フィシュアが消えてしまったあと、シェラートは言われた通りにすることにした。
そう、自分の役目は無事にテトを無事にエルーカ村まで届け、願いを叶えてやること。
それが最優先事項だ。
ただ、フィシュアがあまりにも馴染みすぎていたから、あの女に何かあったらテトが心配することが分かっているから、もしかしたらと思い待ち伏せしていただけ。一応止めただけ。
そう、ただそれだけ。
だから、フィシュアがそれを気にもせず行ってしまった今、シェラートはどうすることもできないし、どうするつもりもなかった。
明日の朝に戻ると言うなら、何事もなかったように合流するだけ。
戻らないなら、予定通りテトとエルーカ村に向かうだけ。
ただ、勝手に溢れ、漏れた溜息と共に階段を上り部屋へと戻る。
ベッドに腰を下ろすと向かいのベッドで眠っているはずのテトをただ、ぼーと眺めた。
もぐりこんで寝ているのか、こんもりと布団の山ができている。
明日戻って来なかった場合はどんな言い訳をしようか。
けれど、ちっとも思いつかず、「それくらい自分で考えてから行けよな」 と小さいく悪態をつきながら、胡坐を掻いたシェラートは、そこに立て肘をつき顔を乗せて、テトを見る。
テトの布団はその安らかな寝息で上下して……いなかった。
「―――!?」
全く微動だにしない布団に、まさか、とは思いつつシェラートは急いでベッドを降りテトの布団を引っぺがした。
だが、案の定そこにテトの姿はなかった。
辺りを見渡したがもちろんそこにいるはずもない。
暗闇が広がっているだけ。
焦り出した心を落ち着けるようにシェラートは己の黒髪を掻き揚げた。
ベッドのシーツを確認する。
温もりはまだ残っている。しかしそれは微かなもの。今にも冷たくなりそうなものだった。
「―――入れ違いか」
部屋に戻ってきてから何分たったか?
テトが居ないことにも気付かず、ただ、ぼけっと座っていた自分に舌打ちする。
己の仕出かした失態に嫌気がさす。
いや、もしかしたら、食堂に降りているだけかも。その可能性は限りなく無きに近い。
それでも、わずかな希望にすがりたかった。
けれど、やはりその願いも打ち砕かれた。
食堂にも居ない。外にも姿は見えない。
テトはどこへ行ってしまったのか? 宿に居ないということは、やはり外に出てしまったのだろう。
何の為に? それも一つしか思いつかない。フィシュアが出て行ったのをテトもどこかで見てしまっていたのだろう。
どうする?
シェラートは通りを見据え、歯噛みした。
外へと続く戸についた暗いガラス窓には、いかにも狼狽しきっている自身の姿が映っている。
それを見て、シェラートはハッ、と口の端を上げた。
「そうだ、俺はジン(魔人)だった」
気が動転していて、そんな当たり前のことにも気付かなかった。
テトとは契約している。誓約の誓いを追えばいい。
そう思いあったった瞬間、シェラートはテトの気配を探して転移した。
時間は少し遡る。
部屋で寝付いていたテトはドアの外から聞こえてくる話声で目を覚ました。
何を言っているのかは聞こえない。
けれど、シェラートとフィシュアのようだ。
テトは眠り眼をこすり、ベッドを降りようとした。
しかし、そこで話声が途切れ、階段を下っていく音、その後に扉が閉まる音が聞こえた。
寝ぼけたままテトはふと、すぐ隣の窓から外を見た。
その場所、丁度大通りへと続くこの宿の裏手をフィシュアが駆けて行く。
テトは完全に覚醒した。
フィシュアが危ない!
そう思ったテトは慌ててベッドを降りると階段を駆け降りた。
シェラートの姿は見当たらない。
ただ食堂から外に出るドアが開いていた。
けれど、テトはそこではなく、直接裏手へと出る扉、厨房の奥にある勝手口へと向かった。
星明かりとわずかな街灯だけが灯る心もとない夜道をフィシュアが向かった方へと全速力で走りだした。
どれくらい走っただろうか。
テトはようやく前方に白い影を認め、足を止めた。
フィシュアだ。
よかった無事だったんだ。
テトはほっと胸をなでおろす。
しかし、フィシュアの前方に黒い影を二つ発見してテトは息を呑んだ。
うっかり、叫びそうになった口を慌てて手で覆った。
男たちの手には光るものが握られている。
よくは見えないが街灯によって照らし出されたそれは刃物に違いなかった。
しばらくして、男たちがフィシュアを連れて動き出した。
フィシュアもおとなしくそれに従っている。
テトは今日食堂であった親父たちが話していたことを思い出し青ざめた。
フィシュアが攫われる!
あの刃物がもしフィシュアに向けられたら!
おぞましい光景を想像してしまい、体が震える。
僕が助けなきゃ!
だけど、今出ていっても、きっとあの二人相手じゃどうにもならない。
テトはじっと機会を待つことにした。出しぬけるとしたら、ただそれを待つのみ。
その為にも、今はこっそりとテトは三人の後をつけて行った。
案外楽勝だったわね。
あっさりと強盗集団エネロップの根城へとついたフィシュアはその呆気なさに肩を竦めた。
まぁ、探す手間が省けたから助かるけど。
強盗をおびき出すために、わざわざ宝石の飾りがたくさん付いた凝った作りの宝剣も持って来たがそれはあまり意味をなさなかったらしい。
フィシュアの胸の辺りに下がる宵の歌姫の証を確認するとすぐ、男たちはにやにやとした笑いを隠すことなく近づいてきた。
やはり、あの食堂にも一味の何人かが来ていたのだろう。
派手に宣伝していてよかった。
場所を聞いていたといっても、ここの地理にそんなに精通している方ではない。
方角は分かったが、どのくらい進めば問題の酒場に着くのかなどは知る手筈もなかったので正直助かった。
酒場の中をざっと見渡す。
30人くらいか。
えげつない笑みを浮かべた男たちが酒を手に散らばっている椅子だけでなく、テーブルやカウンターの上にも腰かけていた。
カウンターの奥ではやつれた顔の男がびくびくと体を震わせながらも、この場とは似つかわしくない歌姫の登場に驚きを隠せずにいた。
恐らく、この酒場の店主。
店を乗っ取られた後も、逃げる機会はなくここで軟禁状態になっていたのだろう。
それだけ確認するとフィシュアはカウンターに座っている頭首格らしき男へと顔を向けた。
ちっとも怯えを見せない夜のような藍の双眸に頭領の男はにやりと笑う。
カウンターから飛び降りると、わざとらしく腰を深々と下げて言った。
「ようこそ、歌姫様。俺らの為に歌でも歌いに来てくれたのかい?」
その動作と言葉に周りの男たちがげらげらと笑う。
そんな男たちにフィシュアも馬鹿丁寧にお辞儀をして見せた。
「いいえ、こちらこそ、このような素晴らしいところにお招きいただき光栄ですわ」
顔を上げ、にっこりと微笑む。
「そうですね、それでは、あなた方の為に葬送曲でも歌って差し上げましょうか?」
フィシュアの言葉に急に空気がピリリと張り詰めた。
盗賊の頭は面白いものでも見るように目を細める。
けれど、その周りの者、他の男たちは一人として笑ってなどはおらず、皆一様に眉間に皺を寄せた。
フィシュアの近くに居た一人の男は立ち上がると残忍な笑みを浮かべ、フィシュアの方へと歩みよった。
「なぁ、歌姫さんよぉ、あんた今自分がどういう状況にあるのか分かってんのか?」
「ええ、もちろん分かっているつもりですよ? 私は今攫われて強盗団のアジトに連れてこられたってとこでしょう?」
震えをおくびにも出さず、悠然と笑む女に男は笑った。
「なんだ、よく分かってんじゃないか。なら言葉に気をつけるんだな」
そういうと、男はフィシュアの顎に手をかけ、グイッと上を向かせた。
「まぁ、顔はそんなに上等じゃないが宵の歌姫っていう付加価値をつければちょっとはお前もいい値段で売れるんじゃないか? あぁ、でも国宝級だというその証は俺らが頂くからな、大した値にはならないか」
その言葉で緊張していた空気が一気になくなり、代わりに小馬鹿にしたような嘲りが響く。
フィシュアは思いっきり眉を寄せ、嫌そうな顔をした。
「なんかそれ、こないだも似たようなこと言われたけど、本当あなた達にだけは言われたくはないわね。まぁ、とりあえず、その汚い手をどけてくれない?」
「―――何だと?」
今にもこめかみに青筋を浮き出たせそうな男はフィシュアを掴んでいる手に力を込めた。
目を剥く男にフィシュアは溜息をつく。
「ちょっと痛いんだけど。……というかその手をどけろと言っただろう?」
フィシュアは顎を掴んでいる男から顔をそらした。
と同時にドスッ、という音がしてその男がもんどりをうって倒れた。
何が起こったか理解できない男たちはただ有り得ない状況に目を見張る。
ただ一人、偉そうにカウンターでふんぞり返っていた男だけが上体を起こすと口の両端を釣り上げた。
「なかなかやるじゃねぇか」
「お褒め頂き光栄ですわ」
優雅に礼をしたフィシュアの手には鞘が付いたままの宝剣が握られていた。
宝剣の鞘についているのはごてごてとした宝石。
それが見事、気を失っている男の鳩尾に命中したのだ。
ようやく状況を呑みこみ始めた男たちは悪態をつきながら、各々自分の得物を握るとフィシュアを取り囲み、その切っ先を向けた。
一瞬、お互いの間合いを計るように静寂が訪れた。
その静けさを破ったのは、一つの溜息。
「なんか数だけ多いって感じだな……」
「―――ふざけやがって!!」 「この女(アマ)!」
それを合図に男たちが剣を振り上げた。
さっきと同じように座って酒を飲んでいた男だけが躍り出た自分の部下たちを遠くから鼻で笑った。
「馬鹿どもが。乗せられやがって」
それでも手を出す気はないらしく、楽しそうに見物に徹している。
フィシュアは向かってきた男たちを見て口の端を上げた。
前、右、左、前、と次々と襲いかかって来る男たちを順番に薙ぎ払う。
一つに束ねられた長い琥珀に近い茶の髪がフィシュアの動きに呼応するように舞う。その無駄のない動きは剣舞を思わせた。
鞘の抜かれていない剣は決して相手を絶命させる力は持ってなどいない。けれど確実に急所へと打ち込まれるそれの威力は男たちが証明している。
打ち込まれたが最後。一度倒れた者は気絶してぴくりとも動かない。
倒れている仲間を前に、ただの小娘だと完全に侮っていた自分たちの過ち気づいたらしい男たちが一歩下がった。
だが、額に汗をにじませている男たちを挑発するかのようにフィシュアは嘲笑した。
「何だ、もう終わりか?」
その問いかけに男たちは再び逆上した。
今度は一斉にフィシュアへと襲いかかる。
フィシュアは前からの集団を一閃の元に叩き伏せる。
次に、そのすぐ後ろにいた男の懐へと素早く入り鳩尾へと宝剣を打ち込んだ。
後ろに気配を感じ、振り向こうとしたその時だった……
「フィシュア! 危ない、後ろ!!」
「―――テト!?」
予期せぬ人物の登場に驚きながらも、フィシュアは身をひるがえすと後ろから襲いかかって来た刃をよけ、男の後ろへ回り込んだ。そのまま男の首の後へと手刀を繰り出す。
男がちゃんと床に横たわっていることを確認しながら、フィシュアは声の聞こえた方を見た。
耳の錯覚などではなかった。
窓の外からこちらを覗き込んでいたのは、よく見知った栗色の髪に黒の瞳をもつ少年。
「何でここに……?」
動揺を隠せず呟いてしまった瞬間、フィシュアはしまったと思った。
自分への攻撃が止んでいる。
自分と同様、男たちも皆突然の来訪者へと目を向けていた。
しかも、にやにやと面白そうな笑みを浮かべて。
「テト、早く走って逃げなさい!!」
すぐに叫んだが、遅かった。
窓の近くに居た男が、窓を開け放つと、むんずとテトの小さな体を掴んだのだ。
その手から逃れようと、テトがじたばたと暴れる。
「―――テト!」
フィシュアの悲痛な叫びに、男たちが嬉しそうに笑う。
「どうやら歌姫さんのお知り合いらしいな。さしずめ小さな騎士ってとこか?」
余裕に満ちた男たちの笑いが部屋にこだまする。
テトを人質に取られてはどうしようもない。
フィシュアは唇を噛んだ。
完全に形勢逆転だ。
「さて、さんざんやってくれたな、歌姫さん。どうやって楽しませてもらおうか?」
男がフィシュアに手を伸ばしたその時、部屋の中に突風が巻き起こった。
その風でテトを掴んでいた男が部屋の端へと弾き飛ばされる。
「シェラート! あなた何やってるのよ! テトから離れるなって言ったばかりでしょう!?」
テトを抱き、酒場へと現れたジン(魔人)の顔をフィシュアは思いっきり睨んだ。
着いてそうそう怒りだしたフィシュアをこちらも睨みながら、シェラートは怒鳴った。
「大体お前が抜け出すから悪いんだろう? テトに心配かけるなと言っただろう? しかも、巻き込みやがって!」
「―――それは悪かったと思ってる。まさか、付いて来てるなんて気付かなかった。けど、あなたも来るのが遅いのよ、後ちょっと遅かったらテトがどうなってたと思ってるの!?」
「わぁーー!! フィシュア、後ろ!」
延々と続きそうな喧嘩にしびれを切らしたのか、それとも不意打ちを狙ってのことか、再び男たちが襲いかかって来た。
フィシュアは何事もなかったかのように素早く剣を動かすと、さっきと同じように薙ぎ払った。
「ちょっと、シェラート、今度こそちゃんとテトを守りなさいよ?」
「―――いちいち、当たり前のことを言うな!」
そう言うと、シェラートはテトを抱えたまま、向かってくる男たちに手から衝撃波を繰り出し、ぶつける。
目に見えない攻撃に、ただ男たちは反対の壁まで吹っ飛び、訳が分からないうちに気を失った。
ただ酒を飲みながらその様子を鑑賞していた男は次々と倒れていく部下たちに、さすがに立ち上がった。
けれど面白そうなものを見る笑みは決して崩れていない。
「後たったの五人か。やるね~。」
ぴゅい~、と軽く口笛を吹き鳴らすと、腰に履いていた短剣を投げた。
「―――フィシュア!!」
飛んでくる短剣に気付いたシェラートはフィシュアに当たる寸でのところで衝撃波を出し、それを落とした。
止められたことに安堵したシェラートの横でカキンッと何かがぶつかったような乾いた音が鳴り響き、カランと床に落ちた。
落ちていたのは、一つの短剣と色とりどりの宝石が付いた凝った作りの鞘。
「私のことはいいから、テトを守ることだけに集中しなさい!」
「おみごと、おみごと」
エネロップの頭領が嬉しそうにパチパチと手を叩く。
「ここまで、やってくれるとはな。俺も楽しみがいがあるってもんだ」
冷徹な色に染まった藍の双眸がその男へと注がれる。
「一度ならず、二度までもテトに手を出すとは……」
「おいおい、俺はまだ一回しか出してないだろうが。あと一回はあそこに伸びてる奴だっただろ?」
「部下の失態は頭の責任だろう?」
「まぁ、確かにそうだな。で、どうするんだ? 刀を抜いたって言ってもそれは所詮飾りもんだろ? 俺を殺すったって無理な話だぜ?」
「それでも、さっきより数倍は威力が増す。それに、別段お前を殺す気などないから問題ない」
「じゃあ、どうするってんだよ?」
「牢行きだ。お前たちは警備隊に引き渡す」
「げ、まじかよ? 豚小屋行きか。」
その言葉とは裏腹に、おどけたように笑う。
「それじゃあ、まぁ、手合わせ願いますか、歌姫さん。……っと、おい、お前ら」
男の視線が、残っている部下へと注がれる。
口は笑っているが、目は黒く濁っているだけで笑ってなどいなかった。
「死にたくなかったら、邪魔すんじゃねえぞ? 手元が狂っちまったら困るだろう?」
頭領の男が手に持っていた短剣をひらひらと振る。
残っていた男たちはがくがくと頷くと慌てて壁へとよけた。
「あ、そうだ。そこの兄さんもその子が大事なら、歌姫さんとの勝負が終わるまで手ぇだすんじゃねえぞ? 終わったら、今度はあんたと勝負してやるからさ」
その言葉にシェラートは何も言わなかった。
テトを抱えたまま、こちらも壁へと移動する。
出そうと思えばいつだって手は出せる。
けれど今手を出したら、またフィシュアが怒るだろう。
シェラートにはそっちの方が面倒だった。
「なんか、ずいぶんと舐められているようだが、お前はさっき何も見ていなかったのか?」
「ん? ちゃんと見てたぞ? そうだな、歌姫さん、あんたは確かに俺の部下たちよりも強い。技術だけだったら、俺よりも少し上かもな。……けど、あんたは甘すぎる」
「……それは、自覚している。よく言われてるからな」
肩を竦めて言ったフィシュアに男は破顔した。
「なんだ、ちゃんと分かってるのか。それなら、かなりましだな。じゃあ、俺よりちょっと下ってくらいにしといてやるか」
「なんだそれは。全く嬉しくないんだが」
「そうか? せっかく褒めてやってるのに。めったにないんだぞ? 俺が褒めることって」
頭領の男は新たに腰から長剣を抜くと、切っ先をフィシュアへ向け、にやりと笑った。
「それじゃあ、始めるとするか」