エドワルドは落ち着かない心持ちで、砦の扉に手をかけた。贈り物をしっかりと抱えなおし、深呼吸をする。
 彼が砦の裏手側に位置する入口に気付いたのは、聖イリヤネスの祝祭から数えて十七日目。意味もなく慌ただしい新年の行事から抜け出し、意気揚々と砦に通いつめては愛を叫び続けること十七日目のことだった。
 今となっては不思議でならないが、空近くにある窓にばかり気を取られていたらしいエドワルドは、砦の入り口に全く気がつかなかった。 その日、窓から飛び出してきたソラリアの姿に喜んだのもつかの間、局地的な突風やら雷雨やら砂嵐に見舞われたあげく、なにがしがしかの爆発に巻き込まれ、よくわからぬうちに地にのめり込むだけに終わったエドワルドが、砦から出てくる三人組に出くわしたのはまったくもって幸運だったと言えよう。村の特産物である木の奇病について相談をするために魔女の元を訪れたと言う彼らは、べったりと地面に伏したまま呼びかけたエドワルドに怯えと興味をあからさまに含んだ視線を向けながらも、有益な情報を教えてくれたのである。
 つまり、東の魔女と彼の愛する娘の住まう五階建ての砦には、出入り口がある、と。
 さて、とエドワルドは気合いを入れて、扉の取っ手に手をかけた。村人たちに教えられて以来、扉の取っ手を飽きることなく回し続けているにもかかわらず、残念なことにエドワルドが中に入れた試しは未だにない。果たして今日は開いた瞬間、扉にはじき飛ばされるか、はたまた見知らぬ森に迷い込むことになるのか。
 力一杯ひねった取っ手は、思いがけず軽々と回った。空回りした勢いのまま、エドワルドは首どころか身体を傾ける。
 初めて目の当たりにした扉の内側はそのまま螺旋階段に直結していた。外壁と同じ、石造りの階段である。
 こ、れ、は――ようやく認められたに違いない、と嬉々として中へ足を踏み入れたエドワルドをあざ笑うかのように、扉はきぃいと細やかな音を震わせて彼の背後でばたりと閉じた。
「ん?」
 エドワルドは思わず振り返る。だが、閉じられた扉を確認するよりも早く、彼の襟首はくいっと不自然な力で持ち上げられた。理解する暇もなく、背後から突風が吹き付ける。
「うおおおおおおおお!?」
 見えぬ手に、子猫よろしく襟首を摘まれたエドワルドは、突風に押されるがまま延々続く階段を容赦なく駆け登らされることとなった。

***

 扉から吐き出された青年はべしゃりと石床へ崩れ落ちた。鳥の巣と評されたわかめ頭が、なぎ倒された麦穂のごとく前方向へ偏っている。ぜっぜぜぜ、と息がきちんと継げているのかも怪しい彼の顔は赤いのか青いのか、あるいは黒いのか白いのか、まったく判断しがたいまだら模様であった。
 東の魔女は、石床にへばりついたまま動く気配のない貴族の青年を前に、弟子の服の袖をちょいちょいとひっぱった。
「ソラリア。ソラリア。いくらなんでもこれはやりすぎじゃない?」
「今ここで、それを私に振りますか、師匠」
 師と等しく目の前に広がる現状にどうしたって軽い罪悪感を覚えずにはいられないソラリアは、くるりくるりと誇らしげに室内を回っている風を感じながら溜息をついた。そこには無邪気さはあれど、反省の色は微塵もない。
「まぁ、なんとか生きているようですし、いいんじゃないですか」
「今まさに死なんとしているようにも見えるけどね」
「げ、げほっ……ここで死ねたら、本望です。できたら、ソラリアに看取ってほしっ……げほっ」
 魔女と弟子は顔を見合わせる。互いに取った動作から、彼女らの会話に割り込んだ間延びした声が空耳ではなく、どうも扉の前を陣取っている死にかけの青年から発せられたのは間違いないらしかった。
「師匠、こいつ全然懲りてないです」
「うん、まぁ、じゃあ、やりすぎは結果オーライかな?」
「ですね」
 早々に青年から目を離したソラリアに茶の準備を促して、ケルティカ自身はテーブルから離れぬまま、ゆるりと頬杖をついた。かちゃかちゃと落ち着かない様子で弟子が茶器の準備を進める中、一向に息が整わない貴族青年は床に突っ伏したまま、微動だにしない。長い階段を自分の意思とは関係なく登りきったのだから無理のないことだ。
 当然怒るか怯えるか、どちらかの反応を見せるだろうと踏んでいたケルティカにとって、彼の第一声はある意味予想外なものだった。これで懲りぬと言うのなら、それだけのなにがしかが彼には本当にあるのだろう。ケルティカは息をつく。
「落ち着いたら、こちらにいらっしゃいな。まだ随分と時間がかかるようなら、助けてあげるけれど」
「いえ。お手を煩わすわけには参りません。それよりも魔女様。僕の手にはまだちゃんと箱が握られているでしょうか?」
 ケルティカは問われるがまま、青年の手に目を向けた。彼の言うとおり、彼の手は確かに小花柄の紙で包装された箱を掴んでいる。
「あぁ、うん、そのようだけど」
「よかった! なら、ソラリアがお茶を淹れてくれるまでには必ず間に合わせますから、あと三分ください」
 床に顔面を突っ伏したまま一気にまくし立てた青年は、よほど無理をしたらしく、げほごほと咳込んだ。ようやく咳から解放され、元の呼吸に戻るまでに成功した彼は、続けざまに深呼吸を繰り返しはじめる。
 床に寝そべったまま、すーはーすーはーと呼吸音だけを響かせている青年は、どこからどう見ても気味が悪い。茶葉が開ききる間、師の側に沿ったソラリアはあからさまに眉間に皺を寄せ、ひきつり笑いを頬骨のあたりに張り付かせた。
 まだ疲労の色を覗かせながらも「お待たせしました!」と目をらんらんと目を嬉しげに輝かせて席に着いたエドワルドに、ケルティカとソラリアは揃って顔を見合わせた。だが、いちいち取り合うことも面倒で、彼女らは無言のうちに、話を進めることにする。
 まぁいいか、とケルティカは雑念を手で振り払った。
「今日ここに来てもらったのは言っておきたいことがあったからなんだよ。ええっと……誰だっけ、ソラリア」
「知りません」
「おや、まだ聞いていなかったかな。何やらこちらは名で呼ばれていたし、随分と親しげに纏わりついてくるから、当然知っている気がしていたね、ソラリア」
「そもそもの前提として、それに興味がないのが原因ですかね、師匠」
「持って!」
 身を乗り出して二人に訴えた青年は、外套の襟をぴしりと引いて、すばやく居住まいを正した。
「エドワルドと申します。エドワルド・ラグナド」
 きりっと顔をつくり、名乗り出たエドワルドを前にして、ケルティカは意外な思いで弟子を見やる。
「ラグナド家というと、カルマール創始の二十七貴族の一つじゃないか。儲けたね、ソラリア。玉の輿だよ」
「魔女様、ありがとうございます! ソラリアならいつでも大歓迎です。きっと幸せにしてみせます!」
「なっ、師匠。勝手に嫁がせないでくださいよ! そして、お前はちょっと黙れ」
 大体これがラグナドなわけがないじゃないですか! とソラリアは、とぼけた顔でのんきに座しているエドワルドを指さした。
 カーマイル王国創建の物語は、絶大な人気を誇る英雄譚の一つである。建国記念祭になると国中のあちこちで劇が催されることもあり、カーマイルに住む者なら知らぬ者はない。その中で語られる、ジャルール・ラグナドは、知略に富んだ勇将だ。その子孫が、こんなひょろっとした、わかめ頭の、したまつげぼんなわけがない。もしそんなことがあったら、みんなの夢が崩れるというものである。
「まぁ、言っても三百年以上前の話ですから。今では偉いのは名ばかりで、ずいぶんと落ちぶれましたしね。いくら勇猛の将と称えられた者の子だって、平和な時代じゃこんな感じになりますよ。それに僕は四男で、まだ学生の身ですし、そりゃあお気楽なぼんぼんにもなろうというものです、残念なことに」
「自分で言うな自分で」
「大丈夫ですよ、ソラリア。卒業後は立派な人材になっているはずです、きっと。苦労はさせません」
「だから、そのありえない未来話から、いいかげん離れろ」
「ソラリア、落ち着きなさいな。そんなことはどうだってよいのだから」
 素面で割り込んだケルティカのあんまりなおっとり加減に、ソラリアは「どうでもいいなら振らないでくださいよ、ししょー!!!」と泣きついた。
「で、それはいいとして、エドワルド、と言ったかな? この辺りではずいぶんと変わった名だけど」
 精霊名じゃないよね、と確認を取るケルティカに、不満気ながらもソラリアは「ですね」と頷いた。
 別にカーマイル王国に精霊名を持っていない者がいないわけではない。だが、カーマイル王国を含めた東大陸の西海岸側一帯では、子が産まれるとその日を司る守護精霊の名に準じた名前を子につけて、精霊の加護を乞うのが通例だ。親心であろう。これに限っては、王も貴族も平民も分け隔てなく続けている古くから伝わる習わしでもある。
 エドワルドは、魔女とその弟子を真正面にして、へらりと笑った。
「魔女様もそうですよね?」
「そうだね。私は中部寄りの出身だから」
「僕の母は、もっと先なんです。東大陸の東端の出身で。僕の名は母がつけたものでして、兄たちは普通に皆、こちら側の名前なんですけど」
「へえ。なら、やっぱりそれは君が衆目の面前でソラリアに告白したことと何か関係があるのかな?」
 重ねられたケルティカの問いに、ソラリアは身じろぎをして、師の横顔を鑑みた。
 相対するエドワルドの態度に不審な揺らぎはない。むしろ、どこまでも素直に不可解そうな表情を顔に浮かべて、彼は「と、申しますと?」と聞き返す。
 笑うように細やかな息を吐き出したケルティカは、「どうしたって私たちの存在は目立つから」と誰にともなくひとりごちた。
「本来貴族なら、魔女が国との関わりを避けることは知っているだろう? カーマイルの貴族ならなおさら、注意深く教え込まれているはずだ。けれど、君が由緒ある家柄の子として生まれながらも、捨て置かれるような立場だったのなら、まぁ、知らなくても仕方はない」
「……ええっと、確かに僕の母はよい家の出ではない上に妾あがりの後妻ですが、比較的家族仲は良好かと。うちはその辺ずいぶんとおおらかと言いますか、よくも悪くも大ざっぱですし。ご懸念のように僕が虐げられているからこそ何も知らされていないということはないのです。……と、思います。あなたがたに王族と貴族が厭われていることも理由も、もちろん理解しています。同じように東の魔女の弟子を選んでしまった点で、あらぬ憶測を各方面に生んでしまったことも、わかってはいるんです」
 でも、とエドワルドは、語気を強めて言った。
「ソラリアが、あんまり綺麗でかわいすぎるから仕方がないではありませんか!」
 胸を張って、エドワルドは高らかに宣言する。当のソラリアが思い切り嫌悪に顔を歪めているその横で、「うん、その点は否定しないけど」とケルティカはあっさりと彼の意見に同調した。
「うちのソラリアは、本当にかわいいよ。私たちは本当にこの子を大事に思っている。だからこそ、私は同じ道を辿らないとは言い切れないし、もしもそうなってしまった時に、同じ道を辿らせたくないと思う相手もいる。つまり、君の考えるところがどうであれ、君が多かれ少なかれ国事に属す貴族である限り、君をこの子に近づけるわけにはいかない。懸念要素はできうる限り潰しておく義務が私たちにはあるからね」
「ですが、魔女様。そうは言っても例外は確かに存在するでしょう? 西の大陸の北西の賢者は、特定の国と深い関わりを持っているはずです。しかも、城内に拠点まで有している」
「おや、よく知っているねぇ」
「ソラリアに会いに来られない間に、魔女と賢者についてはあらかた調べまくりましたから」と言うエドワルドに、ケルティカは感心して頷いた。
「あぁ、確かに君の指摘する通りだけど。あれは少なくとも一方的な関係性ではないよ。それにまぁ、言ってしまえばね。よそはよそ、うちはうちなんだ。申し訳ないけど、まだここに寄りつこうっていうのなら、次からは容赦なく追い返すからね」
 これ以上、のんびりとした午後の時間を邪魔されたんじゃたまらないからね、とケルティカは、ソラリアに差し出された茶を受け取りながら、静かに通告した。
「では、もし、僕が貴族でさえなければ、ソラリアとの仲は認められたのでしょうか?」
「そうだね。もう少しは見守ってはあげたかもしれない」
「そうですか」
 エドワルドは噛みしめるように呟き、俯いた。ケルティカは、カップを口に運びながら、油断なく彼を観察する。沈黙の後に「では」と顔をあげたエドワルドの仕草に、魔女は音なくカップを受け皿に戻した。
「聞こうか」
「つまり僕が貴族をやめてしまえばいいんですよね? ああ、大学はやめるつもりがないので、今すぐどうこうと言い切れないことが悔しいんですが、ひとまずは農民を目指してみようと思います」
 どうでしょう、とエドワルドは期待を込めた目で、ケルティカを見つめた。
「どうもこうもないよ。そんな口先だけの言葉のどこを信用しろと…………で、それは一体何なのかな?」
「シュレーゼの蜜漬けです」
 いそいそとエドワルドがテーブルの上に取り出した箱に、ケルティカはぱちくりと目を瞬かせた。
 角が潰れてしまいましたが、と申し訳なさそうに彼がケルティカに差し出したのは、エドワルドが意地でも離さなかった土産の品だ。
「はい。まったくもって魔女様の仰るとおりで、つまり、貴族をやめるためにも農民として自立できるようご助力願いたいのです」
「――これ、いただいちゃってもいいのかな?」
「もちろんです。今度、またお訪ねする時には追加でお持ちいたしますし。それでですね、魔女様」
「ああ、ケルティカでいいよ。うん、そうだね、できうる限り、願いに耳を傾けるのが私たちの仕事だものね。貴族をやめてくれるのなら、こちらとしても願ったり叶ったりだ。わかった、ソラリアをエドワルドにつけるよ」
「ありがとうございます、ケルティカ様!」
 輝かんばかりの笑顔で礼を言うエドワルドの前で、ケルティカはほくほくと小花柄の包みを開きはじめた。泣きたいのは、ソラリアである。
「ししょー!?」
「ねぇ、だってソラリア。シュレーゼの蜜漬けだよ? こっちじゃなかなか手に入らないからね。ああ、懐かしいな。大好物なんだよ」
「だからって、弟子を売る師匠がありますか!」
「売るも何もないよ、ソラリア。いいかい? これはまったくもってひいき目ではなく、ソラリアは、綺麗だしかわいい」
 ケルティカは、ソラリアを見あげ、愛弟子の鼻先にぴしりと指を突き付ける。視界の端で、神妙な顔をしてうんうんと頷いているエドワルドの姿に、ソラリアは叫びたくなった。
「これから先、ソラリアが東の魔女になってからも、こういうことは起こりかねない。それでも私情は挟まず、誠意を持って対応しなければ」
 箱から出てきたシュレーゼの瓶をしっかりと傍らに抱え込んで、ケルティカは銀髪の愛弟子に語りかける。
 当然、ケルティカがどれほど彼女の故郷の特産物であるシュレーゼの蜜漬けを好物としているかを身に沁みて知っているソラリアは、絶望感に打ちひしがれた。
 愛すべき彼女の師は、美しい笑顔でにっこりと微笑む。
「これも修行だよ、ソラリア。ちょうどよい機会だと思って、しっかりと取り組みなさい」