「うぅ……、重い」
水が溢れんばかりに張られた甕(かめ)を一つ運びながら女が呟いた。
ただでさえ足の取られる砂場を歩いているのである。それなのに、両手いっぱいに抱えてやっと運べる位の大きさの、しかも水がたっぷりと入った甕(かめ)を抱えて砂漠を歩くのは困難なことこの上なかった。
「やっぱり、領主に逆らうべきじゃなかったか……?」
いつもなら往復で一時間かかる砂漠に位置する水場まで水汲みに行くことはこの女の役目ではなかった。
元よりこの甕(かめ)が満たされるほど多くの水を入れて持ち帰ったのだとしても、それだけの水でまかなえるほど女が仕えている屋敷は小さいものではない。
皇都から遠く離れた田舎の街とはいえ、領主の屋敷である。数えられないほどとは言わないが従者はそれなりに多く雇われているし、そのほとんどが住み込みで働いているのだから、とてもじゃないが、この水では少なすぎだ。
普段はラクダ五頭を引き連れ、水を汲んだ二十杯の甕(かめ)を屋敷へと運ばせていることからいっても、この苦労は全く無駄なことであることは明らかであった。
つまりこれは領主が自分の命に逆らった女へのただの嫌がらせとしか考えられないのである。
「せめて、ラクダくらいつけてくれればいいものを……」
この調子では、帰りだけでも二時間はかかりそうだな、という自分の考えに溜息が出た。そんなにも長い時間この重さに耐え続けなければならないのか。
きっと領主も自分がこの甕(かめ)を屋敷まで持ち帰ることなど到底無理だと思っているのだろう。
その場合、領主が何を言い出すかは目に見えている。何としてでも、それだけは避けたかった。
だけど、もしこの甕(かめ)を持ち帰ることができたとしても、どちらにしろ難癖をつけてくるだろう。遅いとか、砂が混じっているとか。どっちにしろ同じか。
女の口から深い溜息が漏れる。
いっそのこと水をぶちまけてしまおうか。そうすれば気持ちいいだろう。砂と混じってざらつく汗も洗い落とせる。
あぁ、水が太陽の光に反射して綺麗だろうな。なによりも、この重い甕(かめ)から、解放されるのだ。
「いや、いや……、あんな奴の思い通りになってたまるか! だいたい私はあいつの従者でも何でもないじゃないか。それをあいつは……!
あんな奴に屈するのだけは絶対に嫌だ! 全速力で戻って、あの領主に、あっと言わせてやる!!」
女は、『打倒領主!』という決意を胸にまた一歩、歩きだした。
「うぅ……、しかし、重い」
砂を踏む度に鳴る、さくり、という音さえも今は煩わしかった。女はもう何度目になるかわからない溜息を砂の上に落とす。
「はあぁ~、やはり、主に逆らったのは間違いだったか……?」
再び女の自問自答が繰り返され始めた時、栗色の髪をした少年が必死にこちらへ向かってくるのが彼女の目に入った。
なぜ、こんなところに少年が? 疲れでとうとう幻覚が見え始めたのだろうか? そう思って女は一度目を閉じた。
それから、そろりと目を開けると、今にも泣きそうな少年の黒い瞳と目がかち合った。
その瞬間、少年の顔に安堵が広がるのが女にも分かってしまった。
少年がこちらに駆け寄りながら、掠れた声で叫ぶ。
「よかった! すぐ近くに人がいた!」
「どうしたの?」
少年の尋常でない様子に、女は反射的にそう尋ねていた。
そして自分を気遣ってくれる問い掛けに、今まで我慢していた涙が少年の黒い瞳から次々とせきを切ったように溢れ出した。もう彼自身では止められそうにないほど涙は次から次へと流れ落ちる。
「助けて!」
「え!?」
予想はしていたことだったが、栗色の髪をした少年の助けを求める嗚咽の混じった叫びに、女は戸惑って、その場に立ち尽くしてしまった。
その間にも、少年は女の方へと走り寄って来ていて、その距離はもうほんの数十歩までに縮まっていた。
「早く!!」
もう一度、少年が女に向かって叫ぶ。
「……え、ええ」
女が頷きを返し、甕(かめ)を地面に置いたのと同時に、少年は彼女の手を取って元来た道へと走り出した。
「えっ!? わっ、ちょっと待って!」
突然少年に手を引っ張られて前のめりになった女はこけそうになったが、そんなことにも構わず少年は女の手を引いて目指す場所へとひたすら走る。
早く、早く、心がそう急かすのに砂に足をすくわれて思うように速く走れない。そのことに少年は苛立ちを感じていた。
ここは砂漠なのだ。そんなことどうにもならないことなのに。分かっているのに。
女がまた、つまずき、転びそうになった。
女は長いスカートを着ている。自分よりずっと走りにくいはずだ。それなのに何も文句をいわず、まだ何の説明もしていない自分に付いて来てくれる。
大丈夫だ。この人ならきっと助けてくれる。
少年は女のほうに振り返り先程と同じ言葉を繰り返した。
「助けて! お願い……助けて!」
辛そうに走っていた女が、その言葉に顔をあげると目の前の黒い瞳とぶつかった。その瞳が不安げに揺れる。
それを見て、ここまで来てやっと自分の決心が決まったことを女は感じた。女はうなずき、にこりと笑って答えた。
「大丈夫。安心して。私がきっと助ける。助けるから」
女の言葉に少年は再び前を向く。
繋いだ女の掌からはやさしい温かさが伝わってくる。それはひどく少年に安心を与えてくれるものだった。
大丈夫だ、きっと。
涙でぼやけて視界はほとんど何も見えない。けれど、少年には目指す場所がどこにあるかは、はっきりと分かっていた。
待ってて、あともう少しでつくから! あと少しだから!!
そして、二人は迷いもなく、ただ一つの方向へと駆けて行ったのだ。



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