ラピスラズリのかけら 1:奇妙なめぐり合わせ 5ジン(魔人)

 

 シェラートが目を覚ますとそこには見知らぬ女がいた。
 高い位置で一つに束ねられた琥珀色に近い薄い茶色の長い髪。掲げられた上着のせいで顔が陰っていたが、その中で、どこまでも深い藍の瞳が自分を見据えていた。
 その顔が嫌悪を隠そうともせず歪み、女が口を開く。
「別にいいじゃない。減るもんじゃないし。というかわざわざ助けてやった相手に対する第一声がそれ?
 その溜息の混じった言葉にシェラートは少しムッとする。
「テトの村ではキスは結婚する相手としかしてはいけないと決まっているんだ。そのテトに、お前は……!」
 そんなシェラートの怒っている口調には気にもとめず、女は、あぁ、納得したように頷いた。
「なるほど、だからあんなに顔が赤くなったのね。ということは、テトはミシュマール地方の出身なの?」
「そう! よく分かったね」
 まぁね、と答えた女の後ろから、満面の笑みを浮かべたテトがひょっこりと顔を出す。
「シェラート!!」
「テト、心配掛けたな」
 嬉しそうに笑うテトの頭をなでてやろう、と起き上がろうとしたシェラートは、女の手に体を押し戻され再び仰向けに寝かされた。
 シェラートが眉を寄せると、深い藍の瞳がキッと睨み返してくる。
「今起きあがったら、また倒れるわよ。私は二回もあなたを助ける気なんかないから」
 呆れを含んだ女の物言いに再びムッとしつつも、反論ができずシェラートは押し黙った。
「テト、さっきのお水取って?」
「うん」
 大分少なくなった水の袋をテトから受け取った女は、目で飲みなさいと示し、水の袋をシェラート差し出した。
 シェラートが無言でそれを受取って飲むと、テトがすごく嬉しそうな顔をした。
 その顔を見たシェラートは本当に心配を掛けていたんだなと自覚する。
「本当に悪かったな、テト」
 テトは首を何度か左右に振って、にかっと笑った。
「ううん、いいの。それよりも、フィシュアがシェラートのこと助けてくれたんだよ!」
「フィシュア?」
「私の名前よ」
 そう言った女の深い藍の瞳と目がかち合う。
「そうか、一応礼を言う」
「全く礼になってないんですけど」
 フィシュアは不機嫌そうに「まぁ、いいわ」と呟いた。
「それより、ここから動きたいんだけど、あなた浮かべる? ジン(魔人)って飛べるんでしょう? このままの重さだとあなたを運ぶのなんて無理なんだけど」
 シェラートは少し確かめてみてから答えた。
「できるけど、今は無理そうだな。できて物を出すくらいだ」
「物? なんでも出せるの?」
「たいていは。ただし、何もないところから作り出せるわけじゃない」
「どういうこと? それならどうやって出すのよ」
 フィシュアが、訳が分からないという風に首を傾げると、横からテトが代わりに答えた。
「あのね、シェラートは別の場所から物を取り寄せることしかできないんだよ」
「でもそれは、テトが嫌がるからな」
「だって泥棒みたいなんだもん」
 テトがぷくっと頬を膨らませて言った。
 みたいじゃなくて、完ぺき泥棒だけど、フィシュアは心の中でそう思いながらも、頬を膨らませたままのテトを見て苦笑した。
 だけど今は仕方がない。特に、この二人はできるだけ早く日陰に入って休んだ方がいい。
 それに水は残り少ないのだ。このまま長い時間ここにとどまることになれば二人だけでなく自分まで倒れてしまう。
「ねぇ。物を取り寄せることができるなら馬を二頭と、塩を一握りくらい出して欲しいんだけど」
 フィシュアがそう言うと、シェラートは、どうする? とテトの方へと目配せをした。テトは少し困ったような顔をして考え込む。
「大丈夫よ、別に盗みにはならないわ。馬と塩は私が仕えている領主の館から取り寄せて借りればいいだけだし。あそこなら馬もたくさんいるから二頭ぐらい、いなくなっても分からないと思う。もし、ばれた時は私が事情を説明すればいいし」
 それなら、と今度はテトがシェラートを見る。それを見てシェラートが片眉を上げた。
「ラクダじゃなくて、馬でいいのか?」
「馬のほうがいいの。ここからオアシスまではそんなに遠くないし、場所が分かっていて長旅じゃない限り馬のほうが足が速くて役に立つから」
「分かった」
 シェラートがそう言った瞬間、二頭の馬が現れ、塩の入った小さな袋がシェラートの右手に握られていた。
「早いのね」
 ジン(魔人)の技を初めて目の当たりにしたフィシュアは馬と塩を出すという技そのものよりも、その素早さに目を丸くする。急に違う場所に移された馬たちは驚いているのか少し興奮して、砂の上で足踏みをしていた。
「まあな」
 シェラートはふらつきながらも立ち上がると、塩の袋をフィシュアに手渡した。フィシュアがほとんど無意識でその袋を受け取ると、テトが黒の瞳をキラキラと輝かせて彼女を見上げる。
「ね、すごいよね? 本当に魔法みたいだと思わない?」
「みたいじゃなくて何回も魔法だって言っているだろう?」
 そう言いながらシェラートはテトの頭をポンポンとなでる。
 その様子を呆然と眺めていたフィシュアの目と、翡翠の目が合った。
「どうかしたか?」
 シェラートが訝しげにフィシュアを見る。テトもフィシュアの様子に気づいて心配そうに濃い藍の瞳を覗き込んだ。
「大丈夫? フィシュアも日射病になっちゃたの?」
 二人の声に、はっとしたフィシュアは、慌てて笑顔を作った。
「……なんでもない。大丈夫」
 尚も心配そうな顔をしているテトを見て、フィシュアは「ありがとう」と微笑んでテトの頬に手を当てると腰を少し屈めてから、その柔らかい頬にキスをした。途端にテトの顔が赤くなる。
「おまっ、また、テトになんてことを!!」
 シェラートが慌ててテトを自分の後ろにかばった。
 その反応が可笑しくて、フィシュアはクスクスと笑った。
「さっきも言ったけど、いいじゃない別に減るもんじゃないし。それにほっぺだから大丈夫よ。ミシュマール地方の結婚のキスは口にだったはずだから全く問題ないわ」
「そういう問題じゃないだろう!」
「あら、あなたもしてほしかった?」
「断る」
 即座に拒絶されたフィシュアは少しばかり眉を寄せた。
「心外だわ。喜ばれることはあっても、断られることなんて一度もなかったのに」
 フィシュアはフイッとシェラートから顔をそらす。
 シェラートはその言葉を無視して馬の上に、まだ顔が赤いテトを乗せると、その後ろに自分もまたがった。
 それを見て、フィシュアはますます表情をムッとさせる。
「あなた、ちゃんと道分ってるの?」
「だいたいの方向しか分からない。正確な場所がわかっているならとっくの前に転移している。」
 つまり、正確な場所が分かっているならジン(魔人)は一瞬でその場所に転移することができるのね。
 ケロリとした顔で答えたシェラートを一睨みすると、フィシュアも馬にまたがり走らせ始めた。
 
「付いて来なさい」
 
 シェラートは溜息をついて、一つに纏めた琥珀に近い薄茶の髪をたなびかせて馬を走らせる女を見ていた。
 前に座らせているテトはまだ、きょとんとした赤い顔のまま、頬を抑えている。
もう一つ、「はぁ」と溜息を落とすとテトが落ちないように支えてやりながら、シェラートはフィシュアに続いて馬を走らせ始めた。
 
 
 フィシュアは薄い色の空と砂漠の境目を睨みながら、馬を走らせていた。
 シェラートの使った技を目の当たりにして、ジン(魔人)やジーニー(魔神)が神格化されたり、恐れられる理由が分かった気がした。
 一瞬で別の場所にあるものを取り寄せることができる。
 正確な場所さえわかれば一瞬で転移することも可能か。
 他にどんな技を使うことができるのだろう?
 どの技にしても人外の力に違いない。
 そしてその力は強大すぎるくらいに強大だ。
 シェラートの場合は契約者がテトであるから特に問題はなさそうだ。しかし、その強大な力を手に入れた人間は何をするか分からない。もとは普通であった人間でもその力に溺れ、狂いださないとは限らない。
 その時私たちは本当に対抗することができるのだろうか?
 答えの出ない問いにフィシュアは苦い笑みを浮かべる。
 とりあえず、ジン(魔人)が滅多に人と契約しないらしいということだけが救いである。ジーニー(魔人)に関しては契約すら結ばないことを彼女は知っていた。
 
 だから、ひとまずこのことを考えるのを終わりにすると、フィシュアは手綱を握り直し、今度こそまっすぐと前を見据えながらオアシスへと砂の道を走り続けた。
 
 
 
  
 

 (c)aruhi 2008