六、澄み落ちる宵と標灯【4】


「大丈夫よ。大丈夫だからね」
 向かい側で、母親は蒼白な顔に笑みを貼りつかせてささやいている。動かぬ息子の肩元にすがりつく彼女の声に押されて、加地かじは目の前に横たわる若者の喉元に触れた。
 閉じられた目蓋を指の腹で押し開き、眼球の度合いを確認する。水を吸った若者の衣は、凍えるように冷たい。同じほど冷たいはずの若者の腕は、不思議と温度を感じなかった。あぁ、折れているな、とどこか遠い場所から己のことを見下ろしているような、実感のない心地で悟る。加地は硬直をみせはじめている腕を若者の腹の上に戻した。
 息子の額の辺りを撫ぜながら、うわ言を繰り返す女の背後に立つ男を見あげ、加地は首を振る。
「残念だが」
 言えば、若者の父にあたるその男は疲労を漂わせ、溜め息をついた。
 ほら、と男は平坦な声で、妻の両肩をつかんで、やんわりと息子の身体から引き離そうと試みる。
「どうして。大丈夫よ。まだ大丈夫よ」
 混乱をきたしたふうに「ほら」と息子の額から頬を撫でさする母親の少し向こうでは、弔いの準備に集まりはじめた村の面々が、険しい顔をつきあわせ、声を低くし、今後の段取りについてささめきあっていた。
 加地が告げるまでもない。この冬のはじめの只中に河へ落ちたという若者は、ようやく引きあげられた時にはすでに息をしていなかった。前日まで少なくはない雨が降り続いていて河の水量が増していたのも悪かった。もしかしたら、河の上流にあたる山の上では未だ雨も降り続いていたのかもしれない。
 いつもは水量も膝に届くかどうかしかない穏やかな河であっても、今日のような日には、一度深みにはまってしまえば一気に流されてしまう。勢いが増していたのなら、なおさらだった。
 若者がとっくに死んでいるのは、はじめから誰の目にも明らかだった。それでも、と村で唯一の医者である加地が呼ばれたのは、母親の様子に見かねたここにいる誰かが、そうしたほうがよかろうと、判断したからだろう。そういう諦めのつけかたもある。
 もっとも加地の目からしてみれば、母親である女自身、とっくに、もうどうしようもないと頭では理解していることは見て取れた。してはいるが、認められはしない。唐突に降ってわいた不幸に落としどころが見つけられないのだ。理解はできる、それでも、横たわる現実に、心も、身体も、どうしたってついてこられやしないのだ。
 おかあさん、と亡くなった若者の姉にあたる娘が、掠れた声で母を呼ぶ。すでに他家へ嫁いでいた娘は、知らせを聞き慌ててやってきたらしい。息を切らし駆けてきた娘は、変わり果てた弟の姿を目にするや、寸の間、息を止めた。答えを探るように父を見あげ、その表情にすべてを悟る。
「おかあさん」
 震える娘の手が、肩口に触れる。瞬間、母親は声もなく泣き出した。
 加地は家族らに頭をさげ、その場を離れる。通りを挟んで向かいの家の軒下で、仲間内に囲まれて座り込んでいるもう一人の当事者に話を聞かねばならなかった。
「おい、圭亮けいりょう。いったい何が、どうして、こんなことになった」
 この凍える季節に、まして、増水した河に、好きこのんで立ち入る者など、そうはいない。誤って落ちるなど、ただごとではなかった。
 加地は、震えるばかりで一向に応えない圭亮の腕をとって、傷の具合を確かめる。死んだ若者と同じく圭亮も全身ずぶ濡れではあるが、細かな傷があるばかりで、他に心配するところはないらしいことに安堵した。
「気分はどうだ。どうもないなら、早く衣を取り換えたほうがいい。な?」
 持ってきていた道具箱から、布を取り出し、傷口を拭い、薬を丹念に塗りこめていく。力なく首を縦に振りおろした圭亮の膝を、加地は最後に叩くと、取り囲み成り行きを見守っていた者の一人に、声をかけ、圭亮を家に送り届けるよう頼んだ。
 それで、と加地は、残る面々を見渡して、言った。どれもまだ年若い、村の男たちだ。その中に、近頃、若者たちを取り仕切っている渓大けいたいの姿があるのを見てとり、加地の顔は自然こわばった。
「行ったのか、あの子のところへ」
「ああ。待ち伏せされていたらしい」
「どういうことだ」
 そんなわけあるはずなかろう、と思わず出かかった言葉を加地は押し戻す。
「夕べ、二人で酒を飲んでいるうちに、妖女を退治しようという話になったらしい。圭亮は早まるな、と止めたものの、朝になって家を訪ねてみれば、姿がなかった。慌てて追いかけたら、河近くで妖女に襲われていた、と。一人で、やれると思ったんだろう。あいつは、そういう節があったし、妖女の姿を一度も見たことがなかった」
 聞き知ったままを、渓大はよどみなく答える。「計画もなく、妖《あやかし》相手に、どうして一人でやれると思ったのか」と目の前の人のよさそうな若者は、悔し紛れに息を吐いた。
「圭亮が追いついたのは、ちょうど河であいつを喰おうと襲い掛かっているところだったらしい。石をぶつけて追いやろうとしたが、その時はすでに河にひきずりこまれてしまった後で、目を離したすきに、流されてしまってどうしても助けることがなかった、と」
「石を」
「ああ。そんなものでは足らなかったと言っていた」
「ぶつけたのか、石を! 目の見えないあの子に、石を!」
 ふざけるな、と加地は、自分よりも身丈の高い渓大の胸ぐらにつかみかかった。一瞬、呆けたように白髪頭の老医者を見下ろした渓大は、次の瞬間、その老体を投げ飛ばした。
 したたかに地面へ身を打ち付けられ、加地は呻く。何ごとか、と集った面々が、目を向けてくる。
「ふざけているのは、どっちだ。あんた、まだそんなこと言っていたのか。人が、もう二人、死んだんだぞ。たった、この一年の内にだ」
 表情を怒らせ、渓大は身を丸めて咳き込む加地の胸ぐらをつかみあげる。
「なんだなんだ何があった。まぁだいたい察しはつくが、よってたかって呆けた年寄りの空ごとに、そんなむきにならずともよかろうに」
 盛大な溜息をついて、おもむろに間に割って入ったのは、十重だった。禿頭の塩屋の店主は、加地の襟元を掴んでいる若者の腕を叩き「な、弔いごとが一つ増えちまう」と笑声を潜めて言う。
「――ったく、うちの奴が巻き込まれたって聞いたから慌てて来てみれば、当の圭亮はとっくに帰ってるし、昔馴染みは若者相手に勝ち目のない喧嘩をふっかけているし」
 ぶつぶつと恨み言を吐く十重に、我を取り戻したらしい渓大は、苛立たし気に老医者の襟元から手を離した。
 解放された加地は、その場から立ち去る若者らに目も向けず、散らばってしまった仕事道具を、箱の中へ乱雑に詰めなおす。
「おいおい、加地さん。礼の一つもなしかよ」
「悪い。あとで礼は必ずするから」
 最後の一つを詰め終えて、加地は立ちあがる。
 足早に立ち去っていった加地の後ろ姿に「あぁ、もう、どうしてこうなるかねぇ」と十重ははげた頭をわしわしとかいた。



 村から遠く外れたところ、河づたいに山のほうへのぼっていくと、その家はある。村に住む誰もが知るところだ。
 河沿いよりも、いくらか早く山の手前に出る近道を、十重は足早に辿った。
 したたかに打ったせいで、道具箱を持つ腕が痛む。やりきれなさに、怒りがまたふつふつと沸いた。
 彼女が生まれてしばらく、妖とみなされてすぐ――生みの親である咲《さき》があの子を連れて村を離れた時には、『これで驚異はなくなった』と村の誰もが安堵した。しかし、時がたつにつれ、その場が村の生活に欠かせない河の上流であったこと、妖女がそこに住むゆえに、山に入るにも遠く村から離れた裏側から入らねばならぬことが、次第に村人たちに恐れと苛立ちを募らせた。
 もしも河に何かされてしまえばたまらない。容易に山菜をとりに山に立ち入れないのは、いつ襲われるかしれないからだ、と。
 医者である加地からしてみれば、実にいわれのない、ばかばかしいことだ。あの子が危害を与えるはずもない。あの子はただ、目が見えないだけである。
 にも関わらず、あの子が生まれて早数年、いまだ村人の誰一人も説得できず、それどころか諦めてしまった己が一番腹立たしかった。
 あの子の母親に懇願されるがまま、距離を置いた。心配だからと足しげく通って、村人の目をむやみに向けてしまうよりは、静観したほうがあの子にとってもよいなどと、己に言い聞かせた。そうしていれば、そのうち、皆、あの子がいたことを忘れ去ってはくれないだろうか、と。目に触れることさえ、話にのぼることさえなければ、いつかそうなるのではないのかと。あまく期待をいだいて何もしなかったから、こうなったのではないかと後悔ばかりが募る。
 頼むから無事であってくれ、と加地は見えてきたあばら家を見据え、祈った。
 戸口に立つ頃には、めまいがしそうなほどであった。
 耳障りな心音のはやるまま、加地は家の中へ声をかける。
 応じる声は、ない。
 もしや、河からの帰り道の途中に倒れているのか、と戸口に背を向けようとした時、幼子のかすかな声が加地の耳についた。
「……、こ?」
「いるのか?」
「……加地、さん」
 内から聞こえてきた声に、加地はほっとする。加地が戸に手をかけると、戸はすんなり開いた。
 家の奥の暗がりで、幼子は寝台の上で掛布をかぶり、うずくまっている。被った掛布の隙間から、わずか目元が覗いた。寒さのため、どこもかしこも締め切っているせいか、暗い部屋の中、戸から漏れ入るだけの細い光を反射して、目元ばかりがあわと光る。
「よう、入ってもいいか。大丈夫か。村のものに石を投げられたと聞いた」
「石」
「痛むところはないか」
「……いた、い。いたい。痛い。人がいて、急に石がぶつかったの。どうして」
 問われ、加地はきゅっと胃のふが縮こまる心地がした。どうして、と掛布に身を隠したまま、幼子は繰り返す。
「ちょいと傷の具合を見せてくれな?」
 加地は家の内に入ると、寝台に腰掛け、ぽんぽんと幼子の背を叩いた。こわごわと幼子の身体から掛布を外し、一番危惧していた頭に傷がないことを見てとって、安堵する。
 見れば、傷はどれも腕のあたりに集中していた。とっさに頭を庇ったのだろう。
「加地さん、どうして?」
「よかった、そうひどい怪我はないようだ」
「ねぇ。雪は? いつになったら降る?」
 加地は、問いを繰り返す幼子の背を時折ぽんぽんとあやすように叩きながら、手早く薬を塗り、処置をしていく。丸い河原の石だったのが幸いしたのか、ほとんどが打ち身で、深い切り傷まではない。だが、赤黒く鬱血している腫れの具合から、何の躊躇もなく、石が繰り返し向けられたことが窺えた。
「よく耐えたな。ちゃんと身を守れて、偉かった」
 手当てを終えた加地は、幼子の頭を二、三撫でた。
 頭から離れる手の行方を追うように、彼女は「どうして?」と加地を見あげる。
「どうして。どうしてなの。ねぇ、雪は? まだなの? どこ? みこはどこ?」
「みこ?」
 聞きなれぬ名らしき言葉を耳にして、加地は聞き返す。
 どうして、と幼子は顔をくしゃくしゃに歪めて、身に纏った衣の裾を握り込む。
 その時になってはじめて、今まで一度も見たことのない上衣を幼子が身に纏っているのに気づいて、加地は目をみはった。
「これ」
「みこはどこ。雪が降らないから帰ってこないの? どうして」
 どうして気づかなかったのか。部屋のうちには、かつてはその場所になかった木棚があった。軒先には、幼子一人が集めて蓄えるにはよほど多い干した果物や野菜が確かにあった。
「帰ってこないの。帰ってはこないの?」
「みこが、か?」
 恐々と加地は問う。途端、彼女は癇癪をおこしたように、加地の袖に縋りついた。
 ぎりぎりと、布越しに腕を掴まれる。
 尋常でない。
 幼子のその様子に、加地はただ、絶句する。
「こわい。いたい。いたい。みこ。みこ、母さん。どうして。たすけて。たすけて。たすけ」
 て、と、口許からこぼれ落ちた言葉に、幼子ははっとしたように口をつぐんだ。
 同時に、ふ、と幼子に掴まれた腕の痛みがゆるくなる。わけのわからぬまま加地は、彼女の名を呼ぶ。
 その先で、彼女は確かめるように十の指先をあてがって、己の唇の形を辿った。
「たすけ、て。助けて。そうだ。そうだった。助けてって言わないといけなかった。言わなかったから」
 そうだった、と彼女はうち笑う。
 先程までの悲壮さを忘れ去ったかのように笑うその姿に、加地は呆気にとられるしかなかった。