六、澄み落ちる宵と標灯 【6】


「なんだあれは」
 実己は、瞠目した。
 山の裾野からもうもうと黒煙があがってくる。薪や枯れ草を焼いた時とは種を異にした煙だった。
 はっ、と実己は浅く息を凝らした。足元で河原の丸石が鳴る。
 戻る前に今一度、主だったはずの紅華の最期の場所に立ち寄ろうと河原まで来た。見渡しても河のせせらぎ沿いに散らばるのは丸い小石ばかり。恐らく流れ着いたのはここであろうと、流れが緩やかに行き溜まる岸辺はいくつか当たりがついたが、かの主を埋葬した場所はついぞ思い出せなかった。途方に暮れた己を、引き留めた少女と出会った場所も定かでない。
 それでも、と実己はあの場所に帰りたかった。あの夜、浮き上がった感情は認めてしめば最早ごまかしようもなく彼を急かしたてた。
 潅茄邇かんなじを訪ねたのも、ここに来たのも、区切りをつけるためでもあった。許しが得られると期待したわけではない。誰にも、どちらにも。だが、せめてここで向きあわねば、こうしてこのまま在ることすら認め難かった。
 きっとずっと、独りよがりであることは承知の上で、あの場所は変わらず静かに、かの少女とあるのだと思っていた。
 指の先まで身体が冷えた。知らず呼吸が荒くなる。
 似た感覚を味わったことがあった。不動のものと信じていた。一国の城さえ脆く燃え落とされた。一人、また一人、二人と欠けていく。技量がなかったのだ、と。前を向け、置いていけ、任せた、と託された人さえ滑り落ちて、動かなくなった。
 あれは。あそこにあるのは。燃えているのは。
 否定したくとも、否定しがたい確信におののいて、総身が粟立つ。
 実己は、足を繰り出した。震えだした足が言うことをきかなくなるより早く、彼は駆け出した。


 幼子の泣き叫ぶ悲鳴が聞こえた。
 それが長年、村を脅かしてきた妖であると集った誰もが頭ではわかっていたにも関わらず、互いの反応を窺って気まずさに目を背ける。
渓大けいたい
 縋るように呼びかけた者の声は、震えていた。何かとんでもないことをしでかしたのではないかと。間違ったことをしてしまったのではないかと。
 声を出せぬ誰もが、色を失くして震えだす。
 仲間を殺した妖を今度こそ許してはならない、退治しようと、意気込み集った面々だった。夏を過ぎてからこちら、繰り返し村の仲間らの口先にのぼっていた計画でもある。
 雪が降ってしまえば、妖の住むあばら屋へ続く道は深い雪に閉ざされ近づけない。対して、河の上流に住む妖は、容易に村を害しかねなかった。そも、人の理が通じないのだ。自分たちが村から出れないことをよいことに、いつ脅かされるかわかったものではない。
 村の若い衆に、声をかけてまわったのは渓大だった。
 元々、渓大は大人たちの言うほど妖女の存在を信じていたわけではない。この世に妖と呼ばれる存在があるようなことは聞き知っていたが、それはどこか空想めいた遠い場所の話で、身近な村とはおよそ結び付かなかったからだ。
 妖女と揶揄されるその子どもを数回しか見かけなかったことも現実感のなかった要因のひとつだ。
 時折、母に手を引かれ村にやって来た幼子は確かに異質であったが、戯れに石を投げられ怯えるその様子は妖のようには見えなかった。むしろ、泣き叫ぶ幼子をあやすでも、嗜めるでもなく、一切の表情をなくしたまま変わらず子の手を引き歩く女の存在の希薄さの方がよほど妖らしかった。
 その子どもが大人たちの言う通り妖であったと彼らが信じたのは、仲間のうちの圭亮けいりょうから肝試しの顛末を聞き知ったからだ。向かった先で、女が子に喰われて死んでいたと語る彼の怯えようは到底嘘とは思えなかった。
 すぐに圭亮の話した通りのあばら屋に数人で行ってみれば、あったのは惨い女の死に様だった。幼子の姿は見当たらなかった。ただ、床には血が転々と散らばっていて、圭亮の言った通りに女の腹には喰われた跡がくっきりと残っていた。混乱と共に村に戻った渓大たちは、その後、その女がどうなったのか知らない。
 人喰いの妖が村からそう遠くない場所に何食わぬ顔で住んでいるという実感は、彼らを日に日に戦慄させた。
 思えば、あの妖女が生まれたという年、村の作物のほとんどが病でやられて育たなかったと聞いていた。自分の子が妖と気付いた父親は、気が触れて行方知れずになったという。その三年後には長雨が降り、村の備蓄庫が裏手で崩れた土砂に流された。一昨年は長年村人の拠り所となっていた御神木に雷が落ちて焼け焦げた。ようやく植えた穀物の苗が春先の大雪ですべて無駄になってしまったのは去年のことだ。あげつらねはじめると、妖が村近くに居ついてからこちら災いばかりが重なっていた。
 妖を産み落とした女とはいえ、とうとう人が喰われて死んだことは、他の村人たちも恐怖させた。だがこれまで同様、大人たちは脅えて動かない。やはり近づいてはならないと常と変わらず諭してきた両親に反感が増した。代わりに自分たちこそが動かねば、と渓大がこぼすと、賛同する若者があとから集まってきた。
 加えて今日のあの出来事である。
 死んだ息子を思う家族の嘆きは深かった。今まで妖に関わるべきではないと渓大ら若者たちのやりようを非難していた村人たちの中にも退治すべきだと賛同し加わる者が出た。不安要素を早く断ってしまわなければ、またいつ被害にあうか知れない。
「限界だ」と、仲間うちの一人が悲嘆と恐怖の合間で頭を抱えて蹲る。
 それが切っ掛けとなった。
 家に取って返した渓大らは、思い思いに武器を手にして持ち寄った。鍬や鉈のみにとどまらず火掻き棒、つっかい棒、薪とどだい武具にもなりそうにない物まで持ち出す様はいっそ仲間の内から見ても異様であったが、その異様さこそが仲間の決意の揺るぎなさを表しているようでもあった。
 道すがら鋭利な石を選び拾ってゆく。襲われては敵わなかった。皆が喰われ、結局退治ができないのでは元も子もない。遠くから石で脅して、村から追い出すことができれば、やはり近づかないにこしたことはないというのは、後から加わった年嵩の者の指摘だ。妖女の出方が読めない分、妥当な指摘でもある。やはりはじめはそうするべきだと集った面々で手短に相談し決まった。
 ようやく妖女の住むあばら屋についた時、総身が震えたのは、寒風が吹きつけたからか。夏の間、伸びるにまかせたのか、背丈の高い枯れ草が家のまわりで不気味に揺れていた。
 晴れ渡った空の下、冬枯れの山を後方に従えた古びたあばら屋は、うら寂しさを醸しだし素朴な印象を受ける。軒先で揺れる紐でくくられたナシャの干し果の連なりがどこかのどかに映った。村の暮らしと変わらない。常人のていを装って暮らす様に、村人たちの腹のあたりから、計り知れない空恐ろしさが沸き起こった。
 腹立たしさに任せて、石を妖女の住まいに向かって投げつける。一人が投げ出すと早かった。次々に石の礫が飛んでいく。はじめのうちは距離が足らずあばら屋のずっと手前に石は落ちた。じりじりと間合を詰め、壁を狙ってぶつけていく。次第に石は次々と音を立てて壁に撃ち当たった。高く石が跳ねて、木壁が軋む。
 妖女が出てくる気配はない。これでは拉致があかないと家から持ち出してきた火打を打った者がいた。地面から引きちぎった冬枯れの草を石に巻きつけて火をつけ、飛ばす。ひゅんと石が空を切って飛び、勢いで火が掻き消えるごと、村人たちは躍起になった。衣を手で引きちぎり、量を増やした枯れ草を巻き込むよう共に巻き付け、石を飛ばす。手に持ちうる極限まで火を強くして飛ばす。ついには武具代わりに持ってきた薪に火をつけた。
 火のついた薪がくるくると飛んでいく。先の石のようにはうまく軌道が安定せず、家に到達する前に落ちるを繰り返すうち、いくつかがあばら家近くの枯れ草に炎が燃え移ったようだった。
 ぱっと、沸き起こった火が、乾いた風に煽られ家の手前に燃え広がっていく。村人たちは、歓声をあげた。勢いを立てて、石を、薪を投げつけて行く。
 とうとうあばら家の戸が開いて、妖女が姿を現した時、誰もが息を呑んだ。
 目が、あってしまった気がした。
 燃え広がる火を、透徹な双眸に反射させ、妖女は怯えきった声をあげる。慌てて戸が閉められる。
 火が確かに妖に効果があるのだと、悟った瞬間、自分たちがとった手段が間違ってはいなかったと集った誰もが歓喜した。
 伸び上がった火が、あばら家の壁をなぞりはじめる。灰が空に舞って流れてくる。風にのって流れてきた熱に、村人たちは妖の住む家からさらに距離を取った。
 混乱した悲鳴が聞こえたのは、ようやく彼らの耳に届いたのは、その時だった。啜り泣きが、聞こえ、喚き声に変わる。
 助けを求める悲痛な声があたりに響いて、村人らは凍りついた。
 かたかたと震え出した年若の仲間の一人が、耳を塞ぐ。
 助けを求める声も、事態に怯えて泣きわめく声も、彼らの幼い妹や娘とよく似かよったものだった。
 それこそ妖女の思うつぼだと鼓舞する震えた声は、誰もの耳を通り過ぎた。
 あれは本当に、間違いなく妖であったのだろうか、ともたげた疑念がまたたくまに彼らの間に広がって行く。
 怯えて互いを縋り見る。耳にまとわりつく泣き声から逃れるように、言い出した者の名を呼ぶ。
 何か誤ってしまったのではないか、と。あの年老いた医者は何と言っていたか。本当は、あの子は――
 誰かが口にするより早く、燃え盛る炎のもと、家の前の細木が先に黒く焦げて炎に崩れた。割れた幹枝がもたれ掛かったその先で、火があばら家のそこかしこに移り、巻き込んでいく。
 そこからはあっという間であった。村人たちは、まろびながら我先にその場から逃げた。
 炎に覆われたあばら家を前に渓大は一人呆然と立ち尽くす。
 やがて声が聞こえなくなった後も、泣き声がこだまする。
 膨れあがる火炎が、黒煙の中、明滅する。飛んできた火の粉に、ちりと手の甲を焼かれ、渓大は顔を歪めた。
 叫び声が、聞こえた。
 振り返れば逃げ惑う村人たちの流れに逆らって、髭面の男が駆けてくる。
 見かけたことのない風貌であった。手にしているのは刀か。すんなりと伸びる鞘は陽光を黒々と照り返し遠目にも上等のように見えた。対して、襤褸のような粗野な衣は野盗のようでもあった。
 一心不乱に向かってくる。ぬかるみにはまったように動けないでいる渓大を意にも介さず、駆け抜けていく。
 まさか、という思いに駆られ、男が行き過ぎる間際、渓大は男の腕を掴んだ。
 底冷えする眼差しが、渓大を貫く。
 振り払われた渓大は、尻餅をついた。
「無理だ。もう間にあわない」
 走っていく男に向かって、渓大は声を荒げる。
 滲んだ視界の先で、轟音をたててあばら家が崩れる。
 振動が地を伝わってくる。吹き付けた熱風に胸を圧されて、渓大は意識を失った。