ラピスラズリのかけら 1:奇妙なめぐり合わせ 4 少年

 

 女が少年に連れてこられた場所に倒れていたのは一人の男だった。
 といっても、彼女が初めに男を目にした時はその上に上着が掛けられていた為に死人かと思い、ぎょっとしたのだが。
 髪の色は茶色がかってはいるが、この国ではめずらしい黒だった。瞳の色は、今は、まだ閉じられていてわからない。顔は中の中ぐらいか? 顔立ちもこの国のものとは少しどこか違っていて異国人のようだった。
 女が黙りこくっているのを見て、少年が心配そうに見上げる。それに気付いた女は、慌てて男の傍に座った。
 まじまじと人間観察している場合ではなかったのだ。
 
 
 
「どう?」
 少年が不安げに尋ねる。
「どうって……」
 女は少し呆れ気味に少年の方を見て、それから男の方を見る。男の顔はかなり赤く、体は熱を帯びて火照っている。どう考えたってこれは……
「日射病ね」
 ただし、下手をしたら命にかかわるほど重度の。しかし、これは言わないでおく。
「助かるの?」
 少年の黒い瞳がまた泣きだしそうに揺れる。今ここで泣き出されたら、今度はこの少年まで脱水症状で倒れてしまいそうだ。
 女は溜息をつきながら、答えた。
「助けるわよ。ここまで来たんだから。それに……、この人、ジン(魔人)でしょう?」
 初めは異常なほど赤い顔ばかりに気を取られて気がつかなかったが、この男の手首には黒の複雑な紋様が刻まれていた。
 ジン(魔人)よりも格が上のジーニー(魔神)には、人には見ることの出来ない色でより複雑な紋様が描かれているという。だが、街の若者たちがジン(魔人)の真似をして腕に彫った入れ墨よりかは明らかに複雑なものだった。
 初めて目にするものではあったが、確かにこの紋様なら人には真似することができないだろう、と女は納得する。老師(せんせい)が見ればジン(魔人)であるかどうか、すぐに分かると言っていたわけだ。
「うん、そう。ジン(魔人)」
 少年が女の言葉に頷いたのを目に留めると、女は少年を安心させるように微笑んだ。
「なら大丈夫よ。ジン(魔人)は人の数倍生命力が強いもの。今は極端に弱っているだけだと思う。大丈夫、助かるわ」
 少年は今度こそ本当に安心したように、ほっとため息をつき、笑った。
 その少年に女が尋ねる。
「あなた水は持ってないの?」
 少年はきょとんとして答えた。
「うん、今はないよ?」
「ここまで来る間に全部飲んじゃったの?」
「ううん、途中で盗まれちゃった」
 なんてこともないように話す少年に女は驚いて尋ねた。
「でも、ジン(魔人)がいるなら、そんなの簡単に取り返せたでしょう?」
「うん、シェラートは取り返そうとしてくれたんだけどね、その人たちの中には僕よりも小さい子たちがいたから僕より喉が乾いているんじゃないかって、可哀相だと思ったから、僕がやめてって言ったの」
 その答えに、女は目を見張った。
 しかし、少年はまだ目の前の女が何にそんなに驚いたのかに全く気付いてないのか相変わらずきょとんとしている。
 この少年は小さいから仕方がないかもしれないが、事の重大さが全くといっていいほど分かっていない。
 砂漠を水なしで、しかも歩くなんて、倒れて当たり前、死んで当たり前の自殺行為である。
 シェラートというのはこのジン(魔人)の名前だろう。なぜ無理やりにでも水を取り返さなかったのか。
 ジン(魔人)は契約者の命には逆らえないというが、もしこの少年が契約者なら説得の一つもできないはずはなかっただろう。こうなることも容易に予想できていたはずだ。
「あなたね……」
 今までとは違う女の声音に何かを感じ取ったのか、少年は体をびくりと震わせた。それを見た女は怒りを通り越してまたすごい呆れを感じてしまった。
「まあ、いいわ。説教は後にしてあげる」
 それを聞いて少年は目に見えてしゅんとした。どこで何を間違ったのかは分かっていないようだが、このジン(魔人)が倒れたのは自分のせいだということだけは、ずっと感じていたらしかった。
 それを見て女は少年の栗色の頭をポンポンとなでた。少年が驚いて女を見上げる。
 確かに少年だけを怒るのは間違っている。きっと少年は本当に何も知らなかったのだろう。この幼さだ、砂漠を渡ることももしかしたら初めてのことだったに違いない。
 しかし、だからと言って許されるような問題ではなかった。もしこの男がジン(魔人)ではなくただの人だったのなら、もうすでに死んでいた確率のほうが高い。
 しかも、このジン(魔人)はこのことを絶対知っていたはずだ。知っていて止めなかった。二人の甘さが今、この状態を招いたのである。
 つまり責任はどちらにもある。怒るということは、怒るほうも怒られるほうも決していい気分になるものではないし、ものすごく体力を使う。そんなことで二回も体力を使ってられない。ましてや、この炎天下の空の下、砂漠で説教などしていたら、女自身も倒れる可能性がある。怒るならどこか日陰に移動したあと、二人まとめていっぺんにだ。
 その為にはまずこのジン(魔人)を起こさなくては。
 そう結論付けた女は腰にかけていた水の袋を取り出すと、ジン(魔人)の口に水を注ぐ。
 ―――このジン(魔人)でも本当にぎりぎりだったみたいね。
 ジン(魔人)の口に注いだ水は一口も含まれることなく零れ落ちて、砂の中へと染み込んでいった。
 自分で水を飲む力も、もう残っていないのか。仕方がない。
「どうしよう、本当に大丈夫?」
 少年の顔がまた不安げに曇る。女は大丈夫だ、とまた少年の頭をなでてやり、自分の口に水を一口含んだ。
 そして自分の唇を男の唇に押し当てて水を流し込んだ。男の喉がこくりと動く。
 これで飲めるならひとまず安心だ。本当は塩があったほうがいいんだけど。
 そう思いながら、もう一度口に水を含んで、男の口に流し込んでやる。それを数回繰り返した後、女は男体を冷やすために使える布がないか、と少年に尋ねる為に振り返って驚いた。
「どうしたの!? 顔……真っ赤だよ?」
 まさか、この子も日射病にかかってしまったのではないかと思い、急いで水の袋を少年に差し出して、無理矢理水を飲ませた。少年も急いでその水をごくごくと飲む。
 そして、ぷはぁ~と、息をついて、少年は恐る恐る言った。
「今のって、キス?」
 少年の言葉に女は一瞬、動きが止まる。少年の目がちょっと輝いているような気さえした。女はまたもやそんな少年に呆れてしまった。
 さっきまでこのジン(魔人)の心配をして泣いていたっていうのに、もう大丈夫だと分かった途端、けろりとしている。子供っていうのは恐ろしいな。あまり考えずに好奇心だけで聞いてくる。
 心配して損した。女は盛大な溜息をついて答えた。
「今のはただのジン(魔人)命救助!」
 とりあえず冷やすための布をと思い、女は自分のスカートの布を破って何枚かに裂き、それに水を浸して、男の両脇と首筋、額に付けてやった。
 応急措置としてはこれでいいだろう。本当は日陰に連れて行ったほうがいいとは思うが、自分とこの少年だけでこのジン(魔人)を運ぶのはとてもじゃないけど無理だ。
 女はとりあえずジン(魔人)を自分の陰に入れておくことにして、さっきの場所から動いて来ない少年を呼んだ。
「あなたもこっちに来て、陰に入っときなさい。水も、もう少し飲んで」
 少年は素直に頷くと、駆け寄って来て女の影に入った。女から水の袋を受け取り、こくこくと水を飲み始める。
 水を飲み終わった少年は、ぷはぁっと息を吐き出すと、女のほうを見上げて尋ねた。
「お姉さんは陰に入らなくて大丈夫なの?」
「そうねぇ、ちょっと暑いけどこのくらいなら大丈夫よ、そんなに長くここに居るわけじゃないし」
 それに、ここには女が作った陰だけで、他に入れそうな陰はない。
 心配しないで、と言うように女は少年に笑いかけた。だが、それを見た少年は顔をしかめる。
「だけど、シェラートは大丈夫だって言って、僕に上着で陰を作ってくれただけで、自分はほとんど影に入ってなかったから、いきなり倒れちゃったよ?」
 少年がちょっと怒ったように言う。
 女は呆れたようにちらりと、自分の影の中に横たわっているジン(魔人)を見た。
 そんな事をしていたのか。どうやらこのジンは(魔人)は、小さな契約者にとてつもなく甘いらしい。
 ジン(魔人)って結構わがままだって聞いてたんだけどな。
 しかもそれが結局、少年をおおいに困らせることになっているのだからどうしようもない。
 まったく、自分の契約者に、しかも、こんな小さい子に心配をかけさせるなんて。起きたら、この子の倍、説教しなくては。
 再び少年に視線を戻すと、まだ少年の黒い瞳がじっと女のほうを見ていた。
「分かった。私も陰に入っとく」
 そう言って女は、さっきまで男にかかっていた上着をとって、自分の頭上に掲げて陰を作った。
 それを見た少年が満足そうに笑う。
「いい子ね」
 女がそっと少年の頭をなでると照れたのか少年の頬が少し赤くなった。少年の栗色の髪は柔らかくて気持ちがいい。
 きっと少年は女もジン(魔人)と同じように倒れたら、と不安に思い、怖かったのだろう。少年がそう思っていることが分かったからこそ、女は上着を使ってわざわざ陰を作ったのである。
 女に髪をなでられて気持ちよさそうに目を細めていた少年は突然「そうだ」と声を上げた。
「まだお姉さんの名前聞いてなかった!」
 そういえばそうだったわね、と答えながら女は少年のその唐突さに、クスクスと笑ってしまった。
「私はフィシュアよ」
「フィシュア……さん?」
「フィシュアでいいわ」
 フィシュアが笑いかけると、少年は大きくうなずいて言った。
「うん。フィシュア……、うん。フィシュアの茶色の髪はお陽様に当たると、キラキラ金色に光って綺麗だね! それに瞳の色も! すっごくきれいな藍(あお)! 僕、海ってまだ見たことないんだけど、すっごく綺麗なんだって!! きっとフィシュアの瞳の色と同じなんだろうね!!」
 身を乗り出しながら、自分のことを褒めてくれる少年を見て、思わずフィシュアは声を立てて笑い出してしまった。
「なんか僕、変なこと言った?」
 突然笑い出したフィシュアを見て、不思議そうに首を傾げる。それがまたフィシュアにはおかしかった。
「ちがうの。そんな風に言ってもらったのは初めてだったから、嬉しかっただけ」
 確かに今までにも、この髪と瞳の色を褒めてくれる人はいた。けれど、ここまで率直な感想は初めてだった。そして、その素直な感嘆は今までのどの褒め言葉よりも本当に嬉しいものだったのだ。
 本当? ならよかった、と少年は、ほっと胸をなでおろす。
「うん。ありがとう」
 フィシュアはふわりと微笑んで礼を言った。それから、ジン(魔人)の方を見て今度は少年に尋ねる。
「えっと、このジン(魔人)はシェラート……よね? あなたの名前は?」
「そう、こっちはシェラートで、僕はテトラン」
「テト(強い)、ラン(光)?」
「うん! お母さんがつけてくれたの!」
「素敵な名前。きっといいお母様なのね」
 フィシュアがそう言うとテトランはすごく嬉しそうな顔をした。けれど同時に、その顔が少し翳ったようにも見えた。
 しかし、フィシュアがその違和感に首を傾げかけた時には、テトランの明るい声がその考えを打ち消してしまっていたのだ。
「だけど皆は、僕のことテトって呼ぶの。だからフィシュアもテトって呼んで?」
「分かったわ」
 フィシュアが笑ってそう答えると、テトが笑い返してきた。そんなテトを見て、フィシュアはあることを思いつき今度は、ニヤリといじわるそうに笑う。
「テト」
 フィシュアに名前で呼ばれてテトは嬉しそうにパッと顔を輝かせた。
 その頬に何か柔らかいものが触れ、そして再び離れていった。
「よく頑張ったわね」
 そう言ったフィシュアの囁きが耳元で聞こえ、最後にまた髪をなでられ、それからその手も離れた。
 テトは何が起こったのか分からず、目の前のフィシュアをきょとんと見つめた。
 そんなテトを見てフィシュアは艶やかに笑う。
「キスっていうのはこんな風に心のこもったものを言うのよ」
 
 その言葉に、自分が何をされたか理解したテトの顔が、火がついたかのように一瞬で赤くなった。
 それを見たフィシュアは可笑しそうにクスクス笑って、テトの頬に手を伸ばす。
 しかし、フィシュアがテトに触れようとした時、彼女の手は突然別の手によって掴まれ阻まれた。
 
「―――触るな。お前、テトになんてことを!」
 
 フィシュアがその少し低い声の方へ目を向けると、翡翠色の双眸がこちらを睨みつけていたのだ。

 

 

 

(c)aruhi 2008