ラピスラズリのかけら 1:奇妙なめぐり合わせ 7 説教

 

“説教”という言葉に、さっきまでじゃれあって笑っていたテトの笑顔は明らかに引きつっていた。
 ただ一人、シェラートだけが意味が分からず眉をひそめる。
「説教? 何の話だ?」
 そう言えば、後で説教をするといった時、このジン(魔人)は倒れていたな、と思いつつもフィシュアはシェラートに微笑み返した。
 一見、普通の微笑みに見えるが、その笑顔と共にある有無を言わさぬ深い藍の瞳に、テトは笑顔をさらに引きつらせながら思わず一歩下がった。
 どうやらまだ事態を把握できていないらしいシェラートは怪訝そうにフィシュアを見ている。
 テトはこれ以上フィシュアが怖い笑顔にならないように、必死に黒い瞳で、シェラートへ逆らわないよう、何もしないようにと訴えてみた。
 しかし、眉を寄せてフィシュアを見ていたシェラートはそんなテトの必死な願いには全く気付くことなく、思いっきり首を傾げた。
「わけがわからん」
 その途端、フィシュアの笑みがさらに深くなり、凄味を増した。
 テトは、もうすでに泣きそうになって、シェラートの後ろに隠れようとしたが、それを目ざとく見つけた藍の瞳に睨まれ、蛇に睨まれた蛙の如く、その場から一歩も動けず固まってしまった。
 フィシュアが怖い! さっきまであんなに優しかったのに―――!!
 
 テトから離れた藍の瞳は、もう一度シェラートを見据えると、微笑みかけた。
「お心当たりはないですか?」
「ない」
「―――そうですか」
 シェラートの即答にテトは顔を青ざめ、もうこれ以上フィシュアの顔を見なくて済むように自分の足を見つめることにした。
 
 
 先程までと口調の違う目の前の女をシェラートは不思議に思いながら見ていた。
 さっきからにこにこと笑っている。
 何が面白いんだか、変な女だな、と彼は思い、さらに首を傾げる。
 その女が再びにこりと微笑み、口を開いた。
「あなたは今日どうして自分が倒れたかご存知ですか?」
「日射病だろ?」
 なぜ女が当たり前のことを聞くのだと疑問に思いながらも、シェラートはその答えを口にした。
「では、なぜ日射病になったのかご存知ですか?」
 また、目の前の女がその微笑みを崩さずに尋ねる。シェラートはまた、さも当然だという風にその質問に対し答えた。
「水がなかったからだ。あと、太陽に当たりすぎたかな」
「では、その原因は?」
「水を盗られたからな」
 その言葉を聞いて、女の深く藍の瞳が揺れ、眉がぴくりと動いた。
  ―――あぁ、なるほど。
 シェラートの怪訝そうな顔が、納得顔へと変わる。
  しかし、わっかりにくい女だなぁ。なんで笑ってたんだ。
  シェラートの顔が今度は呆れ顔へと変わった。
 そして、シェラートは目の前にいる琥珀に近い薄茶の髪を持つ女がどうやら自分に対して怒っているらしいということにやっと気が付いたのである。
 
 
 やはり、このジン(魔人)は何もかも分っていたのだ。なのに、何もしなかった。
 何が起こる可能性があるのかを予想できていたにもかかわらず、だ。
 フィシュアはその深く濃い藍の瞳に怒りを湛えながら、しかし静かに尋ねた。
「あなたはジン(魔人)でしょう? 簡単に水は取り返せたはずです」
 あぁ、それは、と理由を続けようとしたシェラートは、隣にいるテトを見て口を閉ざした。
 その答えは、テトにも非があったということを示すことになると気付いたらしかった。
「知っています。テトが水を取り返すのをやめて欲しいとあなたに頼んだのでしょう? テトから聞きました」
 シェラートは驚いてテトを見た。そのテトはうつむいたまま唇をかみしめ今にも泣き出しそうに見える。
「……テトは何も知らなかったんだ」
「そうでしょうね。だけどあなたにはテトを説得させることができたでしょう? だけどしなかった。そして倒れた。倒れたのがあなただったからまだ良かっただけです。でも、倒れるのがテトだという可能性だってあったでしょう? 実際テトだって倒れる寸前に近いくらい脱水症状を起こしかけていたと思います」
 
「それに……」
 
「あなたは、テトがどれほど必死に私の方へ走ってきたのかわかっていますか? どれほど不安で、どれほど心配していたか本当に分かっているんですか?」
 それはシェラートにとって容易に想像ができることで、だからこそシェラートは何も言い返すことができなかった。
 
 フィシュアは、今度はテトに向き直って言った。
「テト、あなたが何を間違えたのか、もう分かりましたか?」
 テトは声も出せず、頷いた。それと同時に黒い瞳からポロリと雫が落ち、次から次へと溢れ出した。
「テトは何も知らなかったんだから悪くないだろう!」
 翡翠の双眸がたまらず、フィシュアを睨んだ。だが、藍の双眸もまた、少しも怯むことなくシェラートを睨み返した。
「そうですね、一番の責があるのはあなたです。テトが何も知ることのできなかったのはあなたが何も言わなかった為ですから。だけど、知らなかったからと言って今回のことは許されるようなことではありません」
 そう言って再びフィシュアは、うつむいたままかすかに震えているテトへと視線を戻した。
「今回は倒れたのがジン(魔人)だったから、運が良かっただけ。ジン(魔人)であの状態なら人だったらもうとっくに助かっていなかった」
 その言葉にテトはびくりと体を震わせた。雫が足元へと吸い込まれてゆく。
「オアシスの場所をはっきりと把握してないまま、砂漠を水なしで渡るなんて自分から死に行くようなものなの。そのくらい、砂漠では水は大切なの。食糧よりも、何よりもね。だから、テト、あなたは水を取り返すべきだった」
 
 それに、とフィシュアは口調を強めていった。
 
「ジン(魔人)が契約者の命には逆らえないということぐらい知っていたでしょう?」
 
 テトが頷く。
 ジン(魔人)は契約者には逆らえない。
 これは、ジン(魔人)という言葉を知っている者なら誰だって知っていることだ。
 つまり、ジン(魔人)が存在するこの世界にはそのことを知らない者は誰一人としていない。
 ジン(魔人)の力、特性はあまり知られてはいない。だが、なぜかそのことだけは周知の事実であった。
 だからこそ、人々はジン(魔人)を求めるのであり、そのジン(魔人)の契約者が不安要素ともなりうるのである。
「テト、あなたはまだ子供だから、このジン(魔人)のことを友達のように思っているかもしれない。だけどね、このジン(魔人)にとっては、あなたは友達である前に契約者なの。テト、このジン(魔人)とこれからも一緒にいたいなら、まず自分が契約者だということを自覚しなさい。そうしないと……」
 
「―――っもういいだろう!!」
 シェラートは次に紡ぎだされるであろう言葉に気付き、それを遮った。
 いまだに泣き続けながらもフィシュアの言葉に耳を傾け続けるテトを後ろにかばい、目の前の女を睨みつける。
 しかし、フィシュアのどこまでも深く、静かさを湛えた藍の瞳はシェラートを一瞥もすることなく、テトを捉え続けていた。
 
 今、テトはシェラートの後ろに隠れて半分も見えない。その少年が震えたのを見てとった二つの藍の瞳が誰も気付かぬほどの一瞬かすかに揺れた。
 その揺らぎを消すかのように、フィシュアは一度瞳を閉じる。
 そして再びその藍の瞳が開かれたとき、フィシュアの赤い唇も再び開かれた。
 
「……そうしないと、あなただけでなく、このジン(魔人)も傷つくことになるわ。あなたがよく考えないで発した言葉が、あなたとこのジン(魔人)を殺すことになるわ。
 それはまだいい方。周りの人さえ巻き込むことになるかもしれない。周りの人にまで危害を加え、殺すことにもなるかもしれない。
 そうなってしまえば、知らなかったからでは済まされない。
 分かるわよね、テト?」
 
 テトは大きく頷いた。
 震えは止まらず、黒い瞳からは涙が流れ続けていたが、テトはもう俯いてなどいなかった。
 黒い瞳はまっすぐとフィシュアを見据える。
 
 フィシュアは腰を下ろし、テトに目線の高さを合わせると、その黒い瞳を覗き込んだ。
 
「―――そのことを忘れてはだめよ。あなたがこのジン(魔人)の契約者であるということを」
 
 フィシュアの言葉にテトは再び大きくう頷いた。
 それを見て、フィシュアの表情がふっ、と和らぎ、茶色の頭をふわりとなでた。
「分かったならいいのよ。これからテトがちゃんと気をつけていけばいいだけ」
 
「……ごめんなさい」
 
それは、ほとんど消え入りそうなほどに微かな声だった。しかし、フィシュアの耳には確かに届いた。
 
 フィシュアの目が満足そうに細められる。
「それは、私に言うんじゃないでしょう?」
「ごめんなさい」
 今度は黒の瞳が、彼のジン(魔人)を見上げていた。
 シェラートはひどくばつの悪そうな顔をしながらも、彼の契約者の頭をポンポンとなでて言った。
「俺こそ、本当に悪かったな」
 
 そんな二人の様子を見てフィシュアは微笑む。
 
「さて」
 
フィシュアが手をパンッと叩いて立ち上がった。
 
「それじゃあ、私は帰るね」
 
「え!?フィシュア、もう行っちゃうの?」
 途端に、テトがフィシュアに驚いた顔を向ける。さすがにもう涙は止まっていたが、その名残の為か黒の瞳は潤んでいる。
「う~~ん、本当はもうちょっと居てあげたいんだけどね、もうそろそろあの水運ばなきゃいけないから」
 テトが今度はシェラートを見上げた。
 シェラートがうっ、と小さく呻く。
 テトのキラキラとした黒い二つの瞳が、止めて、と訴えていた。
 
「……あーーー、その甕運ぶの手伝ってやろうか?」
 黒の瞳に負けたシェラートが仕方なさそうに水の入った甕を見ながら言った。
 
「遠慮しとく。手伝ってもらったら、何言われるかわからないし」
 そう言った瞬間、領主の顔が脳裏をかすめ、フィシュアはものすごく嫌そうな顔をした。
「でも、僕達まだお礼も何もしてないし」
 引き下がるつもりはないらしい黒い瞳が必死にフィシュアを見上げている。
 しかし、フィシュアは、それを、にこりと笑ってさらりとかわした。
「その気持ちだけで、十分よ」
 
「―――うっ!」
 再びキラキラとした黒の瞳の攻撃を受けたシェラートが、今度も渋々と口を開く。
「―――まぁ、礼は……確かに、しなくちゃいけないよな。借りを作ったまま別れるのもなんだしな」
 その言葉にパッとテトの顔が輝いた。
 
 フィシュアは、それを見て思わず苦笑いする。
 だめだ、こりゃ。さっきの説教はあんまり効果なかったかも、と。
 
 はぁっ~、とシェラートが大きな溜息を一つつき、いかにも面倒くさそうな顔をしてフィシュアに向き直った。
 
「借りは返す。礼に一つだけ願いを叶えよう」
 
 意外な申し出に、フィシュアの深い藍の瞳が驚きに見開かれた。
「願い? なんでもいいの?」
 いかにも嬉しそうに満面の笑みになったフィシュアを見て、シェラートはあからさまにげんなりする。
 早くも、さっき自分が言った言葉を取り消したい衝動に彼は駆られていた。
 こいつは本当にさっきまで静かに怒っていた女と同じなのだろうか、とそんな疑問さえ、シェラートの頭をかすめる。
 
「できる範囲でならな。あと、テトが許す範囲でなら」
 
「分かった。一つだけなんだよね?」
 
 「当たり前だ」
 フィシュアの念押しに、シェラートが溜息交じりに即答する。
 
「う~~~~ん」
 フィシュアは眉を寄せると、唸りながら必死に考え出した。
 ジン(魔人)に願いを叶えてもらえることなど滅多にあるはずがない。この機会を逃す手はなかった。
 
 うんうんと唸り続けて考えるフィシュアにシェラートは嫌そうな顔をしながら、できれば外れて欲しい自分の推測を口にしてみた。
「……お前、どの方法がより自分に利益があるか考えてるだろう?」
「……ばれた?」
 フィシュアは悪戯がばれたような子供のような顔をして笑った。
「お前なぁ……」
「だって、叶えて欲しい願いは本当はいくつかあるのよ。それに順番なんてつけられないから、一つの願いで全て叶えられる方法を考えなくちゃ」
「願いを増やすっていう願いはだめだからな」
「あ、それは思いつかなかった」
 シェラートは盛大に溜息をついた。嫌な予感がする。
 
 
「―――決まった!!」
 
「なに、なに?」
 テトは好奇心で輝いた顔で、シェラートは諦めと後悔の入り混じった顔で、それぞれフィシュアを見た。
 
 フィシュアはそんな二人に不敵な笑いを投げかながら、己の願いを紡ぎだす
 
 
 
「私を誘拐してほしい」

  

 
 
 
 
(c)aruhi 2008