ラピスラズリのかけら 2:宵の歌姫 9 宵闇の姫【1】

 

「おい、どこ見て歩いてんだ!!」
 
 明らかに自分からぶつかって来たのにもかかわらずその男は大声を張り上げた。
 大勢の人々が行き交う広い路地で起こった出来事に皆振り返り眉をひそめる。だが、怒鳴り散らしている男がいかにも物騒な人相であると認めると慌てて視線をそらし、そそくさとその場を離れて行った。
 この男に因縁をつけられた方の男は気の弱そうなのが顔に滲み出ていて、悪くもないのにぺこぺこと何度も頭を下げ続ける。
 ただひたすら謝り続ける男に飽きたのか、それとも言いたいことを言ってしまい満足したのか、最後に見下したように鼻で笑うと、男はその場から離れた。
 
 しかし、数歩進んだところで前方からやって来た女が急にふらりと揺れた。
 よけようとしたが、それには数秒間に合わない。
 思わぬところから衝突された男はその衝撃で尻もちをついてその痛みに顔を歪めた。
 当たって来た女も地に手をついて倒れこんでいる。
「何しやがる、危ないだろうが!」
 男が思わず毒気づくと、よろけてきた女は申し訳なさそうな顔をして彼を覗き込んだ。
「すみません。お怪我はありませんか?」
 心配顔で自分を見つめる女に居心地が悪くなったのか、男は女の手を乱暴に振り払い、立ち上がる。
「ちっ、気をつけろ!」
 まだ地面に倒れこんでいる女にそう吐き捨て、舌打ちをすると、そのまま雑踏の中へと消えて行った。
 
 
 
「お前は何やってんだよ。ふらふら歩いてたら危ないだろうが」
 
 男が地面に座り込んでいる女の腕を引っ張り上げて立たせる。
 ありがとう、と微笑んで女はローブについた砂埃を払い始めた。
「あーあ、結構汚れちゃったわね」
 パンパンとローブをはたく女の顔を少年が下から覗き込む。
「フィシュア、大丈夫?」
 女は少年の栗色の髪の毛をなでるとふわりと笑った。
「大丈夫よ、ありがとうテト」
 
 フィシュアは最後にもう一度パンッとローブをはたくと、「ちょっと待ってて」 と言って走り出した。
 その背中を見送っていたテトとシェラートはフィシュアが再びよろめき、一人の気の弱そうな男にぶつかったのを見て、「あっ」 と小さく声を上げた。
 ぶつかられた男はなぜかぺこぺこと頭を下げ、フィシュアの方もその男に負けず劣らずぺこぺこと頭を下げている。
 最後に二人は笑い合うと手を振って別れた。
 
 おまたせ、と笑顔でこっちに走って来たフィシュアにシェラートは軽く溜息をついた。
 とても、さっきふらついてた者とは思えぬような軽やかな足取りだったのだ。
「―――お前はほんと何してんだよ? 人に迷惑かけるのやめろよな」
 その言葉にフィシュアは、むっとして隣を歩くジン(魔人)を横目で見上げた。
「ちょっと、失礼な言い方しないでよね。私はただ人助けをしてたんだから」
「さっきののどこが人助けなんだよ」
 呆れを滲ませた翡翠の双眸が短い嘆息と共にフィシュアに投げかけられる。
 テトも下から、「どういうこと?」 と見上げてくる。
 フィシュアは肩を竦めると言った。
「さっきのおじさんね、すられてたのよ、財布を」
「誰に?」
「私が最初にぶつかった方の怖い顔に髭を生やしたおじさんに。だから、そのおじさんから私が財布をすり返してさっきのおじさんに返してったわけ」
「けど、さっきの奴、あの気弱そうな男に怒鳴ってたのと同じ人物だろう? そんなことしたら自分が犯人だって言ってるようなもんじゃないか。あの喚きで印象は付いてるし、財布がなくなったって気が付かれたら真っ先に疑われそうだろう?」
 怪訝そうな顔をするシェラートにフィシュアは、「甘いわね」 と指を振って見せた。
「そう、その通りよ。誰だってすぐにそのことに思い当るでしょうね。けどね、そこでふと疑問が生まれるのよ。本当のすりだったら、何も言わずに立ち去るんじゃないかってね。だから、結果的に最も怪しい人物が、最も怪しくないように思えてしまうのよ。あの男が本当にそこまで考えてやったかは知らないけどね」
 種明かしをするように手を広げて見せたフィシュアにテトは尊敬の眼差しを送る。
「すごい。すごいね、フィシュア」
 まぁね、と得意げな顔をするフィシュアをよそに、シェラートは真剣な顔をしてテトを諭した。
「いいか、テト、こいつの真似だけはするなよ?」
「ちょっと、それどういう意味よ?」
「すり返しでもすりはすりだろう? というか、それができるってことはすりもできるって言ってるのと同じじゃないか」
 シェラートの言葉に一瞬口をつぐんだフィシュアだったが、腕を組むとフイッと顔をそらして言った。
「いいのよ。私はいいことにしか使ってないもの」
 まだ不機嫌そうな顔をしているフィシュアの横でシェラートが、「はぁ~」 と深い溜息をついたのは言うまでもない。
 
 
 
「さて、今日の宿はどこにしましょうか?」
「どこって別にあそこでいいんじゃないのか?」
 シェラートはすぐ近くにある一つの宿屋を指差した。木造の建物は少し古いが汚いというわけではなく、どちらかというと趣があると言っていい。中も結構にぎわっているようだし、そんなに悪い宿ではないはずだ。
 けれども、フィシュアはその宿の向かいにある少し大きな同じく木造の建物をちらりと見ると、首を振った。
「ここは、やめにして他の宿にしましょう」
 その言葉にテトとシェラートもさっきフィシュアが見ていた三階建ての建物の方へと目を向けてみた。
 だが、そこになぜここがダメなのかという理由を見つけることは出来ない。
 テトは首を傾げる。
「どうしてここじゃダメなの?」
 きょとんとした顔で問いかけるテトに、フィシュアは困ったように笑った。
「だって、ほらあそこ、バデュラの東って書いてあるでしょう?」
 指さされた方、先ほどの建物と並んで立つ看板には確かにそう書かれている。
「どうせ歌うなら、街の真ん中、もっとたくさんの人が集まる宿がいいもの」
 そう言うと、フィシュアは艶やかに微笑み、二人を先導するように颯爽と歩きだしたのだった。
 
 
 
 
 
雨に 三日月
消えない 虹の橋
今ここにいるあなた
 
雨は空へと降り続け
太陽が闇夜を照らす
いつも傍にいるあなた
 
雲は風に逆らって流れていく
いつまでも止まったままの時間
終りのない物語
今ここにいるのはあなた
 
だから私はいつまでも独り
 
 
 フィシュアが歌い終わって戻ってくると、そこには何やら考え込んでいるテトがいた。
 シェラートが眉を寄せているのは別段珍しくもないが、テトが眉と眉の間に皺を作るなど初めてといってもいい光景だ。
「何、テト、どうしたの?」
 椅子を引いて、テトの横に腰かけたフィシュアはいつもと違って険しい顔をし続ける栗色の髪の少年を見る。
 その問い掛けにも気付かなかったのか、テトは腕を組んでただひたすら机の一点を見据え、小さく唸っていた。
 いっこうに変わらない様子のテトに、フィシュアは彼のジン(魔人)を見る。
「何、本当にどうしちゃったの?」
 シェラートは食べていた香草がたっぷりと降りかけられている肉のかけらを置きながら口を開いた。
「あー、なんかお前が歌った途中の曲の歌詞が意味不明だったらしい。それ聞いてからずっと考え込んでる」
「え、それってどの曲?」
「なんか、月とか雨とか太陽とか自然のものがたくさん出てきてたやつだ。」
「あぁ、もしかして、雨に三日月、消えない虹の橋、今ここにいるあなた?」
 口ずさまれた歌に、テトがパッと顔をあげた。
「あれ、フィシュア、いつ戻って来たの?」
 やっぱり聞こえてなかったのか、と半ば呆れながらも、この曲か、と確信したフィシュアは手を挙げると忙しそうに食堂を立ち回っている給仕の女に声を掛けた。
「すみません、紙と、それから何か書く物貸してくれませんか?」
 
 紙とインクの入ったガラスペンを給仕の女から受け取ったフィシュアは紙にさらさらと歌の歌詞を書きだした。
 テトもその紙をじっと見つめる。
 けれど、字を習い始めたばかりの彼が読めるはずもなく、実際は次々と増えていく文字をただ不思議そうな顔をして眺めているだけだった。
 そんなテトの為に、フィシュアは全て書き終わると、単語の下に三日月や虹の図を書き加えながら一つずつ説明していく。
「まず、雨に三日月、消えない虹の橋、今ここにいるあなた、ね。ここまでで分かるのは?」
「今ここにいるあなた。他のはなんだか謎々みたい。だって、雨の日に三日月は見えないでしょう? それに虹だってすぐ消えちゃうし」
「うん、そうね。テトの言う通り。じゃあ、次。雨は空へと降り続け、太陽が闇夜を照らす、いつも傍にいるあなた、は?」
「雨は空から降ってくるでしょう? それに太陽が照らすのは闇夜じゃなくて昼」
「また正解。わかってるじゃない。雲は風に逆らって流れていく、いつまでも止まったままの時間、終りのない物語、今ここにいるのはあなた、は?」
「雲は風が吹く方に流れていくし、時間は止まらない。物語だっていつかは絶対終わる。」
「うん、じゃあ、最後。だから私はいつまでも独り」
「それは、どこも間違ってないよね。でも変なの。だって“私”の傍には今もいつも“あなた”がいるんでしょう? なら、独りなのはおかしいじゃないか。」
 テトは答えを教えてもらおうとフィシュアを見たが、微笑むだけで口を開こうとはしない。
 歌詞の書かれた紙をじっと見ながらテトは再び考え込む。
 だが数分後、「はぁ~、やっぱりわからないや」 と溜息をつくと諦めてしまった。
 横を見ると、シェラートも顎に手を当てて考え込んでいたので、テトはシェラートに任せることにして、香草付きの肉を食べることにした。
 
 テトとフィシュアが食事もほとんど食べ終わり、スープを飲んでいた頃シェラートは顎に当てていた手をはずした。
 深い藍の瞳を探し、恐る恐る答えを確認する。
「……もしかして、全部有り得ないってことか?」
 向けられた翡翠の瞳に、フィシュアは満足そうな笑みを投げかける。
「正解。よく分かったわね。そう、これは有り得ない話の曲なの」
 どういうこと? と顔を向けるテトを見ながらフィシュアは歌詞を書きつけた紙を再び手前に寄せる。
「テトも半分以上は分かってたと思うんだけどね。あと少しだったから。おしかったわね」
 そう言いながら、ペンを握ると、書かれた歌詞の横にフィシュアは一つ一つバツをつけながら説明していく。
「まず、テトが言ったように、雨に三日月、消えない虹の橋、雨は空へと降り続け、太陽が闇夜を照らす、雲は風に逆らって流れていく、いつまでも止まったままの時間、終りのない物語は全て有り得ないことなの。これはいいわよね?」
 フィシュアの確認にテトがこくりと頷く。
「だから、これと同じように並んでいた、今ここにいるあなた、いつも傍にいるあなた、今ここにいるのはあなた、って言うのも実際には有り得ないってことになるわけ。つまり、“あなた”はここにはいないの。だから最後、だから私はいつまでも独り、で終わってるの。これはね、失恋した人の歌なのよ。」
 最後のところにだけ丸をつけるとフィシュアは二人の前で紙をひらひらとはためかせた。
 バツは実際とは違うところ、丸は実際のことと一致するところを示している。
 やっとすっきりした、という顔をしている二人にフィシュアは続ける。
「どんな歌にも物語があるからね。こんな風に歌詞にまで関心を持って聞いてくれるのは、とっても嬉しいわ。ありがとう」
 
 
「そうだったのかい。いやぁ、綺麗だけどなんか悲しげな歌だな、とは思っていたけど、そこまでは考えてみなかったな」
「儂も、今気が付いたよ」
 フィシュアの歌の解説が聞こえたらしい周りの親父たちが五人、椅子を引っ張って集まって来た。
 そんな彼らにフィシュアは微笑みを返す。
「いいえ、もちろん私の歌を聞いて楽しんでいただくだけでも充分嬉しいですよ」
 笑みを向けられた、親父たちは揃って頬を染めた。
「いやぁ、こりゃまいった」
「ちょいと、酒を飲みすぎたかなぁ」
「歌姫様、儂等みたいなのにそんな簡単に笑顔なんか向けちゃだめでっせ?」
 親父たちの反応にテトとフィシュアがクスクスと笑う。
 一緒になってガハハハ、と笑っていた親父の一人が片手をぶんぶんと振りながら言った
「いや、でも、本当危ないですよ? そんな笑顔で夜歩いてみなさい。すぐ攫われちまいますよ?」
 周りの男たちもそれに呼応するように、「そうだ、そうだ」 と頷く。
 そんな、まさか、と笑うフィシュアに、男たちは顔を真剣なものへと改めた。
「いや、本当です。最近この辺は物騒になってしまいましたからね。すりだって日常茶飯事になってきやがったし」
「僕たちも今日すりしてる人見たよ。けど、フィシュアが取り返してあげたんだよね?」
 本当かい? と驚く親父たちの視線を受け、フィシュアは苦笑いをした。
 それでもフィシュアの武勇伝を手振り混じりで語りだそうとしたテトを慌てて止めるのは忘れなかった。
 
「最近ってことは、昔はそうでもなかったのか?」
 シェラートの問い掛けに、親父たちがそろって頷く。
「あぁ、エネロップが来てからだ」
「エネロップ?」
 聞きなれない言葉に三人は同時に尋ね返した。
「強盗集団だ。昼間はすりとかしてるんだけどな。まぁ、昼は人が多いからそのど真ん中で大したことはできないんだろうが、厄介なのは夜だ」
「奴らは、夜通りに出てる奴を襲うんだよ。逆らったら、武器を使うのも厭わない。もう何人も怪我人は出てるし、中には死人だっている」
「強盗は夜だけだってわかってるからさぁ、そんなに遅くまで出歩かないようにはしてるんだけど、ほら、やっぱりどうしても出なきゃいけない時ってあるだろう? そういう時襲われるんだよなぁ」
「そんなに愚行を働いているのに街の警備隊は動いてないのですか?」
 怪訝そうな顔をして聞く歌姫に、男の一人が酒の入ったコップをドンッとテーブルの上に置いた。
「あいつらは役に立たん」
「いやいや、マール、そんなこと言うな。警備隊だって頑張ってるじゃないか。奴らの隠れ家だって見つけてくれたし。ただ、ちっとも手がつけられなかったってだけで……」
「それじゃ、全然意味ないだろうが! 隠れ家が分かってても手出せないなら!」
 その会話にフィシュアは驚いて目を開いた。
「隠れ家、分かってるんですか?」
「あぁ、分かってるんだよ、歌姫さん。エネロップの奴らの顔を知ってる奴なんてほとんどいないんだけどな、そこにいることだけは誰だって知ってる。ピットって言う酒場だ」
 マール、と呼ばれた親父が答えた。まだ怒りが収まらないのか、酒をグビッと飲む。
「街の西のはずれにある。ここの大通りをまっすぐそっちの方角に行きゃあ、嫌でもそいつらのアジトについちまうぜ?」
「そう……なんですか」
 フィシュアは眉を顰めた。
 そんな彼女を見て近くの男がその肩をばしばしと叩く。
「そんな顔せんでも、歌姫さん。夜外に出なきゃ大丈夫なんですから」
「そうですよ。儂等は、飲みに出て騒ぐの大好きなんだがなぁ、おかげで少ししか飲めん。今日ももうすぐお開きだろうよ」
 その言葉に親父たちは一斉に溜息をついた。
 がっくりと肩を下げている彼らにフィシュアは礼をする。
「ありがとうございます。私たちも気を付けますね。けど、聞いててよかったわ。この首飾りについている石って国宝級だから、もし取られでもしたら大変。」
 笑みを向けたフィシュアに、皆が驚愕した。中には、手に持っていた肉を落とした者もいた。
 石とフィシュアの顔を震えた指で交互にさしながらその中の一人が呟く。
「……こ、くほう、きゅう?」
 はい、とフィシュアが頷いたのを見て今度は親父たちが一斉に叫んだ。
 
「国宝級!? その首飾りの石が!?」
 
 その巨大な叫び声に食堂にいた誰もが振り返った。
 それと同時にざわめきが起こる。
 深い藍の色をした宝石をよく見ようと、皆がこぞってフィシュアの方へと集まってくる。
 結局押しつ押されつの大混乱となってしまった。
 悪い、大声を出しちまって、と謝りながら押し寄せる人の波を留めてくれている親父たちに礼を言ってやっとのことで抜け出した三人はそれぞれの部屋へそそくさと引き揚げた。
 
 
 
 
 ランプを一つ灯しただけの薄暗い部屋。
 遠くで羽音が聞こえ、フィシュアは窓を開け放った。
「ホーク」
 小さな、けれど凛と響くその声に呼応するかのように、部屋の中へと大きな翼をもつ茶色い鳥が舞い降りた。
 その鳥の鋭い爪がついた黄色い足には紙がくくりつけてある。
 フィシュアはホークをねぎらうと、さっそくその紙をはずし、広げた。
 内容を見てフィシュアはふふっ、と苦笑した。
「義姉様も相変わらずだな。でも、まあ、よかった。今のところ問題はないようだ」
 ひとりごちたあと、手紙をたたみ直すとそれをランプの火へと掲げた。
 火がチロチロと紙を舐め黒い灰へと変えていく。
「ホーク、ロシュの方はどうしてる?」
 しかし、ホークは、「知らん」 と言うように目をぱちくりさせた。
「何だ? 見てきてないのか? だめだろう? ロシュとも仲良くしないと」
 首を掻いてやるとホークは気持ちよさそうに目をつむった。
 フィシュアは机に置いてあるメモ用紙を二枚取り出すとさらさらと書きつけた。
 書き終わると、二つをたたみ、ホークへと見せる。
「いいか、こっちが兄様と義姉様に、こっちがロシュにだ」
 ロシュと聞いてホークは少し嫌そうな顔をした。
 いや、本当は表情など変わっていない。
 ただ、長年ホークと一緒にいるフィシュアにはそういった微妙な変化が分かるので、それを読み取ってそう見えた、というのが正しいだろう。
「私は元気だから心配するな、とロシュに伝えておくれ。お前にはそれができるだろう?」
 悠然と微笑む主人を見てホークは仕方なさそうに、「任せとけ」 と小さく鳴いた。
「任せたぞ」
 フィシュアが滑らかな茶の背中を押すのと同時にホークが舞いあがり、窓から夜の空へと飛び出た。
 今日は月が出ていない。星明かりだけの闇に近い空。
 
 ホークの優雅な舞をしばらく見ていたフィシュアだったが、荷物を入れた袋から宝剣を取り出すとそれを腰に履いて部屋の扉を開け、食堂に続く階段へと向かった。
 
 もう人のいないくなってしまった食堂はどこか閑散としている。
 
 
 
しかし、予想していなかった人物に部屋を出て少ししたところで行き当たり、フィシュアは立ち止った。
 
 
「こんな夜更けにどこに行くつもりだ?」
 
「ちょっと、下に水でも貰いに行こうと思って。」
 
 けれど、とっさに作った笑顔はシェラートには通じなかったらしい。
 ただ、ひそめていた眉をさらにひそめ、しかめつらしい顔になった。
「そんなものつけてか?」
 翡翠の双眸の先にあるのはフィシュアの腰に履かれている宝剣。
「これは……ただの飾りよ。ほら、宝石がいっぱいついているでしょう? けど、やっぱりたまには手入れしなきゃと思って。部屋の明かりだけじゃちょっと暗すぎてよく見えなかったし」
 その答えにシェラートが深く溜息をつき、腕を組んだ。
「お前、さっきと言ってることが違うぞ? 苦手なら嘘をつくことはやめるんだな。どこかに行くつもりなんだろ? 今日、夜出歩かないように止められたばかりじゃないか。何か知らないがやめとけ」
 仏頂面で自分を見つめるシェラートの方を向き、フィシュアは口の端を上げてふっ、と笑った。
「どうしてそう思うの? というか、あなた私をここで待ち伏せてたんでしょう。どうしてわかったの、って聞いた方がいいかしら?」
 鋭い光を宿した、けれどもそれと同時に光を通さないほど深く藍い瞳を見て、シェラートは溜息を吐いた。
「さっき、わざわざその石が国宝級だって言って、皆の関心を引いただろう。何か裏がない限りそんな自慢するようなこと、お前はしないだろう」
「あら、割と自然だったと思ってたんだけどな」
 フィシュアは口に手を当てて、「失敗、失敗」 とクスクス笑った。
 それを見てシェラートが顔を険しくする。
 
「お前、今日変だぞ?」
 
「出会ったばかりのあなたに今の私が変かどうかなんて分からないでしょう?」
 
 顔を上げ、苦笑した顔のまま、フィシュアは首を傾げた。
 
「―――あぁ、そうだな。けど、テトに心配を掛けるのはやめろ」
 
その答えにフィシュアは肩を竦める。
 
「私って信用ないのね」
 
「信用してないのはお前も同じだろう?」
 
 それには答えずフィシュアは目の前のジン(魔人)を見上げた。
「心配しなくても朝までには戻る。テトが起きる前にね。テトの村にもちゃんと付いていく。だから……」
 一瞬間口をつぐんだフィシュアは一度視線を床に落とし、再びシェラートを見据え、ふっ、と笑う。
 ただし、今度はいつものフィシュアの笑み、花のような微笑みを浮かべて。
「だから、あなたは何があってもいつも通り自分の役目を果たしなさい。テトから離れないこと。テトは外に出さないこと。もし私が朝までに戻れなかったら、何か適当に言ってごまかしといて? 後でちゃんと追いかけるから」
 それだけ言ってしまうとフィシュアはスッ、とシェラートの横を通り抜け下へ降り、外へとつながる戸を開け出て行った。
 
 すぐにシェラートはその後を追いかけて、階段を降り扉を開けた。だが、そこにはただ静かな夜の街が広がっているだけ。
 
 
一人、闇夜へと舞い降りたはずの歌姫の姿はもうどこにも見当たらなかった。
 
  
 
 
 
 
 (c)aruhi 2008