「フィシュア様がお戻りになられました」
「そうか、思ったより早かったな」
茶器を持って現れた初老の執事の言葉に、まだ二十代半ばであろう男は書類に落としていた目を上げた。
眼鏡をはずし、一つ伸びをする。
「そうだな、少し休憩するか」
男は椅子から立ち上がると、スタスタと回廊に出る扉へ向かって歩き出した。
歩くたびに、丁寧に一つにまとめられた肩まで伸びる焦げ茶の髪がゆらゆらと揺れる。
そのまま執事の横を通り過ぎると、男は扉の取っ手に手を掛けた。
「フィシュア様のところにおいでですか?」
「そうだ」
執事の持ってきた茶器がカチャリと音を立てた。
「―――このお茶はどうするのです?」
男が執事の方へと向き直ると、執事が恨めしそうな目で見ている。そんな執事に男は思わず苦笑した。
「それじゃあ、一杯いただこうか」
「はい。そういうところがお好きですよ、ザイール様」
そう言うと、執事は紅茶をティーカップへとコポコポと注ぎ、ザイールへと手渡した。
「本当にお前には敵わないな」
子供の頃から自分の面倒を見てくれているこの初老の男はザイールにとって主従というよりも家族に近いかけがえのない存在であった。
自分には祖父がいた記憶がない。だが、この執事と話す度に祖父がいたらこんな感じだろうか、と幼い頃から密かにずっと思っている。
ザイールは執事から受け取った紅茶を一気に飲むと、再び扉の取っ手へと手を掛けた。けれど、少し扉を開いたところで、ふと何かを思い出したように手を止めると、部屋の中の執事の方へ振り返った。
「お前も少し休憩しておけ。私が戻ってくるまで残りの茶でも飲んでここで待ってろ」
それだけ言ってしまうと、ザイールは踵を返し扉の向こうへと去って行った。
扉が音を立ててパタンと閉まり、部屋の中には初老の執事がただ一人残される。
執事はもう一つのティーカップに紅茶を注ぐと、それを一口飲み、「ふぅ~」と息をついた。
「本当にザイール様には敵いませんね」
そう呟いた執事はどの祖父よりも祖父らしい穏やかな顔で、今は閉まっている扉を眺めたのだ。
ザイールは広く長い廊下を目的の場所へと向かって歩いていた。
その廊下は広いと言っても、ただ広いだけで別に豪華と呼べる代物ではない。
領主の屋敷といってもここは田舎だ。土地が余っているから、栄えている街の領主の館と同じくらいには広いというだけなのだ。
強い太陽の日差しと近くにある砂漠から運ばれてくる細かい砂を避ける為、白く丈夫な土壁についた窓はとても小さいものだった。
しかしある時間になると、その窓に取り付けられた青や黄色といった様々な色のガラスは太陽に照らされ始める。その時の白い土壁に映し出される光は溜息が出るほど美しく、歴代の領主が思っていたのと同じようにザイールもまたそれだけで十分だと思っている。
ザイールが三つ目の白い角を曲がると目指していた人物に行きあった。
一つに束ねられ、腰まで流れる琥珀色に近い薄茶の少し癖のある長い髪。お世辞にも白いとはいえぬ程度には、ほんのりと焼けてしまっている肌。そして、どこまでも深く、強い意志を湛える藍の瞳。
初めて会った時は何とも思っていなかったその女を、その日の暮れには知らず目が追っていた。
「フィシュア」
「ただいま、戻りました。ザイール様」
ザイールに対し、フィシュアが丁寧に腰を折る。
「こんなに早く戻るとは思ってなかったから、出迎えが遅れた。悪かったな」
「―――いえ」
そう答えるフィシュアに頷きつつも、ザイールはフィシュアの服装をに気付いて怪訝気に眉を寄せた。
くすんだ白のズボンを履き、同じくくすんだ白の丈の長い麻の服を腰の辺りで紐を使って結んでいる。それはフィシュアが初めてこの屋敷を訪れた時と同じ服装だった。
「フィシュア、今朝はお仕着せを着ていなかったか?」
「……あれは、ちょっといろいろあってスカートが破れてしまいました。すみません」
素直に謝るフィシュアの言葉の内容にザイールは怪訝そうな表情を深める。
「何があった?」
「……転んで、藪に突っ込みました」
どう考えても苦しい言い訳だったが、フィシュアに答える気がないらしいと分かって、ザイールは「そうか」とだけ呟く。
「言ってくれれば、ドレスくらいいくらでも用意したのだが」
「……あれは、動きにくいので結構です」
フィシュアは心底うんざりした様子で答えた。
「しかし、その格好じゃ侍女とはいえないな。働かざる者食うべからず、なんだろう?
それとも、やっと私と結婚する気になったか?」
ザイールはフィシュアの顎の下ほどまで伸びている滑らかな横髪を一房、手に取ると、それに口づけた。
しかし、フィシュアは少しも頬を染めることなく、髪に触れたままのザイールの手をやんわりと退ける。
「それは、何度もお断りしているはずです」
いつも通りの反応にザイールは苦笑する。だが、それさえも愛しいと思える自分は少しおかしいのだろうか、とも感じていた。
「侍女として働けないなら、また水を汲みに行ってもらおうか」
そう言った途端フィシュアの顔が思いっきり崩れたのを見て、ザイールはまた苦笑してしまう。
「―――嫌ですよ。大体あの罰は何ですか」
深い藍の瞳がじとっ、と睨みつけてきた。
「私の命を聞かなかったこの屋敷の者には、いつもあの罰を与えているぞ? 別に嫌がらせでやったわけではない」
「結婚しろ、というのは、侍女に対する命として間違っているでしょう」
睨み続ける藍の瞳を見ながら、ザイールは微笑む。
「確かに。だが、フィシュアに与えた罰も冗談のつもりだったのだが。取り消す前に、上等だと言って飛び出して行ったのはフィシュアじゃないか」
告げられた真実に、フィシュアは目を見開き、己のしでかした行動に激しく後悔しているらしく、がっくりと肩を落とした。
「……まぁ、いいです。今はそれどころではないんですから。とにかく、私の首飾りを早く返してください」
「これか?」
ザイールは首から下げて服の中にしまっていた、首飾りを取り出した。
その首飾りには何の装飾もなく、皮の紐にただ深い藍の石が一つ付いていているだけだった。
「そんなに大事なら、これと一緒にお前もここに留まればいい。大体これを返したら、お前は行ってしまうだろう?」
「当たり前です」
「なら、だめだな。」
あっさりとそう言ったザイールは愛しい女の瞳と同じ色をした石へと口づけた。
「―――そんなこと言っている場合じゃないんですよ!! この街にジン(魔人)が来てしまったらしいのです!」
「ジン(魔人)? それがどう関係あるのだ?」
急に出てきた、ジン(魔人)という単語にザイールは首を傾げる。
「ジン(魔人)にとってその石は天敵なのです。その守り主ともども破壊に来るのは時間の問題でしょう」
ザイールは顎に手を当て少し考え込むと、頷き、フィシュアに微笑んだ。
「この石がジン(魔人)にとって天敵なら、勝てる可能性もあるということだろう? 安心しろ、その時は私が守ってやろう」
ザイールはフィシュアの頭を引き寄せながら、今度はその額に口づけを落とした。
「―――そんな事を言っているんじゃない!!」
「……もうそろそろいいか? 俺もそんなに暇じゃないんだが」
フィシュアがザイールから逃れたその時、二人の頭上から呆れかえった男の声が響いた。
「ジン(魔人)……か?」
眉を寄せ、頭上を見上げたザイールはそこに腕を組んだ一人の男が宙に浮いているのを認めた。
「そうだ」
ザイールはフィシュアをその背にかばうと、常備していた短剣を抜き、その切っ先をジン(魔人)の方へと向けた。
それを見て、ジン(魔人)がふっ、と口の端を上げる。
「いくらお前の腕が良いからと言って、ジン(魔人)に敵うと思っているのか?」
そう言ったジン(魔人)の手には、さっきまでザイールが手にしていたはずの短剣が握られていた。
その光景に驚きよりも焦りを感じて、ザイールは一歩下がり、フィシュアをさらにかばった。
だが、突然フィシュアの手に片頬を包まれ、驚きに目を見張ってフィシュアを見返す。
「―――フィシュア?」
ザイールが怪訝そうな顔で近くにある藍の瞳を見つめていると、フィシュアが微笑んだ。それは、ザイールが初めて見たフィシュアのちゃんとした笑顔だった。
「正直、こんなに守ってもらえるとは思ってなかったので最後の最後で心が揺れてしまいましたよ」
予想もしていなかった苦笑混じりのフィシュアの言葉にザイールの瞳が大きくなる。
「何を―――?」
「早く私の他にいい女(ひと)を見つけてくださいね。間違っても、私を探しに来てはいけませんよ。あなたはこの街の立派な領主なのですから」
ふと、フィシュアの顔がザイールに近づき、頬に柔らかなものが優しく触れていった。
「あなたに幸運を」
耳で囁かれたその言葉にザイールの体は判断が遅れ、一瞬固まる。
その隙を逃さず、首に掛けられていた首飾りが引き抜かれた。
「守り主はお前か?」
ジン(魔人)の言葉にザイールの元を離れたフィシュアが一歩前に出て、無言で頷く。
「―――フィシュア!!!」
我に返ったザイールが叫んだ時、もうそこには愛しい女も、そして突然現れたジン(魔人)さえも跡形もなく消え去ってしまった後だった。
白壁に囲まれたその広い廊下には、ただ一人、ザイールだけが呆然と取り残されていた。
(c)aruhi 2008