六、澄み落ちる宵と標灯 【7】


「紅」
 実己は叫んだ。
 返る声はない。
 もうずっと目の前にある光景が信じられず、疑問ばかりが堂々巡りを繰り返す。
 なぜ。どうして。このようなことになった。
 炎は壁を舐めつくし、既に屋根まで届いていた。もたれ掛かった木から、家がたわんで歪んでいく。くすぐるように少女が腕を伸ばして撫で歩いていた綿毛のついた背高の草が、あかあかと火炎を纏って広げている。不吉なほど不相応にきらびやかな橙の明滅は、黒煙の中いっそ侵しがたく荘厳に映った。
 軒先につるしていたナシャの実も、戸口も炎に呑み込まれて、最早行方がわからない。熱風に煽られまとわりついてきた煙にたたらを踏み、実己は左腕で口を覆った。息苦しさに喉がえづく。意思に反して出る咳の合間に、彼は名を呼んだ。
 表はそう長くは持ちそうにない。一向に返らない答えに、頭の芯が冷えた。ぞっとする。
「紅」
 地を蹴って裏手の庭手へまわりこむ。裏から表側へ向かって風が吹いているとはいえ、小さく簡素なつくりの家だ。火のまわりは早かったらしかった。駆けていく間にも、燃え盛る火の勢いは乾いた風に空へ吸い込まれ増していく。
 いつのまにか育ったスラの長い青葉が炎を反射し揺れていた。見渡しても、やはり庭に少女の姿はない。
 どこか遠くに出かけてはいやしないか、と願う。願うが、行き合った村人の脅えようを見る限り、恐らく彼女はここにいたのだ。
 なぜ。沸き起こる疑問を繰り返し、実己は手にしていた刀を鞘のまま棒代わりにして、裏の戸口であった場所を引き開けにかかる。こじ開けようとしたものの、中で何かが引っかかっているのか、戸はびくとも動かなかった。力任せに刀を振るい、近くの壁を打ち壊していく。火の勢いの少ないところを狙ったものの、打った分だけ炎が散った。舞い落ち来る火の粉にまみれて、衣服を、腕を焼いていく。
 なぜ、連れて行かなかったのだろう、とかすむ視界の元、実己は歯噛みする。
 潅茄邇かんなじを訪ねる前に、仲間と埋めた今後の資金を探しに行く必要があった。その場に行くには、かつて逃げた道を戻らねばならず、いつ双日ふたひの兵に行きあうやも知れなかった。そも潅茄邇の堂に行くためには、道を戻ってしまう分その先も何日も歩かねばならなかったし、堂自体も足場の悪いはるか崖の上にあると知っていた。まだ幼く、さらには目の見えない少女には、あまりに危うく、辛い道のりだと、ならば安全で住み慣れた場所にいたほうがはるかによいと思ったのだ。仮に戻れなかったとしても、あの少女はきっと出会う前がそうであったように、変わらずここで生きていくのだと信じていた。
 ついに壁が打ち壊れた途端、穴の内より紅蓮の炎が噴き出した。家の中はかつての面影を消し去るように燃え盛っていた。焼け焦げた柱が、目の前で折れて崩れた。
 実己は名を呼びながら、咳き込む。それでも中を確かめねばと、身を乗り出すも、炎に触れかけた途端、反射的に身体が拒絶して、言うことをきかなくなった。
 足裏が地に吸い付いたように動かなくなる。
 焦る意思に反して全身から力が抜けた。膝をつく。
 ――否。
 連れていけなかったのだ、と後悔が襲い掛かるように実己は自覚した。誰も助けられずに一人逃げ出した姿を、見られたくはなかったのだ。
「紅」
 実己は熱と煙で痛む身を折って、地面にうずくまる。
 頼むから、とそれでもなお己のためだけに祈る自身に嫌気がさす。
「置いていかないでくれ」
 ほとばしるように嗚咽が零れた。


 ぐ、と首根っこを引っ張られ、実己は仰向けにひっくり返った。ざばりと上から多量の水が降ってくる。
 溺れかけ、あえいだその先で、坊主頭の老人が、ぬっと覗き込んできた。
「阿呆、死ぬ気か」
 背面から両腕を取られ上半身を引き起こされた実己は、そのまま老人に地面をずるずると引きずられる。
「まぁ、飛び込んでいなくて、よかったさな」
 どこか現と思えぬやけに青い空に目が染みる。黒煙が吸い込まれていくのを呆然と眺めていると、盛る炎の中で家が崩れた。
 実己は目を瞠る。我に返って、老人の腕から逃れようともがく。すると両腕はまたたくまに離され、実己は背面をしたたかに打ち付けた。次いで、実己の額を覆った老人の掌に、地面に頭を押し戻される。
「なんだ、見かけのわりに、意外と動けるな。歩けそうか」
 額を押し付けたまま、老人は問うてくる。
「あんた、実己だろう。来い。あの子はまだ、生きておる」
 実己は、息を吸う。焦燥と混乱の中、穏やかな顔をした老人の発した言葉の意味するところを咀嚼する。
加地かじ、か」
「お、なんだ聞いておったか」
 かつて確かに少女が名を口にしていた医者は、奇妙な表情で苦笑した。
「よくもまぁ、あんなとこから聞こえたもんだと感心するが。呼んでいたよ、あんたのことを。声が聞こえたと言っていた」
 支えられるがまま寄りかかり、実己は立ちあがる。もう片方は刀を杖代わりに重い足を引きずり歩く。鈍く歩みののろい実己を、老医者は時折立ち止まり休ませながら、山の入り口まで辛抱強く導いた。
 連れてこられたのは、大木の根元であった。実己は加地に手伝ってもらい、少女の傍らに膝をつく。
 ちょうど山の登山道からは隠れる角度で、少女はぐったりと力なく幹に寄りかかっていた。
 浅く、消えそうな息を不規則に繰り返す少女の煤けた頬に手を伸ばしかけ、実己はその手を止めた。
 触れた瞬間、炭のように脆く崩れてしまいそうだった。肩下まで伸びていた少女の柔らかな黒髪は、焦げて縮んでいた。紅の髪紐は切れてしまったのか、結い目のない髪がごわごわと広がっている。彼女が気に入って、繰り返し指先で刺繍の飾りを辿っては遊んでいた証の衣は、煤けて黒々と色を変えていた。袖からのぞく腕の包帯も、赤くなった肌も、見るからに痛々しかった。
 やわ、と少女は瞼をひらいた。蝶が翅を静かに閃かせるように、彼女は腫れた瞼をうっすらと、何度も懸命に上下する。はく、と動いた呼び声は、声にならずに吐息に消えた。
 それでも、呼ばれたのだとわかった。
「紅」
 実己は、呼びかける。
 とろけるように柔らかく、茶色の澄んだ眼差しが実己を貫いた。
 ほらやっぱり、と少女はか細い声で弱々しく笑う。
「私の、名前だ」
 満足そうに閉じた眦の端から、火照った頬を冷やすように涙がこぼれ落ちる。煤けた肌を洗い流して、雫は彼女の肩口に落ちた。
 紅、と実己は、少女の名を口にした。
 小さく、強かな掌を握りしめ、繰り返し繰り返し、うわ言のように名を呼ぶ。
 まるでそれしか言えぬように何度も名を重ね続ける。
 疲れて眠りについたのか、反応を返さぬ彼女に実己は懺悔するように頭を垂れた。
 それは少女が口にした通り、確かに紅の名前だった。
 そうやってもうずっと紅は、実己の代わりに携えてきてくれていたのだ。
「紅」
 祈りを込めて口にする。落ちた呼び名は、空虚な水色の空へまっすぐに響き渡って、いつかの夢のように瞬く間にかき消えた。