すように、実己は紅の頭を撫でた。振り仰いだ紅が口を開くよりも先に、彼女の背を押しやって家の中へ入り、実己は後ろ手に戸を閉める。

 その日、秋の間中裏山の広葉樹を彩っていた鮮やかな色葉は一つ残らず地面に降りた。