六、澄み落ちる宵と標灯【3】


「よろしかったのですか」
 膝をついた莎邇さじは、すっかり冷たくなってしまった茶を盆に下げながら、潅茄邇かんなじへ問いかけた。
 蔀戸の側に立つ師は、こちらに背を向けているせいもあり、莎邇の位置からでは、まるで表情が伺えない。
 何か考えているのか。はたまた何も考えてはいないのか。
 腕を組み、蔀戸の隙間から、降り続く雨の様をしきりに眺めているらしい潅茄邇は「んん」と一つ呻いたきりで、口を開く様子すらなかった。
 莎邇は板間に置いた盆を脇へ滑らせ、背筋を伸ばした。
 降りやまぬ雨音が、しじまに広がり満ちてゆく。古く錆きった雨どいが、勢いに耐えきれなくなったのか、ごぼり、ごぼごぼりと不規則に水を吐き出していた。
 蔀戸の隙から吹きこんでくる湿りを帯びた凍風が、顔の前を行きすぎるのを感じながら、莎邇は耳を澄ました。
 いくら耳をそばだてても、続く廊下の先から戻ってくる者の気配はない。この堂、唯一の客間へ客を案内しにいった弟の洲邇すじは、そのまま客人の世話を焼いているらしかった。
 きっと今晩は客室の前の廊下を陣取って、内にいる客人の一挙手一動に神経を尖らせながら、結局は寝ずの番をしてしまうに違いない。
 潅茄邇と莎邇が、ふもとの堂を訪ねてから戻るまで半日ほどの間が空いていた。
 あの男が、一体いつからそこにいたのかは知れない。
 だが、この寒雨の下、客人を放っておいたことに関して、洲邇が少なくない負い目を感じていることは間違いなかった。
 いずれにせよ、あの雨の只中、雨具の一つもつけず、直立している様は、遠目から見ても異様であった。
 もしも、他の兄弟弟子たちがしているように、皆で、ふもとの堂へ身を寄せた後だったとしても、あの男は、不在を確かめるでも、かと言って、帰るでもなく、ただ立ち尽くしていたのではないかと。
 そのまま、春すら迎えてしまったのではないか、と。
 少なくとも莎邇には、そう感じられた。それだけの、危うさがあった。
 あれで心配性のきらいがある弟も、恐らく同じものをあの男の中に見たのだろう。 
 夕闇が迫っていた。
 あれほど激しかった雨もようやく落ち着きをみせたころ、潅茄邇は暗がりに居座る莎邇の姿に、わずかばかり目を瞠った。
「なんだ、まだいたのか」
「ええ。おりますよ」
 平素通りに莎邇が応じれば、師が暗がりの中でわずか笑った気配があった。
「大丈夫だ。儂もあれも、お前たちが心配するようにはなるまいよ。ここまで来るのに、時間をかけた割にあの姿だ。まぁ、……髭も髪も伸び放題。着ている衣も襤褸ではあるが、つぎはあててあるし、そうやつれてもいなかったろう。あれは、朝に起きて、食べて、動いて、夜には寝ている何よりの証拠であるし、それだけできているのなら、充分だ」
「そうでしょうか」
「そんなものだ」
 潅茄邇は鷹揚に頷いた。
「行こうか、莎邇。ここにいると冷える」
 蔀戸の側を離れた潅茄邇は、莎邇の背を叩いて、部屋の戸を開けはなった。莎邇は、盆を手に音なく立ちあがる。
「そうさなぁ。見送りついでに、儂らもふもとに下りようか」
 後ろについた莎邇を振り返らぬまま、潅茄邇は言った。
 莎邇は、前を歩く師の背に目を留めたまま、「そうですね」とささめいた。



 部屋の外に人の気配があった。
 おそらく洲邇であろうとあたりをつけながら、実己は彼が今しがた用意してくれたばかりの寝具へ潜りこんで、早々に横になることにした。
 あれから潅茄邇も、洲邇の兄だという莎邇も姿を現さない。代わりとでもいうように、この部屋に通されてから今まで、ほとんどつききりで実己の世話を焼いているのが洲邇であった。
 実己にその気は毛頭ないが、ふらりと現れたよく知らぬ客を放っておくのは、彼らにしてみれば、さすがに物騒だと思ったのだろう。
 いつの間にか雨も上がっていたらしい。重たげな枝葉が風に煽られて、屋根をかすめる音だけが、かすかばかり聞こえてくる。
 雨続きで、元より冷えていた空気は、夜になってぐんとその厳しさを増した。
 室外の人物が動く気配はない。このまま廊下に座り続けるのは辛かろうと、洲邇に声をかけようかとも思ったが、結局はやめておくことにした。
 それであの若者が納得するとも思えないし、何よりも瞼が重かった。掛け布の下に収まった今では、寝返りを打つことすら億劫でままならない。
 閉じた眼裏の暗がりに実己がようやく慣れた頃、浮かび上がったのは、声だった。
『あれが雪だったの?』
 実己が『そうだ』と頷けば、澄み渡る眼差しで宙を見つめた少女は、ふいに軒先へ向かって手を伸ばす。
 きらりと揺らいだ指先には晴れ渡った空が透かされ、広がる。だというのに辿る小さな掌は、見えぬ白雪に触れているかのようだった。
 日差しのもとにあるはずの、その姿こそが降り重ね積む雪のようだと思う。周りにあるものすべてを引き寄せ、吸い込む。音も色も光さえ消えて、その存在だけが際立つ。 
 目の眩む思いがした。
 潅茄邇を訪ねようと決めて間もなく、実己は紅華くれはなのよすがとなるものを何一つ持たないことに気がついた。遺髪の一筋もない。
 ただ、目の前の少女に纏わせた衣と髪紐だけが、紅華が存在した証として残っていた。
 実己は紅に頼んで、今は彼女のものである紅の衣の一部を譲ってもらうことにした。
 すっかり擦り切れて薄くなった紅の衣。端の千切れた部分を、実己は小刀で丹念に裁ってゆく。
 あっさりと実己に衣を明け渡した紅は、庭で遊んでいるらしかった。時折響く、泉を弾く水音を意識の片隅で聞きながら、全てを裁ち終えた実己は己が緊張していたことに気付いた。
 知らず、滲んでいた額の汗を、彼は腕で拭った。
 端を切り取った衣を広げると、丈の長さが揃ったせいか、前よりも見栄えがするようになった。かがりもせず、裁っただけだから、そのうちまたほつれがでてきてしまうだろうが、その衣を前にして、いつぶりにか美しいと思った。
 思った瞬間、目の開かれる思いが去来した。
 色褪せた衣。ところどころほどけて形が崩れてきた刺繍。
 それでも、丹念に丹念に洗い清められてきたのだと知れる薄紅色の衣に、実己はあの時、確かに救われたのだ。
 ――早く、と実己は、閉じた瞼を両腕で押し潰した。
 戻らねばならない。雪が降りだすよりも、ずっと早く。
 行け、と託して去っていった者たちが、おぼろげに映りこむ。
 許しを請うにはすでに遠く、いつまでも切り離しがたいほどには近い。
 悪い、と漏れた呻き声は果たしてすでに夢の中の出来事であったか。
 それでも、帰りたいのだ、と彼ははじめて強く望んだ。





 ざらざらと河の水が勢いに任せて流れ落ちていく。
 草鞋を脱ぎ、足裏で歩を確かめながら、慣れぬ道を水際から辿ってきた紅は、特徴のある草の香りを嗅いで、足を止めた。
「よかった」
 しゃがんで触れた石も、その下の地面も、すっかり乾いてしまっている。昨日、今日と晴れていたから、手をついた場所の小石は、どれも温もりを纏ってしっとりと手に心地よかった。
 雨が降ると水は思いもよらぬところまであがってくる。雨がやんで四日。近くの河の水が昨日の夕にようやっと引いたのを確認して、紅はこの場所へ様子見に来たのだ。
 ひたり、ひたり、と足裏で河原に広がる石を踏みしめ確かめた結果、水が届いていたのであろう近くの小石の下はまだ湿りを帯びていた。だから、すっかり乾いてしまっているこの辺りは、水がほとんどあがらなかったはずである。
 紅は安心して、「よかった」と繰り返した。
 それとはわからぬ程度にわずか、けれど奇妙に均されている場所を、ぽんぽんと両手で叩いて、少女は尻をつく。
「くれはなさま」
 紅は、あの日、実己が繰り返し呼んでいた名で語りかけ、近くに生えているガクレの群生を手遊びするように、いじった。
 ここがいい、と実己にガクレの近くを薦めたのは紅だ。
 元々強い香りを持つガクレの茎に連なる丸い葉は、擦れば擦るほどさらに香りが匂い立つ。
 あまりに匂いが強いせいか、虫どころか、獣すら、ガクレの近くに寄るのは嫌がる。
 暑い夏の夜などは、戸口を開け放つ代わりに、乾かし固めておいたガクレの葉を揉みほぐし、火をつけて寝ていた。そうすると、入ってくる虫は随分と減るし、いぶされた煙が戸口から入り込む風にのって部屋中に行き渡るので、そう長居したがるものもいない。だから、そうしなければならない、と母は言葉少なに言っていた。
 独特の臭みの中、母を近くに感じていた日々は、もういくらか遠い。
 母が連れられて行った先は、村の奥の野だと聞いていた。村を通らないといけないから、少女は母を埋めたと聞いたその場所へ行ったことがない。
 まだいくらか間は開いているが、ちょうどまっすぐ進んだこの先が村人が立ち入る領域との境となる。
 つまり、少女が立ち寄れるのが、ここまでだった。
 ただ、ここも家からはいくらか離れているので、河に用事があるだけならば、ここへ近寄る必要はそうないのだ。
 けれど、気がつけば足がひとりでに向いていたことがあった。
 近寄ってはいけない、あまり近寄ってはいけない、と母の言葉を胸のうちで繰り返して、立ち止まった場所に、あの日、実己とくれはなさまはいたのだ。
 時間をかけて掘られた大きな穴の中へ、動かなくなったその人が入った時に、少女は母もこうして地面の下にいるのだ、と話し聞かされていた意味をようやく知って、嬉しくなった。動かなくなって、話さなくなって、近寄れもしないけど、こうしてそこにいると触れられる場所が母にもあるのだ。
「母さんも、くれはなさまと同じだったらよかったのにね」
 数ある石に触れたまま、紅は一人話しかけた。
 何の同意も返らぬ代わりに、冷たい風が吹き抜ける。
 ぎゅうと身を縮めた少女は、自分でかがった袖先に触れた。袖も、裾も、破れてしまっているところは、実己にあげてしまった分、手に馴染んだ模様が消えてしまって寂しい。
 聞けなかったから、詳しいことは知らないが、紅の衣の切れ端を預けに行きたいのだとだけ、実己は紅に訳を話した。
 ここに埋まる、あの日動かなくなった人の――くれはなさまの切れ端を持って行った実己は

「誰?」

 少女が立ち上がったのと同時に、すぐ先であがったのは「ひっ」という短い悲鳴だった。
 ごつり、ごつり、と重たい音が、河原の石の中へ落ちて還っていく。
 ざり、と後ずさった足音のほうへ、紅は面をあげた。
 誰、と紅は立ち尽くしたまま、問う。その合間にも、相手はどんどん後ずさっていったようだった。
 実己でないことは、その足取りで、確かだった。その事実に落胆して、彼女は口の端を引き結ぶ。
 だけど、それならば誰なのであろう、と紅は不思議に思って、声の聞こえるほうへ、じっと耳を凝らした。
 紅が村へ極力近づいてはいけないと諭されたように、村人もまたこんなにすぐ近くまで来ることはめったにないはずだった。
 河の水際まで降りていったのか、縺れた足音が、派手な水音に変わった。
「頼む、許してくれ!」
 悪かった、俺が悪かったから、と上ずった声をあげはじめた相手の意味するところが、まるでわからなくて、紅は眉根を寄せた。
 少女は、口を開く。
 瞬間、あがった相手の凄まじい悲鳴と、頬をかすめた痛さに、紅は身を強張らせた。
「――このっ、妖女めっ!!」
 身体に打ち当たる痛みと共に、別の怨みのこもった声が聞こえてきて、少女は咄嗟に頭を庇って蹲った。
 いたい、という声は、喉に張り付いて、出てこない。
 知っている痛みだった。石だ、と教えてもらった。
 けれど、こんなところでは、ついぞ出会ったことのないものだったのに。
 あとから来た男が何がしかを叫んで河の中へ入っていく音がする。
 石がやんだその間際、紅はその場から駆けだした。