ラピスラズリのかけら 2:宵の歌姫 11 宵闇の姫【3】

 

 先に動いたのはフィシュアだった。
 相手の間合いに入り込むと、宝剣を横に払う。
 だが、それはヒュンッという音と共に虚しく空を切った。
 難なく切っ先をよけた男との間合いは、フィシュアが切り込む前となんら変わらない。
 再び地を蹴り、さっきより強く踏み込む。
 振り落ちてくる剣を、男が自分の長剣で弾いた。
 確かに男が言っていた通り、剣の技術は決して上ではない。けれど、男の見た目と同様、粗雑なその剣は乱暴であると同時に威力がある。
 勢いに押されたフィシュアは体勢を立て直す為、一瞬飛び退く。
 しかし、男はそれを許さなかった。
 フィシュアが飛びのいたのと、男が踏み込んだのは同時だったのだ。
 呼気がかかるほど顔を寄せた男は、にやりと笑った。
「やっぱ、俺が思ったとおり。なかなかやるなぁ。布一切れでもこれが止められるなら上出来だ」
 まさに男の証言通り。
 フィシュアの腹へと繰り出された剣の切っ先は、布一枚、寸での所で宝剣に留められているにすぎなかった。あと数秒、いや、あと一秒でも反応が遅れていたら腹は割かれ、鮮血がその布を染めていたことだろう。
「俺との力の差が解ったろう?」
 おどけながら、男は藍の瞳を覗き込んだ。
 静かさを湛えた深い藍に、満足そうな笑みを浮かべながら強盗団の頭フィシュアから離れる。
「いいねぇ、その眼。俺の阿呆な部下たちと違って挑発にも乗ってこないし。いつでも冷静に判断できる奴は好きだぞ?」
「それはどうも」
「あんたをここで殺しちまうのも惜しいなぁ……。そうだ、歌姫さん、俺の部下にならないか?」
「断る。私が頭領なら考えてやってもいいぞ?」
「それは、俺が嫌だなぁ」
 交渉決裂か、と頭は肩を竦めると長剣の先をフィシュアへと向ける。
 
 だが、急に首を捻ると再び言葉を続けた。
「なんか、これだと明らかに俺が有利だよな? やっぱ、ハンデつけた方がいいか?」
 男の言葉に嘲笑の響きはない。
 ただ、自分の剣とフィシュアの剣を見比べていた。
 その視線に気付いてフィシュアは嘆息する。
「気遣いは有り難いがその必要はない。確かにこの宝剣は短剣と言っていい。リーチもお前の長剣より短い。だが、私にはこれが使いやすいからな。この宝剣を使うことでこちらが不利になるとは思わない。万が一お前に負けたとしても不平など言わんから安心しろ」
「でも、歌姫さん。そしたら、あんたは確実に負けるぞ? 俺はあんたみたいに甘くないからな」
「大丈夫だ、少し戦い方を変える」
 不敵な笑みを浮かべた歌姫に、男は面白そうに目を細めた。
「へぇ~、そりゃあ楽しみだ」
 瞬間、風がフィシュアの横を切った。
 細い二の腕に一筋、赤い線が走る。
「なんで避けなかった?」
「目の前の敵から目をそらすほど馬鹿ではない。例えどんな場合においてもだ。しかも、急所を狙っているものでないなら尚更。大体避けたらお前は踏み込んで来ただろう? 飛んで来た短剣の方に気を取られていたら反応が遅れるからな。そうしたら、私の負けになる」
「おぉ、正解だ。やっぱ、惜しいなぁ、ぜひ仲間にしたい。いやぁ、でも歌姫さんの柔肌を傷つけるのって抵抗あるなぁ」
「気にするな、そんなに綺麗な方じゃない」
「いやいや、確かに白いとは言えない肌だが奇麗だぞ? 大体、あんた傷つけたらあの男が怒り狂うんじゃないか?」
 頭領がちらりとシェラートの方を見た。
 当の本人はいきなり自分を話に出され、眉を寄せている。
 冷静を保っていたフィシュアもおかしな展開に顔をしかめると、かぶりを振った。
「それは、ありえない。怒ってくれるなら、テトの方でしょう。シェラートにとってはどうでもいいことなんじゃない? テトさえ無事なら」
 思わず口調が元に戻ってしまうほど、衝撃的な言葉だったらしい。
 笑いをこらえつつ、男はどうやら勘違いしていたことに気付いた。
「なんだ、楽しくねぇなぁ~。あんたの肌に傷が付いて怒り狂う男もいないのかよ」
 明らかにテンションの下がった男に、フィシュアは無性に腹がたった。
 なんだか、悔しい。
「―――いるわよ、ちゃんと。でも、この場に来てなくてよかったわね。もしいたら、あなたなんてとっくに倒されちゃってるわよ?」
 嘘は付いてない。
 微笑みを浮かべた、焦げ茶の髪に、薄い空色の瞳をもつ武人が脳裏に浮かぶ。
 彼なら自分に傷がついたと分かった瞬間、傷つけた相手を瞬殺するだろう。
 というか、その怒りが自分にまで及びそうだ。
 説教を受ける自分の姿まで浮かんでしまい、フィシュアは小さな嘆息を漏らした。
「―――というか、そんなに、気にしてくれるんだったら、無駄に傷増やさないんでほしいんですけど。私だって怪我したくないし。おとなしく縄についてくれない?」
「それは、ちょっと無理な相談だな」
 
 男は長剣を握り直し、フィシュアへと向ける。
 フィシュアも表情を戻し、宝剣を握る手に力を込めた。
「……それじゃあ、再開と行きますかね」
 そう言って、頭はフィシュアの前へと進み出ると、その切っ先を振るう。
 フィシュアは体をねじったが、それを完全に避けるのには少し遅く、先程とは反対の腕に裂傷が走った。
 しかし、痛みに顔を歪めることもなく、避けた反動のまま男の後ろに回り込むと、その背に触れた。
 途端、男が左手に持っていた短剣が、カランと音をたてて床へと落ちた。
「―――!?」
 突然走った手のしびれに男は驚愕を隠せず、自分の左手を見る。
 それを見てフィシュアは微笑んだ。
「短剣を使われるのは厄介だからな。塞がせてもらった」
「どうやった?」
 問いには答えず、再び伸ばしてきた歌姫の手を男は剣で払った。
 剣がわずかに当たったフィシュアの手からは鮮やかな色をした血が滲み出る。
「もしかして、ツボか?」
「正解」
 微笑みを浮かべるフィシュアに慄(おのの)き男は一歩下がった。
 間合い以上の間隔を取る。
 長剣のリーチを入れればまだ自分の方が有利だ。
 だが目の前にいる女は多少の傷が付くことなど厭わず手を伸ばしてきた。
 しかも、ほんの少し触れただけでこの有様だ。
 だが、逆に延ばされる手だけに気を配っていたら、今度は宝剣で容赦なく叩き込んでくるだろう。
 なかなか、厄介だ。
 というか、さっきから裂傷を与えているにもかかわらず、眉をぴくりとも動かさない。
 深い傷ではないにしろ、痛みはあるはずなのだが……
「……もしかして、あんた化け物か?」
 少し首を傾げた瞬間、その隙を逃さず歌姫は間合いを詰め、剣を叩き込んで来た。
 男はそれを弾き、反撃に出る。
 切っ先が、ピッ、とフィシュアの肌を裂いたが、肉が切れるまでには及ばない。そのまま体を翻すと男の背へと回りこみ、指先で二か所、トン、トンと軽く触れる。
 やばい、そう思った瞬間にはもう遅かった。
 膝の力が抜け、ガクッと倒れる。
 長剣を持っていた方の手も痺れて使い物にならない。
 倒れた男の首筋にひんやりとしたものが当たる。
 見上げると、そこにはラピスラズリの首飾りを証として持つ宵の歌姫。
 額に球のような汗が染み出ている。
 肌には小さいとは言えない切り傷。
 そこから滲み出る赤い血で、絹のような輝きをもつ琥珀に近い茶の髪が張り付いている。
 それでいて、どこか気品さを持ち合わせた深い藍の目の持ち主。
 口の端を上げてにやりと微笑む仕草までもが優雅であった。
 
「私の勝ちだな」
 
 しかし、刃を喉元に突きつけられ、どう考えても優勢とは言えないにもかかわらず、その男はにやりと満足そうな顔をした。
 
「いや、俺の勝ちだ。歌姫さん、あんたが化け物でない限りな」
 
 男の言った意味が理解できず、首を傾げたフィシュアに強い眩暈が襲う。
 視界がひどく歪み、暗転しそうになった。
 倒れそうな体を必死に抑え、かろうじて立つ。
 その姿を見て強盗団の頭は酷薄そうな笑みを浮かべる。
 先ほどから感じていた小さな眩暈。噴き出る汗。
 久しぶりに激しく立ち回ったからだと思っていたが、これは―――
「―――毒か?」
「正解」
 どうやら、刃先に付けられていたらしい。
 浅いが、体に付けられた裂傷。そこから毒はフィシュアの体を確実にむしばんでいたのだ。
 フィシュアがちっと舌打ちを鳴らす。
 そんな彼女を男は嬉しそうに見上げていた。
「言っただろう? 俺は甘くないって」
 薄れゆく意識の中、フィシュアは目の前の男に反撃を試みようと笑った。
「―――だが、お前も動けないはず。牢行きは決定だ」
「まぁな。でも、豚小屋へ行こうが何しようが、所詮生き残った方が勝ちなのさ」
 そう言い放った男の横でドサッという音が響く。
 
 
「フィシュア!!」
 テトとシェラートがそう叫ぶのとカウンターにいた店主がそれを見て、ヒッと小さく悲鳴を上げたのは同時だった。
 慌てて駆け寄ったシェラートはフィシュアの体を抱き上げた。
 テトは青ざめた顔でそれを横から眺める。
 微かに震えている体。
 とめどなく溢れる汗。
 力強い光を宿していたはずの藍い瞳にあるのは、今にも消えそうな脆弱な光。
 焦点が揺れ動き、はっきりしない眼で、それでも自分を抱き抱える相手を捉えたフィシュアは震える唇を開いた。
「ひ……が、し」
「東?」
 かすれた声で呟いたそれは確かにシェラートへと届いた。
 きちんと伝わった言葉に、フィシュアは安堵し、微かに頷く。
 心配そうに自分を覗き込む二人に心配するな、と力のない笑みを贈った。
「……お前は、こんな時まで無理して笑うな」
 小さく吐き出された嘆息に、フィシュアもこんな時まで呆れなくでもいいじゃないか、と思う。
 
 シェラートはフィシュアを抱えたまま、後ろに手を伸ばした。
 そこから出た衝撃波に、背後から襲おうと武器を持って近づいてきていた男たちが壁へと吹っ飛ぶ。
「あ~、あいつらも、ほんっと体外馬鹿だよなぁ」
 呆れの呟きを漏らした目の前の男を翡翠の双眸が睨んだ。
「解毒剤を出せ」
 向けられた鋭い視線に男は楽しそうに口を開く。
「なんだ、やっぱ、こいつも怒り狂ってるじゃないか。おっと、こっちの小さいのもか。やるなぁ、歌姫さん」
 おどけた物言いにシェラートは声を荒げた。
「解毒剤はどこだ?」
「そんなものはない。」
「―――ない!?」
 シェラートは耳を疑った。
 毒を使う者は総じて解毒剤を持っているはずである。持っていれば、それはもしもの時の保険になりうるからだ。
 しかし、この男は持っていないという。
 男は酷薄そうな笑みを浮かべながら続けた。
「だって、どうしようもないからな。俺が使ってるのはカルレシアの毒だ。触れたが最期、その瞬間お陀仏だからな。持ってたって意味がないのさ。その点この歌姫さんは一体何者なんだ? さっきから結構傷つけてるのに一向に倒れやしなかったからな。内心ではかなり驚いてたぜ。毒に体を慣らした奴だって一瞬であの世行きの毒だぜ? ここまで持つなんて、一体どんな化け物だよ?」
「カルレシア……」
 その名を持つ植物は小さな可愛らしい淡い黄色の花をつける。
 しかし、その外見とは裏腹にその下、根に含まれている毒はほんの一滴で牛をも倒せるという。
 それを受けてもなお、生きているフィシュアは奇跡と言ってもよい存在だった。
 シェラートは眉をひそめて、腕の中で喘いでいるフィシュアを見た。
 呼吸は荒く、かといって力強いわけではなく、細々としたものだった。けれど、その呼気はまだ止まってはいない。
 カルレシアの毒にあおられてもなお。
 一体どんな生活をしてきたのか……?
 
「シェラート!!」
 隣から聞こえた悲痛な叫びにシェラートはハッとした。
 横にはテトの青ざめた顔が覗く。
 いきなり陥った状況。不安で、心配で、必死なテトは泣くことさえも忘れてシェラートを見上げていた。
 テトの言わんとしていることに気付いたシェラートはかぶりを振った。
「魔法ですぐ治すことはできない。怪我は治せるが、毒は中から中和するしか法はないからな」
「―――そんな!」
 沈痛な表情を浮かべるテトの頭をシェラートはポンとなでた。
「けど大丈夫だ。何とかする。だが悪い、テト、ちょっと盗むぞ?」
 シェラートの言葉にテトは大きく首を縦に振った。
 フィシュアが助かるならいい。
 フィシュアが助かった後、ちゃんと謝りに行けばいい。怒られたっていい。
 
 シェラートはテトが承諾したのを確認すると、右手に三種類の葉を数枚と水の入った小瓶を転移させた。
 その手の中で風が巻き起こり、葉が細かく切り刻まれていく。
 あっという間に葉は粉になったかと思うと、それは小瓶の中へと吸い込まれ、渦の起こった水に巻き込まれていく。
 渦が止まった時、瓶の中にあったのは濃い緑の液体。
 シェラートはすぐさまそれをフィシュアの口へと運んだ。
 こくり、と喉が鳴り、確かにその液体がフィシュアの体の中へと流れる。
 だが、飲んだ瞬間フィシュアの体がのけぞったのを見て、テトは仰天した。
「シェラート、それ、本当に大丈夫なの!? なんか、フィシュア、もっと辛そうになってるよ?」
 見ると、フィシュアは顔をしかめて、いかにも苦しそうな顔をしていた。
「あぁ、大丈夫だ。ただ、この解毒剤はこの世のものとは思えないほど苦いらしい。」
 試してみるか? と差し出された小瓶をテトは首を横にぶんぶんと振りながら全力で押し返した。
 シェラートは小瓶を傾けると中に残っている解毒剤を掌に出し、それをフィシュアの裂傷に塗りつけていく。
「―――あとは、もうすることがない。フィシュアの体力にかけるしかないな」
 その言葉にテトは神妙な面持ちで頷く。
「フィシュア、お前ももう寝とけ。」
 フィシュアにはもう微笑むこともう頷きを返す力さえも残っていなかった。
 だからただシェラートの言葉に従いフィシュアはうつらうつらとしていた目を閉じることにした。
 
 シェラートは素直に意識を手放したフィシュアを見下ろした。
 呼吸はさっきよりもましになったような気がするが、それでも流れ出る汗も、細かな体の震えも止まってはいない。
 危険な状態を抜けたなどとはとてもじゃないが言えなかった。
「どこか、ちゃんと休ませた方がいいんだが……」
 フィシュアを抱えたまま座っていたシェラートの目の前に固く絞られた布が差し出された。
 
「大丈夫だって、俺だって動けねえんだ、別にとって食ったりなんかしねえよ」
 横たわるエネロップの頭領の方をびくびくと気にしながらも差し出された店主の手からシェラートはお絞りを受け取ると、フィシュアの顔の汗をぬぐってやった。
 冷たくて気持ちがいいのか、フィシュアの顔が少し和らぐ。
 次いで、奥から持ってきた毛布をフィシュアに掛けてやりながら、店主は心配そうにその顔を覗き込んだ。
「……歌姫様は大丈夫でしょうか?」
 店主から零れた呟きにテトは大きく頷いた。
「大丈夫。フィシュアは絶対助かる」
 少年の祈りのような断言に店主は泣きそうな顔をして微笑んだ。
「そうですよね、きっと大丈夫です」
 
 フィシュアの汗ばんだ顔を拭いてやった後、できた傷から滲み出ていた血を拭っていたシェラートはあることを思い出し、ふと手を止めた。
「そういえば、さっき東って言ってたよな?」
「東に行けってことかな?」
 テトは首を傾げた。
「東って言ってもそこにあるのは、宿屋と市場、酒場、ここいらにあるのとあまり変わりませんよ?」
 店主も首をひねる。
「そうですね、後は……」
 店主が言葉を続けようとした時、バタンと勢いよく酒場の扉が開いた。
 それと同時に大量の人がなだれ込んでくる。
 
 突然の出来事に驚くテトとシェラートの後ろではエネロップの頭が初めて嫌そうな顔をした。
 
 
「……うげぇ、来やがったか。」
 
  
 
 
 
(c)aruhi 2008