ラピスラズリのかけら 2:宵の歌姫 6 夜伽話【2】

 

 翌年、ガジェンは約束通りやってきた。
 
 その男の首からは、紐に通された魔女から奪った赤い石の指輪が下がっている。
 ガジェンは半年前と同じように海の上に現れた愛しき魔女を見上げ、嬉しそうに笑った。
 
「なんだ、ようやく俺の元に来る気になったのか?」
 
 サーシャの左の薬指には別れた時と変わらず男が贈った指輪が輝いていたのだ。
 
「―――誰が!! これは、今度会う時まで失くしたら困るからこのままにしておいたのだ」
 
 全力で否定する魔女をガジェンは可笑しそうに笑った。
 
 それを見て、サーシャは悔しくなった。
 こんな男に、実はこの半年間、綺麗な色だ、と自分の指に光り輝く石を眺めて暮らしていたなどとは口が裂けても言えない。
 
「それよりも、私の指輪を返せ。それは師から送られた大切な指輪なんだ」
 ああ、これか、と言ってガジェンは首から赤い石の指輪をはずすと、そのままひょいっとサーシャの方へ投げた。
 しかし、その指輪はあと少しの所でサーシャに届かず落下し始める。
 指輪についているのは硬度の低い石だ。割れたら大変だ、とサーシャは慌てて落下し続ける石を追いかけた。
 甲板に落ちる直前、ガジェンがパッと指輪を掴み、続いて落ちてくるサーシャもしっかり抱きとめた。
「―――お前、図ったな!?
「引っかかる方が悪い」
 サーシャの耳元で、「ははっ」 と笑いながら、ガジェンは自分の腕の中にすっぽりと収まった魔女をぎゅっと抱きしめる。
「会いたかったぞ?」
「私は別にお前になど会いたくない……」
 以前となんら変わらないガジェンの低く心地の良い声と、懐かしい香りに、今年もまたサーシャは赤面することになったのだった。
 
 それからの毎日もまた、去年と変わらず過ぎて行った。
 ガジェンはただ美しき魔女に会うためだけに港に現れ、ほっといても被害を起こしそうにない、とサーシャが思い始める度、決まって、来なければ船を襲う、と言って彼女を脅すのだ。
 それが、毎度繰り返され、今年も凪の季節が終わるという頃、事件は起こった。
 
「今日は、特別なものを用意した」
 
 自信満々にガジェンが取り出したのは何の変哲もないロープで編まれた網だった。
 ガジェンは出会った頃から相も変わらず網を投げつけてくる。しかも様々な手段を使って。
 サーシャは出会ってこのかた確実に防御の腕が上がってきていると自負していた。
 けれど今日、目の前にあるのは初めてこの男と対峙した時となんら変わらない網だったのだ。
「お前、馬鹿にしているのか?」
 サーシャが嘆息していると、ガジェンとその部下たちの目がきらりと輝いた。
「―――よし、今だ!!」
 その掛け声と共に、魔女に向かって網が投げられる。
 サーシャは気だるそうに片手をあげ、網を薙ぎ払うために突風を起こそうと、その手を一閃させた。
 しかし、起こるはずの風は起こらず、網はサーシャを捕らえた。
 落下しながら自分に絡み付く網を切り刻もうとしたサーシャは、驚きにそのエメラルドの瞳を見開く。
 魔法が全く使えないのだ。
 ガジェンの狙い通り、その腕の中へと絶世の美貌の持ち主は落ちてきた。
 
「成功だ」
 
 いまだ呆然とする魔女をよそに海賊たちは歓声を上げた。
 
 思い当たる原因はただ一つ―――
 
「お前、ラピスラズリを使ったな?」
 睨みつけるエメラルドの瞳にガジェンは、にやっと笑った。
 サーシャはそれを肯定とみなす。
「なぜおまえがこのことを知っている?」
「北西の賢者に教えてもらった」
「……知り合いなのか?」
「あぁ、酒飲み友達だ」
 けろりと答えた男の言葉に魔女は絶句した。
 自分の弱みともなる情報を簡単に教えてどうする!!
 サーシャはあったこともない北西の賢者を心の中で糾弾した。
 恐らく、目の前にいたら思わず首を絞めてしまっていただろう。
 そんな、サーシャの葛藤する姿にさえも目を細め、ガジェンはどこまでも黒い滑らかな髪の中へと顔をうずめた。
 
「こうやって抱きしめるのも久しぶりだな」
 
 いきなりきつく抱きしめられたサーシャは思わず息を呑む。
 最近は捕らえられるようなへまは滅多にしていなかったから、久しぶりに感じる温かさに顔が火照った。
 いつもならすぐに抜け出すことができるが、男へと放つ魔法がすべてラピスラズリによって無効化される今、逃れることは不可能だった。
 とにかく落ち着こうと、息を整えようとするが、それすら無理だった。
 むしろ、男の固い胸板に押し付けられている今、呼吸することさえ困難、というか
「……く、るしい」
 サーシャの訴えに、ガジェンは慌ててその腕を緩めた。
 解放された小さな魔女はぜえぜえと肩で息をしている。
「悪い。大丈夫か?」
「……殺す気か?」
「悪かったって。嬉しくて、つい」
 二人のやり取りに他の海賊たちが楽しそうにげらげらと笑う。
 いつものことながら、見られていたことに気付き恥ずかしさにサーシャは白い肌を真っ赤に染めた。
 それをごまかすかのように、サーシャは話題を変える。
「というか、どうやってラピスラズリを手に入れたんだ? あれはかなり高価なものだろう?」
「画家にラピスラズリの顔料を少し分けてもらったんだ。それをロープにばれない程度に塗りこんだ。」
 ほら、少し光ってるだろう? とガジェンが指さす。
 見ると、確かにロープの網に藍色の細かい粒が付いていた。
「もしかしてそれも……」
「あぁ、酒飲み仲間だ」
 どんな仲間なのだ!!
 サーシャはがっくりと項垂れた。
 そんなサーシャの波打つ黒い髪をガジェンが梳き始めた。
 その手つきの心地よさに思わずうっとりと目を細めそうになる。
「なぁ、今年は本当に一緒に来ないか?」
 今までにない真剣な響きに驚いて男の顔を見上げる。
 そこには言葉の響きと同じ少し不安を含んだ真摯な青い目があった。
 捕らえられたら、もうそこから逃れることは不可能だった。
「わ、たし、は……」
 うっかり口にしそうになった言葉をサーシャは飲み込む。
 
 次にサーシャが口を開いたとき、それはもう魔女の顔だった。
「私は、東の国の魔女だ」
 はっきりと言い切った魔女の言葉に、しかし、ガジェンは動じなかった。
「それは知ってる。東の国の魔女を訪ねてくる人の相談を受けないといけないということも。」
 サーシャは告げようとしたことを先に言われてしまい押し黙る。
 そんな彼女を見て、ガジェンは笑みを浮かべると言った。
「だけど、それならサーシャが今住んでいる家のドアを俺の国に繋げてしまえばいいじゃないか。それで問題は解決されるだろう?」
 考えもしなかったその内容に強い光が宿っていたはずのエメラルドの瞳が揺れる。
 
「サーシャ、一緒に来い」
 
 ガジェンが朱を散らしたサーシャの頬へと手を伸ばした―――
 
 
 
 
 その時、「お頭!」という部下の叫びがあがった。
 
 その声に素早くサーシャを自分の下にかばうとガジェンは短剣を抜いて一閃した。
「―――な、何!?」
「出てくるな!!」
 聞いたこともないガジェンの緊迫した声に、抑え込もうとする男の腕を退けて、サーシャは辺りを見渡して愕然とした。
 目の前に何艘のも大きな帆船が並んでいたのだ。しかも、その上には矢を番えた兵士が何千といる。
 その中央の船の先頭に見知った顔がいるのを見つけ、サーシャは声を張り上げた。
 
「国王! 貴様、約束を違える気か?」
 海賊たちの中に光る二つのエメラルドの瞳を捉え、国王は一瞬たじろぎながらも口を開いた。
「魔女殿、私は約束を違えてなどおりません。約束は貴女が捕らえた者の命は取らないというものだったはず。しかし、貴女はまだ海賊を捕らえてなどいないでしょう?」
 国王の言葉にサーシャはちっ、と舌打ちする。
「だが、この海賊たちはもう船を襲っていない! そちらに被害はないはずだろう?」
「ところが被害はあるのです。海賊たちが船を襲うことはなくても、海賊が出る、というだけで、この港へ来る船は3割も減っているのです。これでは、何ら変わりはありません」
 反論する言葉もないサーシャに国王は続けた。
「魔女殿、貴女を傷つけるつもりなど私にはありません。どうか、早くこちらへお渡りください」
 しかし、サーシャは答えなかった。そんな彼女に国王は嘆息する。
「海賊どもに情でも移りましたか?」
 それと同時に片手をあげ、攻撃の指示を出す。全ての矢がたった一艘の小さな船に向けられた。
 
「早く、この網をはずせ!」
 必死にもがくサーシャを守るように抱え込みガジェンは怒鳴った。
「馬鹿か! 今出たら、あんたに矢が当たるだろう!」
「馬鹿か、お前! 今そんなこと言ってる場合じゃないだろう! 少しぐらい当たったって平気だ!」
「俺が嫌なんだよ!!」
 そう言うと、ガジェンは飛んできた矢を次々と薙ぎ払った。
 他の者たちも自分の方へ飛んで来ない矢は全て無視し、その代り自分のところへ飛んできたものは全て薙ぎ払う。
 
「……すごい」
 思わず零れたサーシャ感嘆に、前を見据えたままガジェンがにやりと笑う。
「俺たちがすごいってこと聞いてなかったのか? 歯が立たなかったからサーシャのところに嘆願が来たんだろう?」
 そうだった。最初、自分がこの海賊たちと出会うこととなったきっかけを思い出し、サーシャは頷いた。
 そう、彼らは魔女に頼まなければならぬほどに厄介なくらい強いのだ。
「矢は俺たちにとって、大した敵じゃない。そうだろう、お前ら?」
 ガジェンの問いかけに、「おう!!」 と四方から雄叫びが上がる。
 最後にガジェンは部下の一人に頷くと、サーシャに声を掛けた。
「だから心配するな?」
 ガジェンがサーシャの頭をポンとなでる。
 けれど、サーシャは眉をしかめて目の前の男を見上げた。
 
 確かに彼らが前、国王の軍に勝ったのは知っている。
 ということは、相手も油断しては、いないはず。
 二度も失態を犯さないためにもそれなりの準備をしているはずだ。
 恐らく、相手の兵の数は以前の数倍に違いない。
 明らかに、こちらの分が悪かった。
 勝負がつくのは時間の問題だ。
 ガジェンもそのことには気が付いているはず。だからこそ今、敵に気が付かれないほどわずかずつではあるが船を後退させているのだ。
 
 ―――お前が部下にその指示を出したことに私が気付いていないとでも思っているのか?
 心の中ではそう叫びながらも、何もできない自分にサーシャは唇を噛んだ。
 
 ガジェンが、「うっ」 と小さな呻き声をあげる。
 その腕には一本の矢が刺さっていた。
「ガジェン!!」
「お頭!!」
 皆が叫び、こちらに目を向ける。それをガジェンが怒鳴りつけた。
「いいから、自分と船を守れ!!」
 その言葉に部下たちは再び前を向く。
 ガジェンも何事もなかったように、次の矢を払った。
「ガジェン!!」
 悲痛の叫びをあげたサーシャに、ガジェンは嬉しそうに笑う。
「初めて俺の名前を呼んだな。この襲撃に感謝しなくちゃな?」
「ガジェン! 早く私の網を取れ!!」
「それは無しだ」
 嬉しそうな顔をしながらも頑として譲ろうとしない男は、しかし、その瞬間青い眼を鋭く光らせると、サーシャに覆いかぶさった。
「……ガジェン?」
 名を呼んだ男の腰の辺りに新たな矢が刺さっているのを見て、サーシャは凍りついた。
 ガジェンはかばったのだ。飛んできた矢からサーシャを。
 短剣で薙ぎ払うには遅いと気づいて、自分を盾にしてまで、サーシャを守ったのだ。
 
「大丈夫か?」
 微笑んで問いかける男に、サーシャはエメラルドの瞳を見開く。
 腰に刺さっている矢の傷は深い。初めに受けた傷よりも。
 それなのに、彼は自身を差し置いて、サーシャの心配をしたのだ。
 
「ガジェン、網をはずせ」
「……だから嫌だと言った」
 小さく嘆息する男を、サーシャはキッと睨みつける。
「私も嫌だ! 私の代わりにガジェンが傷つくのは嫌だ。私はガジェンもみんなも守りたい!」
 サーシャの真剣な訴えに、ガジェンは目を見張り、一度彼女をきつく抱きしめて小さく笑う。
「―――ったく、俺に守らせろよな」
 
 それから短剣を再び掴むと網を切り、魔女を解き放った。
 
 サーシャが手を挙げた瞬間、飛んでいた矢がその場に落下する。
 
 空中で長い黒髪を波のようにたなびかせ、瞳をエメラルドに光らせる魔女にその場にいる誰もが息を呑んだ。
 
 低く、怒りを含んだ声が国王とその軍の元へと向けられる。
 
「早くここを立ち去れ。海賊たちを追い払うのは私に託された仕事のはずだ。邪魔することは許さん」
 
「―――しかし!」
 
 口を開いた国王は、エメラルドの双眸に口をつぐんだ。
 
「何だ?」
 
 魔女は国王へと問いかける。しかし、その問いかけは返答を許さないものだった。
  
 それを受け、国王はすぐさま退去命令を出した。
 全ての船が港へと帰っていく。
 
 それを見届けると、魔女は急いで甲板の上へと降り立った。
 
「―――ガジェン!」
 心配そうに駆け寄ってくるサーシャを見ながらガジェンは溜息を零した。
「あぁ~、ほんと情けないな、俺」
 そのつ呟きにガジェンの周りで部下たちがドッと笑う。
 
 甲板に寝そべるガジェンをサーシャは上から覗き込んだ。
「大丈夫か?」
「大丈夫だ」
 そう答えつつも、起き上ったガジェンは痛みに顔を歪める。
「悪い。私は医療系の魔法は苦手なんだ」
 泣きそうな顔をして、自分を見つめるサーシャの瞼にガジェンは口づけを落とした。
 途端に真っ赤になる魔女を見てケタケタと笑う。
「まぁ、こんなことするくらいには元気だから安心しろ。」
 サーシャはガジェンに殴りかかろうとしたが、さすがに怪我人だから、やめてくれ、と他の海賊たちに阻まれてしまった。
 
「ナディール(季節風)か……。」
 髪を揺らす、強く冷たい風にガジェンが呟く。
 
「―――で、どうする? このまま俺と一緒に来るのか?」
 ガジェンの言葉にサーシャはかぶりを振った。
「やっぱり、まだ行けない。私は東の国の魔女だから。まだ、ここでやらなければいけないことがある。」
 ガジェンは、「そうか」 とだけ呟いた。
 
 日に焼けた男の頬にサーシャは手を触れると、「また来年」 と寂しそうに微笑んで消えた。
 
「また……な?」
 
 ガジェンは美しい魔女が消えた空へと向かって笑みを向けた。
 
 けれども、この男が、この海賊たちが、再びカーマイル王国の港へ現れることは終ぞなかった。
 
 
 
 
 サーシャは窓辺に座り、毎日ひたすら指輪に光る小さな青い石を眺め続けた。
 この石と同じ色の目の持ち主は結局現れず、今はもう再びナディール(季節風)の時期となっていた。
 海賊たちが現れなかった、と国王は魔女に諌められたことも忘れ、嬉々としてサーシャの元へお礼にやってきた。
 はっきり言って、自分がどうやってその対応をしたのかさえ、サーシャには分からなかった。
 
 あれからガジェンとその仲間達はどうしてしまったのか?
 
 もう私になど興味はなくなってしまったのだろうか?
 笑っていたが、ガジェンはあの傷が元で死んでしまったのではないか?
 
 最悪な考えさえ、頭に浮かび始める。
 せめて、私に飽いただけならいい。後者でだけはあってほしくない。
 
 ただひたすら、心配で、寂しくて、胸が痛かった。
 
 
 
 そして、やがてまた季節は巡り、凪の季節がやってくる。
 
 晴れ渡る空を見上げ、サーシャの心の中も晴れ渡り、一つの決心が生まれていた。
 
 ―――会いに行こう。今度は私が。
 
 確かめるのだ。たとえそれが最悪の形であったとしても受け止めなければ、前には進めない。
 
 サーシャは瞳を閉じて、ガジェンが持っているだろう赤い石のついた魔法具の気配を捜し、転移した。
 
 
 
 
 
 着いた場所はどこかの路地裏だった。
 そこに立っている茶の髪の男が目に飛び込んでくる。
 
 ―――生きていた!
 
 久しぶりに見たその姿に、サーシャは胸を震わせた。
 
「ガジェン
 
 自分よりも少し上、空中から聞こえた女の声に男は振り返る。
 驚きに見開かれたその瞳は青。
 やはり、ガジェンその人だった。
 
「サーシャ!?」
 
 ガジェンの表情が驚きから、笑顔へと変わる。
 しかし反対に、サーシャの顔は笑顔から驚きを含んだ戸惑いへと変わった。
 なんと、ガジェンの手には1歳になるかならないかのかわいらしい茶色の髪、青い瞳の男の子が抱かれていたのである。
 
「……子供?」
 
 サーシャの問いかけに慌て始めたガジェンを見て、サーシャは泣きたい衝動にかられた。
 そうか、やっぱり私のことなど飽いたのだ。彼はただ“生ける宝石”が欲しかっただけなのだ。
 他に大切な女がいたのか。
 彼に好かれていると思い込んでいた自分にサーシャは辟易した。
 
 これ以上ここにいたら本当に涙が零れそうだ、とサーシャは家に帰ることにした。
 
 しかし、転移しようとした瞬間、懐かしく、力強い手がサーシャの腕をつかんだ。
 
「―――っわぁ!! ちょっと待て! サーシャなんか勘違いしてるだろう!? そのまま行こうとするのだけはやめてくれ!!」
 
 必死に止めようと慌てるガジェンにサーシャは怪訝そうな目を向ける。
 一体何を勘違いするというのだ?
 
「その子はお前の子だろう?」
 
「そうだ、この子は俺の子だ。だけど俺の子じゃない」
 
「訳が分からない」
 
 再び踵を返そうとするサーシャにガジェンは行かせてたまるか、と掴む力を強くする。
 そんなガジェンの様子にキョトンとしながら彼と同じ青の目を持つ男の子は首を傾げた。
「パパは、僕のパパでしょう?」
「―――うっ、アズー、そうだが、ちょっとややこしくなるから黙っててくれ」
 
「お頭、アズー、そろそろご飯にしますよ、って、……サーシャさん!?」
「ボッチェ!!」
 すぐ近くのドアから顔を出した男は、ガジェンの海賊仲間だった。
 ここにいるはずのないサーシャの存在に驚く彼を見て、ガジェンは天の助けとばかりに顔を輝かせた。
「ボッチェ、悪い、事情は後で説明するから先にアズーを連れて行っててくれ」
 ボッチェは、「分かりました」 と快諾すると、にやにやと二人を何度も振り返りながら男の子を連れて元来たドアへと消えた。
 
 ガジェンはほっと胸をなでおろすと、いまだ宙に浮かんでいるサーシャを見上げた。
「さっきの続きだけどな、アズーは俺が育てている俺の子供だ。みんなにも手伝ってもらってる」
 じゃあ、どこが私の勘違いなのだ、と睨みつけてくるエメラルドの双眸にガジェンは嬉しそうに、にやりと笑う。
「なんだ、サーシャ、あれだけ断っといて、俺に惚れてたのか?」
「―――!?」
 カッと赤くなるサーシャをガジェンは慈しむような眼で眺めた。
「俺に会いたかったのか?」
「―――誰が!!」
「俺がいなくて寂しかったのか?」
「…………」
 その言葉にエメラルドの瞳から涙が零れ落ちた。
 サーシャの虚勢はここまでが限界だった。
 
「……サーシャ?」
 ガジェンが愛しき美しい魔女を覗き込む。
 次々と溢れ出る涙に濡れたエメラルドはどんな宝石よりも輝いていた。
 少なくともガジェンにとっては―――。
 
 静かに泣き続けるサーシャにガジェンはふっ、と笑う。
「泣かなくてもいいぞ? アズーは俺の子供だが、俺の子供じゃないと言ったばかりじゃないか。アズーは酒場の前に捨てられてた孤児だったんだ。アズーを初めに見つけたのは俺だった。これも何かの縁だ、と思って引き取って育ててるんだ。だから……まだ妻はいないぞ?」
 
 安心したか? と見上げてくる青い瞳にサーシャは一気に力が抜けた。
 初めて自分から腕の中へと落ちてきた彼女をガジェンはしっかりと受け止める。
 
「―――寂しかった。また来年と言ったのに……」
 泣き続ける魔女の黒く豊かな髪をガジェンは、ぽんぽんとなでる。
「悪かったな、本当は行きたかったんだけど、アズーがちっさすぎて大変だったんだ。ほら、夜泣きとか……。今はちょろちょろ動き回って船に乗せたら海に落ちそうだし」
 それになー、とガジェンは溜息をつく。
「あんたも悪いんだぞ? 自分は東の国の魔女だから俺とは一緒に行けないって言ったじゃないか。やることがあるって。だから、俺はその役目が終わった頃、それって次の東の国の魔女が決まる頃だろう? その時はアズーも一人前になってるだろうからな、それまでに改めて迎えに行こうと思ってたんだ」
 ガジェンの言葉にサーシャは顔をあげ、エメラルドの瞳を見開いた。
 
 それは―――
 
「俺はまだ諦めきれそうになかったからな」
 驚くサーシャに、ガジェンはにかっと笑う。
「けど、サーシャの方から来てくれるとはな」
 頬を染めるサーシャをガジェンは強く抱きしめた。
「まさか、今更やることがあるからやっぱり帰るなんて言わないよな?」
 耳元で囁かれる問いにますます顔を赤くしながらサーシャは自分の体をガジェンに預けた。
「―――戻っても、多分また手に付かない」
 その答えにガジェンは嬉しそうに笑うと柔らかい黒髪へと顔をうずめた。
 くすぐったいその感触にサーシャも目を細める。
 
「私、本当にここに居てもいいのか?」
 突然、投げられた問いにガジェンは力を緩め、腕の中の魔女を見る。
 何も答えないガジェンに慌ててサーシャは訴えた。
「大丈夫。私もちゃんとあの子の母親になるから……!! きちんと育てる!」
 どこか論点がずれているサーシャの頬をガジェンは思いっきり引っ張った。
「―――な!?」
「ほんっとに……なんでそんな当たり前のことを聞くんだ。サーシャ、ちゃんと俺の話聞いてるのか? 最初っから一緒に居てくれって言ってるだろう?」
 呆れた顔をして、大きな溜息をついたガジェンにサーシャは眉を寄せた。
「お前、最初は生ける宝石の私を貰い受けたいと言ったぞ? “生ける宝石”だからこそ欲しかったんじゃなかったのか?」
「それ同じ意味だろう。別に“生ける宝石”があんたじゃないなら欲しくない。」
 ガジェンの言葉に真っ赤になりつつ、そっぽを向いたサーシャはぶすっと呟いた。
「お前はいちいち判りにくいんだ。大体さっきのだって、この二年来れなかったから子供が大きくなるまで来ないなんて極端すぎるだろう?」
「サーシャだって充分分かりにくいだろう。俺は好かれてるなんてちっとも分からなかったぞ?」
 大きな手に無理やり顔を元の位置へと戻されたサーシャは、「それは……」 と口ごもると今度は俯いて言った。
 
「それは……私もさっき気付いた」
 それを聞いてガジェンはオイッと脱力して、頭をサーシャの肩に乗っける。
「サーシャ、それはないだろう……。ならなんでここまで来たんだ?」
「いや、ただ、会えなくて寂しくて。ガジェンが子供抱いてるの見て、泣きそうになって、まぁ、結局泣いてしまったが、その時気付いた」
「じゃあ、アズーがいなかったら気付かなかったかもしれないのか? というか、アズーがいなかったら今まで通り会いに行ってるからな、やっぱり気付かなかったか」
「まぁ、そういうことになる」
 けろりと答える魔女に、ガジェンはアズーと出会えた奇跡を心の底から感謝した。
 
 ガジェンはもう一度サーシャを抱きしめると、はっきりと言った。
「ここに居ていいに決まってるだろう? というか、もうずっとここに居てくれ。せっかく捕まえたのに逃げられたら困る」
 サーシャはガジェンの腕の中で嬉しそうに頷くと、今度こそ安心したように身を寄せた。
 
 そうだ、とガジェンは呟くと、サーシャの耳元へ口を近づけ、最後の確認をする。
 
「じゃあ、俺の案、採用でいいのか?」
「そうする」
 
 二人はお互い顔を見合せ、笑い合うと、また抱きしめあった。
 二年間の空白を埋めるように。これからは離れることのない存在を確かめるように。
 
 それからすぐ、東の国の魔女はこの国へと移り住むことになったのです。
 けれど大丈夫。魔女に相談したい人は気軽に東の国にある魔女の家の扉を叩いてみてください。
 すぐに、魔女は現れるはずです。
 
 ただし窓の外は東の国には見られない風景が広がっていると思いますが。
 
 今も東の国の魔女の薬指にはエメラルドの傍で青い飾り石が輝いているといいます。
 その上には、それに似合う細い銀のもう一つの指輪も。
 
 きっと彼女はこれからも末永く、幸せに暮らすことでしょう。もちろん大切な人の近くで。
 
 
 
 
 めでたし、めでたし―――
 
 
 
「って、もうテト寝ちゃってるし。絶対最後まで聞いてないよね?」
 頑張ったのに、と残念がるフィシュアにシェラートが呆れたように言った。
「お前の話が長すぎるんだよ。なんでそんな、いちいち細かいんだ。」
「これでも結構省いたんだけどな。私が聞いた話はもっと長いよ? 大体長くもなるよ、これ本人たちが自分の子供たちに御伽話って言って聞かせてた二人が結婚するまでの惚気話だから」
「さっき、昔々ってテトに言ってたじゃないか。というか、今も実在してるのか?」
「うん、実在してるわよ。今は20人の子供たちのお母様。王都にたくさん居た孤児たちを引き取って育ててるサーシャとガジェンは有名よ?王宮も彼らに資金援助してるしね。話に出てきたアズーなんかはとっくに成人して今は船乗りをやってるんだけどね。大体、昔々って言ったあと本当はこの頃の話なんだけどね、って、ちゃんと付け加えたじゃない」
「お前はいちいちややこしいんだよ」
「あら、御伽話は昔々で始まってめでたし、めでたしで終わるのが常識でしょう?」
 あっけからんと答えるフィシュアにシェラートは疲れを覚えてベッドに横になった。
 
 そんなシェラートを見ながらフィシュアはそのまま寝ようとするジン(魔人)に声を掛ける。
「そういえば、あなたも黒髪に緑の瞳よね? もしかして、カーマイル王国の出身なの? それとも、ジン(魔人)の場合は関係ない?」
「ああ」
 それだけしか答えないシェラートにフィシュアは眉を寄せる。
「それはどっちの問いに対する答えよ?」
 シェラートは気だるそうに、「カーマイルだ」 とだけ呟いた。
 それから、翡翠の瞳だけ向けるとフィシュアに言う。
「明日は早いんだから、お前も早く寝ろ」
 それもそうね、とフィシュアは立ち上がるとランプの火を吹き消した。
 おやすみなさい、とシェラートに小さく声を掛け、静かに扉を閉じて出て行った。
 
 
 
 
 闇の中、シェラートは目を閉じる。
 
 彼の瞼に浮かぶのは懐かしい故郷の姿。
 けれど、もう存在しているはずのない風景。
 
 彼がそれを語るのは、もう少し先の話―――
 
  
 
 
 
 
(c)aruhi 2008