ラピスラズリのかけら 2:宵の歌姫 1 謎の首飾り

 

 辺りはすでに暗くなり始め、街灯に灯された火が明々と燃えて通りを照らしていた。
陽が落ちてしまった後の空は、薄い青から濃い藍へと次第に色を変えていく。
完全に夜になる少し前、ラピスラズリの色をした空には猫の爪のような三日月が一つ。
その周りには無数の星が瞬たき始めていた。
「シェラート、お腹すいた……」
 薄暗い街の通りに零れた呟き。とぼとぼと隣を歩く栗色の髪の少年、テトを見やって、シェラートは彼に尋ねた。
「もう、取り寄せるか? 何か食べるもの……」
「それは駄目」
 返って来たのは頑なな意志を持つきっぱりとした言葉。閉ざされた口とテトの表情には決してその手段を使いはしないという彼の決意が滲む。
 けれども、きゅっと結ばれていた少年の口はすぐに歪んで、崩れた。
 今にも唸りだしそうな腹は、意志だけでは膨れない。
 結局のところ、このままでは、どうしようもないのだ。
 テトとシェラートは互いに顔を見合わせると、まるで図ったかのように同時に大きな溜息を夜の始まりに落としたのだった。
 
 
フィシュアと別れた後、二人は人であふれる喧噪の中、夕飯のついでに市場を見て回ることにした。
砂漠の終りの街であり、始まりの街でもあるラルーは砂漠を渡る行商人の中継地点になっている。その為、多種多様な人々が集まると同時に、いろいろな地方や外国からの珍しい品々で溢れかえっていた。
テトは自分の故郷であるミシュマール地方の織物を見つけて懐かしがったり、故郷ではあまり見ることのできなかった色とりどりのガラス細工が所狭しと並んでいるのを見て感嘆をあげ、手にとって光に透かしてはその美しさにはしゃいだ。
露店に並ぶ料理の種類もやはり様々な種類があり、テトはあっちへ行ったり、こっちへ行ったりしてはどの料理が一番おいしいだろうかと見比べつづけた。けれども、なかなか決められそうにないテトの様子に見かねたシェラートはいくつか料理を買って少しずつ食べることを提案したのであった。
しかし、問題はここからだったのだ。
いざ料理を買おうと荷物から財布を取り出そうとした時、シェラートは、その荷物自体がないことに気付いたのである。というよりは、砂漠で水を盗られた時に荷物も一緒に盗られたということを思い出したのだ。
よって、当然料理を買うことなどできず、二人はとぼとぼと市場を離れ、宿が立ち並ぶ通りへと歩き出したのだった。
 
「シェラート、あそこで最後だよ……」
二人の行く先には小さな石造りの宿屋が一つ建っていた。
通りから外れたこの場所には人影がなく、ただその宿屋から漏れる小さな明かりだけが営業しているらしいことを告げていた。
テトとシェラートは一夜の宿と交換に働かせてくれないかと、通りにある宿屋を一つ一つ尋ねて回ったのだが、なんせ、行商の中継地点である。どこも、かしこも満員で泊まれそうになかった。部屋が空いている宿も少なからずはあったのだが、お金を持っていない二人である。働き手は足りているからと言われて断られてしまった。
そうして残ったのが、通りの宿屋とは比べ物にならないくらい小さく粗末な宿ただ一つというわけなのだ。
「また断れたらどうしよっか?」
「……野宿するしかないな」
二人は顔を見合わせると力なく笑った。ここまで来てしまったら、彼らには、もう不吉な予感が当たらないことをひたすら願うしかなかったのだ。
 
シェラートがみすぼらしく今にも壊れそうな木の扉を叩くと、すぐに男が顔を出した。ひげを顎にちょこんと蓄えた、いかにも人の良さそうな男である。
「はいはい、いらっしゃいませ。二名様ですか?」
宿屋の主人は二人の姿を確認すると嬉しそうに顔をほころばせた。男は両の手をこすり合わせて、シェラートからテトへと順に柔和な視線を送る。
「一晩の宿の代わりに、ここで働かせて欲しいんだが……」
ラルーに来てからもう何度も繰り返した言葉をシェラートは口に乗せた。けれど、その瞬間、主人の表情はみるみるうちに曇っていった。
 彼は悲しそうに微笑を浮かべると、「そうですか」と呟いた。
「私も本心ではあなた方を泊めて差し上げたいと思っているのですよ。ですが、働いてもらうといっても、ここには客がおりませんので」
主人は申し訳なさそうに頭を下げると、戸を押し開いて宿の中へと二人の視線を促した。
部屋の中は外からの見かけよりも広く、十台ほど置いてある長テーブルの周りを囲むように椅子が並べられてはいる。しかし、そのテーブルの上には小さなランプの光が灯っているだけで、人と言えば主人の妻であるのだろう女が、こちらも申し訳なさそうに微笑んでいるだけだった。
「このとおりですので……、すみませんが、お引き取りください」
主人がもう一度二人に向かって、頭を下げた時、テトとシェラートの背後から突然女がひょっこりと顔を出した。
 
「ご主人、この二人私の連れなの、一緒に泊めてくれる?」
「―――フィシュア!?」
テトが聞き覚えのある声に振り返ってみると、そこには思った通り、さっき別れたはずのフィシュアが立っていた。ぱっと満面の笑顔をつくったテトを見て、フィシュアが嬉しそうに栗色の頭を撫でる。
「―――お前っ、なんでここにいるんだよ!?」
驚いて目を見張るシェラートに、フィシュアは呆れの混じった顔を向けた。
「どうせ、こんなとこだろうと思ったのよね。荷物も持ってなかったし、どうせ財布も盗られてたんでしょう? 
追いかけてきて正解。感謝してよね」
もちろんシェラートは返す言葉などあるはずもない。シェラートは唖然としたまま、琥珀に近い薄茶の髪を頭の高い位置で一つにくくっている女の悠然とした微笑みを眺めることしかできなかったのだ。
 
「……あのう、失礼ですがお二人のお知り合いの方なのでしょうか?」
一人会話に取り残されていた宿屋の主人は、テトとシェラートの後ろに佇んでいる女を覗き込み、目にした途端、息をのんだ。
「―――っその石!! そ、そそそそれじゃあ、あ、あなた様は……」
驚きを露わにして慌てふためく主人は、フィシュアの首に下がっている深く藍い石のついた首飾りを凝視して完全に声を失して固まってしまった。
彼の視線に気付いたフィシュアは主人に笑いかける。
「明日の夕方でどうかしら?」
その問いかけに、主人はますます動揺しながらも口を開いた。
「ほほほ本当に、本物―――!?」
フィシュアはそれには答えず、宿の中へ目を向けると、ざっと視線を巡らせた。
「もし、よろしければ、宿代もきちんと払うけど」
「―――そそそそんな、めっそうもございません!! 充分すぎるほどに充分でございます!!」
「本当? ありがとう」
フィシュアから礼の微笑みを受け取った主人はもう倒れないように立っておくだけで必死だった。
そんな主人を見かねてか、こちらも驚いた様子ではあるが、女将が扉の方へと近づいてくると心配そうな顔をしてフィシュアに尋ねた。
「しかし、本当にこちらでよろしいのですか? あちらの通りにはもっと良い宿がたくさんありますのに」
「あっちの通りもちゃんと見てきたんですけどね、どこも満員で。それに、私ここの雰囲気暖かくて落ち着くので好きですよ?」
その言葉に女将は少し頬を染め、嬉しそうに笑うと礼を言い、「どうぞ」とフィシュアを中に引き入れた。
「本当にみすぼらしい宿で申し訳ないのですが、料理だけは自慢なんです」
「本当!? それは、楽しみ。もう、お腹ぺこぺこで……」
腹を擦りながら俯いて歩くフィシュアを見て女将はくすくす笑うと、「それなら急いでおつくりいたしますね」と言ってパタパタと調理場の方へと足早に駆けて行った。
それを見て主人も慌てて女将を追いかけ、調理場へと消える。
フィシュアは手近な椅子を引いて腰かけると、二人がまだ入ってきてないことに気付き扉の方へと視線を投げかけ、首を傾げた。
「何してるの? 早く入ってきたらいいのに」
呼びかけてきたフィシュアを、テトとシェラートは揃って開かれた宿の前に立ちつくしたまま、呆然と見返したのだ。
 
 
 
「おいしい!! 女将さん、この肉団子本当においしいですね!」
フィシュアからの嬉しい叫びを受け取って、女将の顔がほころぶ。
彼女の隣ではテトがはふはふと言いながら、肉団子を頬張っていた。
シェラートはなんだか納得がいかないような顔をしながらも、手と口だけはさっきからしきりに動かし続けている。
「フィシュア様、こちらもどうぞお召し上がりになってください」
満面の笑みでそう言った主人は、テーブルの上にドン、と鍋を置いた。
主人が蓋を取り去ると、鍋の中には緑や黄色、赤といった目にも鮮やかな野菜と豆がいっしょくたになったスープが入っていた。
テトは「わぁ!」と歓声を上げると、早速自分のお椀にスープをよそい始める。
満足そうにそれを見ている主人にフィシュアは苦笑しながら声をかけた。
「フィシュア様はやめてください。様なんてつけなくても結構ですよ」
「―――そ、そ、そ、そんなめっそうもない!! フィシュア様はフィシュア様であってフィシュア様なんですよ!?」
再び慌てふためき、訳の分からぬことを言い始めた主人の様子に女将は苦笑しつつも、すかさず助け船を出した。
「すみません、本当に。もしよければ、主人の好きなように呼ばせてやってくれませんか?」
「いえいえ、こちらもなんだか無理を言ってしまったようで。どうぞ好きに呼んでください」
女将は「ありがとうございます」と礼を述べると、今度はスープを飲んで驚いているテトへと声をかけた。
「冷たいでしょう?」
「うん」
温かなスープしか飲んだことがないテトは冷たいスープの入ったお椀を不思議そうに眺める。
「この地域は、結構暑いでしょう? だから、スープを冷やすことはよくあるのよ。中には温めたものより、冷たくした方がおいしいスープもあるわ。これはその一つ。どう? ちょっと気に入らなかったかしら?」
テトはぶんぶんと首を横に振ると、「すっごくおいしい」と笑って、再びスープを食べ始めた。
それを嬉しそうに見ながら女将は空いているお椀にスープを注ぎ分けるとフィシュアとシェラートに手渡した。
 
女将からお椀を受け取り、スープを食べていたフィシュアは、けれど途中で匙を置き、ふと顔を上げた。
「何?」
フィシュアの目線の先には、さっきから怪訝そうに自分を見つめる翡翠色の瞳があったのだ。
「―――いや、助かったけど、さ……お前本当に何者なんだ?」
「なんだ、シェラートさん知らないのかい?」
口を開きかけたフィシュアよりも先に、宿屋の主人が心底驚いたようにシェラートを見やった。そこにはどこか呆れさえも入り混じる。
「フィシュア様がつけてるラピスラズリの首飾りはなぁ……」
「―――待って! この二人にはまだ言ってないの」
今度はフィシュアが主人の言葉を遮る。
「楽しみは後に取っておくものでしょう?」
そう言うと、フィシュアは主人に向かってにやりと笑いかけた。
そんなフィシュアに主人も「まあ、そうですね」と意味ありげな含み笑いを返す。
女将もくすくすと笑いながら彼ら二人のやり取りを眺めていた。
ただ二人、テトとシェラートだけが怪訝そうな顔でフィシュアを見た。
フィシュアはその視線に気付くと、意地悪そうに片目をつむって見せたのだ。
 
「まぁ、明日の夕方になればわかるわよ」
 
 
  
 
 
 
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