ラピスラズリのかけら 2:宵の歌姫 12 宵闇の姫【4】

 

 乱入してきたのはどれも黒っぽい服に腰に長剣を履いた武人たち。
 数は見える所だけで30前後、けれど、扉の向こうにはまだいるようだ。
 そんなに広くはない酒場に突如現れた異様な光景にシェラートとテトは目を見張った。
「……警備隊」
 店主だけが、呆然としながらも歓喜の呟きを漏らした。先程まで怯えていた顔は喜色に溢れている。
「警備隊ってことは、こちらに危害がないと考えてもいいのか?」
 いまだ警戒の色を崩さないシェラートに店主は、「当然です」 と頷く。
 それを証明するかのように警備隊の中央に位置する男が片手をあげ、命を下した。
「ただちに強盗団をひっとらえよ」
 
 ハッ、という掛け声とともに警備隊がその場に転がっているエネロップの者たちを縄で縛り、捕らえ始める。
 その間を縫って、先ほど号令をかけていた人物はシェラート達の方に走り寄ってくると一礼をし、膝をついた。
 シェラートの腕の中で横たわっているフィシュアを認めると眉間に少し皺を寄せる。
「そのラピスラズリ、やはり宵姫様であられましたか。宵姫様のご容態は?」
 宵姫、聞かぬ呼び名ではあったが、恐らく宵の歌姫であるフィシュアのことを指しているのだろう。
「カルレシアの毒にあてられた。一応解毒はしてあるが、まだこの通りだ。安心できる状態ではない」
 端的に語られたシェラートの言葉に警備隊の男は苦渋の色を濃くした。
「……カルレシア。申し訳ございません、私達の到着が遅れたばっかりに。ピット……この酒場の前で見張りをさせていた部下から宵姫様らしき方が入って行かれたと報告を受け、慌てて皆を引き連れて出向いたのですが。言い訳にしかなりませんが、警備隊の詰め所からここまでは東と西。全く反対の、街の端から端ですから、なにぶん時間がかかってしまいました。」
「東? フィシュアが言っていたのは警備隊の詰め所のことだったのか?」
 シェラートの問いに警備隊の男の方が首を傾げた。
「ご存じではなかったのですか? 失礼ですが、貴方様は宵姫様の護衛官様ではないのですか?」
 警備隊の男の問いに今度はシェラートとテトが首を傾げる番だった。
「何だそれは?」
「フィシュアは僕たちと会ったときは始めから一人だったよ?」
「おかしいですね。宵姫様には専属の護衛の方が一人付いていらっしゃると聞いたのですが……」
 考え込もうとした警備隊の男は、しかし、目の端に汗を滲ませながら横たわっているフィシュアを捉えて、考えることをひとまず中断した。
「今はまず、宵姫様をお運びしましょう。詰所には看護の用意もすでに整っております」
 フィシュアを運ぶ為、抱え上げようとした男の手をシェラートは制した。
「いや、俺が運んだ方が早い。詰所の正確な場所を言え」
 訳の分からぬことを言い出したシェラートに、怪訝そうな顔を向けながらも、男は律儀にその問いに答えた。
「先程も言いましたように街の東にあります。この大通りをまっすぐ東に行ったところにある木造の三階建ての建物です」
「―――もしかして、その向かいには宿があるか? 近くに“バデュラの東”と書かれた看板も」
「そうです。やはりご存じだったんですか?」
 平然と返された言葉にシェラートは腕の中にいる人物を睨みつけた。
 東の宿を嫌がったのはそう言う訳か。
 あの時はエネロップの存在をまだ知らなかった。だが、どういう理由かはさておき、フィシュアはどっちにしろ始めから夜抜け出して警備隊の詰め所に行くつもりだったらしい。
 どこに行ったのかばれないようにわざと離れた位置に宿をとったのだろう。
 
「シェラート、そこって……」
 同じくその場所がどこを指しているのか気付いたらしいテトがシェラートを見上げてきた。
「ああ、夕に通ったとこだ。」
 やっぱり、とテトはフィシュアを見つめる。
「テト、とりあえず聞くのはフィシュアが目を覚ました後だ。その為にもちゃんとした所で休ませてやろう」
 頷くテトの頭をポンっとなでるとシェラートはフィシュアを引き寄せ、立ち上がった。
「よし、じゃあ行くか。……っと、お前も連れて行った方がいいよな。いきなり俺たちだけで行ったら混乱するだろうし、説明するのは面倒だ」
 よく分からないが、自分のことらしいと認識した警備隊の男が口を開こうとした瞬間、見慣れた建物がそこに広がっていた。
「―――!?」
 今まで自分が居たはずの西の酒場からその全く逆の東の詰所へと突然移され、男はこの有り得ない事態に混乱した。
 だが、シェラートの、「早くしろ」 という言葉にひとまず我を取り戻すと急いで中へと案内する。
 
 
 詰め所内のベッドに下ろされたフィシュアをすぐに医者が見舞った。
 脈をとり、その腕を掛布の中へと戻す。
「脈は安定しています。この様子なら大丈夫でしょう」
 振り返り、微笑んだ医者にテトとシェラートは胸を撫で下ろした。
「いや、しかし、カルレシアに当たって、これとは……正に奇跡です」
 感慨深げにフィシュアを見ながら医者は目を細めた。
「ここまで毒に耐性を作られるには相当な苦労と苦痛が必要だったでしょう。それを彼女が成さなければならなかったというのは悲しいことです」
 医者は一度顔を伏せると、着替えをさせてよく体の汗を拭いてあげること、一刻ごとに水差しで水を与えてあげること、と申し送りをして部屋から出て行った。
 ここまで案内した警備隊の男はそれらを侍女に任せるとテトとシェラートを下の階の一つの部屋へと案内した。書類と本が立ち並ぶその部屋はどうやら彼の執務室らしい。
 男は自分で三人分紅茶を入れるとテーブルの上に置いて椅子に座り、向かいの席を二人に勧めた。
「申し遅れましたが、私はヴェルムと申します。現在はここバデュラ警備隊隊長をやらせていただいております」
 それに相槌を打とうともせず、シェラートは紅茶に口をつけた。
 テトはそんなシェラートの代わりに簡単ではあるが自分はテトで、こっちはシェラートだと紹介した。
 ヴェルムはシェラートの態度に怒りもせず、テトに笑みを向けた後、真面目な顔をして二人に正面から対し深々と礼をした。
「この度は宵姫様を助けて頂き本当に有難うございました」
 ヴェルムの言葉にシェラートはぴくりと眉を動かす。
「それだ。宵姫とは一体何だ。フィシュアは一体何者なんだ?」
 翡翠の双眸に射られたヴェルムは肩を竦めながらも口を開いた。
「本当に何もご存じなかったのですね。まぁ、私共も宵姫様について知っていることなど大して無いのですが。それでも良ければお話しますが?」
 その問いにテトとシェラートは同時に頷き、先を促した。
 部屋の外からは酒場から引き揚げてきた警備隊が騒がしい。だが、そんな喧騒を全く気にせず、いや、そんなものなど聞こえていないのか真剣な顔をする二人を前にヴェルムはまず確認をとる。
「宵姫様、……フィシュア様が宵の歌姫様であられることはご存知ですよね?」
 目の前の二人が首肯したのを確認するとヴェルムは先を続けた。
「宵の歌姫様は代々この国中、時には諸外国まで足を延ばして各地を回られ歌を披露します。その為、間接的にその各地に実情を見ることができるのです。それがいつの間にか皇帝からの命となり、使命になってしまったそうです。つまり、表の顔としては舞台で歌う歌姫として、裏の顔としては各地の実態を直接皇帝へ伝える者として。
 しかし、やはりそのうちそれをよく思わない者が出てくるわけです。そこで、時の皇帝は宵の歌姫を守る為に専属の武官をつけることにしたのです。これが先ほど私が話していた護衛官のことです。その結果、死人が出ているなど性急さを要する事件等があった場合、皇帝に伝えるよりも早く武官が事件を解決できるようになりました。
 宵の歌姫様、そしてその護衛の武官がどのようにして選ばれるのかは知りません。ですが、各地を回り、事件、争いを解決し、各地の警備隊の詰所の視察をもしてくださる御二方をどんな場合でも援護するようにと私たち警備隊は上から仰せつかっております」
 そこで言葉を切り、紅茶の入ったカップへと口づけたヴェルムにシェラートは畳み掛けるように言う。
「宵姫の話がまだだろう」
 そうでした、とヴェルムはカップを受け皿へと戻すと膝の上で両手を組み、話を再開した。
「宵姫というのは、もとは“宵闇の姫”のことを指します。ただ、その存在が宵の歌姫様と同じ者だと感づかれないよう、一致されないよう、宵闇の姫様と呼ばれているのです。
 けれども、歌を披露された宵の歌姫様が私達警備隊のところへ来られた時に私共がうっかり宵闇の姫様などと言ってしまえばそれは全くもって意味をなしません。ですから、私達警備隊の間ではもっぱら宵姫様、と呼ばせていただいているのです。そうすれば一般人に例えその言葉を聞かれたとしても宵の歌姫様のことを言っているのだろうくらいに思ってもらえますからね」
 シェラートは確かにそう思ったことを思い出し、頷いた。
 やはり、そうでしょう、とヴェルムは笑みを返しながら、再び口を開く。
「しかし、この宵姫様は必ずしも宵の歌姫様と一致するものではありませんでした。と言うより、宵闇の姫が生まれたのはフィシュア様が宵の歌姫を継がれてからです。どのような経緯でそうなったのかは分かりません。ただ、武術にも秀でたフィシュア様が護衛官様と共に闘われ始めたのは確かです。彼のお方が盗賊や今回のような強盗団を壊滅されるのは大抵、陽が落ちて辺りに闇が満ちた頃。それと歌姫の称号である“宵”がくっ付いていつの間にか宵闇の姫と呼ばれるようになったというわけです。
 いや、お恥ずかしい話なのですが、私共だけではエネロップのものを捕らえるには力が及びませんでした。酒場の店主を人質に取られていましたし、機会を練るためにも常に見張りは置いていたのです。丁度その頃に街に宵の歌姫様が現れたと騒ぎになっていたので、きっと視察に来てくださるだろうと、その時に相談を持ちかけようと待っていたのですが、まさか御一人で乗り込まれるとは思ってもおりませんでした。知らせを受けて駆け付け時にはエネロップは壊滅された後。後は、あなた方がご存じの通りです」
 ご理解いただけたでしょうか? と尋ねるヴェルムにテトとシェラートは静かに頷いた。
 
 ヴェルムは少なく、冷たくなった三つのカップへと新たな紅茶を注ぐ。
 紅茶を飲んで一息つくと、朗らかな顔でシェラートに話しかけた。
「そういえば、さっきは突然場所を移され驚いてしまいました。あなたはジン(魔人)だったのですね」
 シェラートも紅茶のカップに手を伸ばしつつ頷いた。
「宵姫様の解毒、あれもあなたの魔法なのですか?」
「いや、あれは魔法じゃない」
「毒の場合は魔法は使えないんだって。体の中から中和しなくちゃいけないから」
 同じく紅茶を飲みながら説明するテトに、「ほう」 とヴェルムは頷く。
「それでは、薬草から解毒薬を作られたのですか?」
「そうだ。……ちょうどいい、俺たちの代わりに薬草代払っててくれないか?」
 突飛な話にヴェルムは首を傾げた。
「薬草代、ですか?」
「物を出せることはできるんだが、それは無いところから作るわけではないんだ。ただ転移させるだけ」
 そう言うとシェラートは奥にある執務机に乗っかっていた書類を手の中に転移させた。
 驚くヴェルムに、この通り、と手を広げて見せる。
「だから、恐らくこの街のどこかの薬屋の薬草が無くなっているだろう。数枚と言ってもかなり値段の張るものだからな。明日になれば店主が盗まれたと血相を駆けて訴えに来るだろうからその時は代わりに払っといてくれ」
 分かりました、と快諾するヴェルムにテトはほっと胸をなでおろした。
 よかった、これで怒られなくて済む。
 
 話の終わった三人は揃って執務室を後にした。
 ヴェルムは宿へと戻ろうとしたテトとシェラートを、「もう遅いから良ければこちらにお泊り下さい」 と留めた。
 フィシュアはしょうがないが、明日は予定通り発つつもりだったシェラートはその申し出を有り難く受け入れた。
 もちろんフィシュアを置いて先に行くことについてテトは反対したが、フィシュアがそう望んでいたというと黙って承諾した。
 
 部屋に着き早々と床についたテトは寝るまで自分を見張っているシェラートに話しかけた。
「ねぇ、シェラート?」
「ん? なんだ?」
「僕たちってフィシュアのことほんのちょこっとしか知らなかったんだね」
「そうだな」
 テトの言う通り、宿屋でフィシュア自身が言っていた通り、自分達はフィシュアのことをほとんど知らなかったのだ。
 きっと今日知ったこともほんの一部分なのだろう。
 出会って数日、フィシュアが自分たちのことをほとんど知らないように、自分たちもまたフィシュアのことについて知らないことがあるのは当然のことなのだ。
 ただ、ここ最近ずっと近くにいたから親しい者の様に感じていただけだったのだ。
 
 テトは眠さで重くなった瞼を落としながら呟いた。
「フィシュア、ちゃんと追いかけてきてくれるかな……?」
 独り言のような呟きはやがて規則正しい寝息へと変わる。
「フィシュアは追いかけてくるだろう」
 フィシュアのことは未だに分からない。
 けれど理由のない確信を持ってシェラートはテトの問いに答えると、テトの頭をなでた。
 自分も寝るかと立ち上がったが、目が冴えていたのでやはりベッドには向かわず、夜風にでも当たろうと廊下へと出た。
 
 
 
 窓の外ではようやく月が出て、闇を淡く照らし出していた。
 もう灯りも消され、皆が寝静まった廊下には静寂だけが漂う。
 薄い月と星の明かりだけの暗い廊下、シェラートが部屋を出て少し進んだところに白いぼやっとしたものが浮かび上がって見えた。
 窓から漏れる弓の形をした月が出す光に、腰まで流れた髪は今、いつもの茶の混じったものとは違い、琥珀そのものの輝きを放っていた。
 白い寝着をまとい、膝を両手で抱え込みながら、その上に顔を埋めている人物。
 
「……フィシュア?」
 
「シェラート?」
 
 顔を上げ、こちらを向いたのはやはり予想道理の人物だった。
「何してるんだ?」
「ちょっと水飲みに行こうかなと思って」
 にへら、と笑うフィシュアにシェラートは盛大な溜息をついた。
「今度のは嘘じゃないよ? でも水貰いに行こうと思って歩いてたらちょっとしんどくなって、ここで休憩してただけ」
「お前なぁ……」
 シェラートは水の入ったコップを転移させると、フィシュアに手渡した。
 フィシュアはそれを受け取ると少しずつ口に含んだ。
「砂漠で倒れるから立ち上がるなと言ったのはどこのどいつだ」
「いいのよ、私は。こういうの慣れてるから」
 また訳の分からない理論を振りかざすフィシュアに呆れつつ、シェラートは傍に腰を下ろした。
「そんなもんに慣れるな」
「だって慣れないと生きていけない世界で私は生きてきたんだもの。仕方ないわ。でも、カルレシアにはやられたなぁ。あれって、一瞬で死んじゃう猛毒でしょう? いつも飲む時は、ほんのちょびっとのカルレシアにたくさんの解毒剤と一緒に含んでたから、あんまり耐性ができてなかったのね。失敗、失敗」
 相変わらず、にへらにへらと笑うフィシュアにシェラートは眉根を寄せる。
「お前なんか変だぞ?」
「また、変とか言うか」
「変というか、筋肉おかしくなってないか? 顔緩みっぱなしだぞ?」
 そんなことない、とフィシュアは今度は頬を膨らませた。
「フィシュア、お前熱出てきたのか? ……って、やっぱあるな」
 ひたひたとフィシュアの頬に手をつけたシェラートはその熱を確かめる。
 大した熱ではなかったが、恐らく毒からきたものだろう。
 薄暗くてよく分からなかったが頬も少し赤いようだ。
「戻るぞ」
 シェラートは座り込んでいるフィシュアを抱き上げた。
 途端、その肩の上で、「ギャー」 という叫びが響く。
「大丈夫。降ろして。ちゃんと歩けるから」
「さっき歩けなくてそこにへたり込んでたんだろうが」
 頭上から聞こえてくる慌てた声を無視してシェラートはずかずかと廊下を歩きだした。
「でも重いでしょう?」
「人並みの重さはある」
「そこは軽いって言うでしょう、普通」
「……どっちなんだよ。大体さっきも運んでる。本当に重かったらとっくの前に魔法で軽くしてる」
 何だそれは、と呟きフィシュアは口をつぐむ。
 月明かりだけの廊下に響くのは一対の足音だけ。
 歩く度にぎしぎしと木の床が軋む。
 
 部屋の前に着き、扉の取手に手をかけた時、フィシュアがポツリと零した。
「ねぇ、やっぱり外に出たい」
 シェラートは頭上にいるフィシュアを見ながら眉を寄せた。
「だって、風に当たりたい」
「駄々をこねるな。熱があるんだから早く寝ろ」
「駄々をこねていいのは風邪ひいてる時の特権でしょう?」
「お前のは風邪じゃないだろう」
「ちょっと外に出たら、ちゃんと寝るからぁ」
「お前ほんと今日変」
 筋肉が緩みっぱなしの顔も、駄々をこねる姿もいつものフィシュアからは想像もつかない。
 普段は見た目よりも大人っぽく見えた顔も今はだいぶ幼く見える。
 熱から来ているのだろうが、これがフィシュアの奥底なら、今までの彼女は気を張り詰めていたのかもしれない。
 シェラートは諦めのため息を落とす。
「転移していいか?」
「嫌だ。歩こうよ」
「歩くのは俺なんだぞ」
「だから自分で歩くって」
「…………」
「あ、今転移しようとしたでしょう? 無駄だよ、私ラピスラズリ持ってるから。私が嫌って思ったら反応するもの」
 フィシュアは寝着の下から首飾りを取り出すと、振って見せた。
 夜に見る石は暗く濃い。
「なんで寝る時までそんなもの持ってるんだ」
「だって、こないだは湯浴みしてる間に外してたら盗まれちゃったのよね。また同じ目に遭ったら困るし、どんな時でも外さないことにしたのよ。やっぱり、つけてて正解」
 勝った、と得意げに笑うフィシュアを無視してシェラートは再び取手に手をかける。
「わぁっ、待って! 分かった。転移していいから」
 シェラートは目の前に流れる琥珀に光る髪の束を一つ取ると引っ張った。
「い、痛い」
「初めからそう言っとけ」
 むすっとした声と共に頭上の景色が夜空へと変わる。
 
 昼間の熱気をまだ少し含む柔らかな風が髪をさらった。
「気持ちいいわね」
 何も答えないシェラートをフィシュア見下ろした。
 そこにあったのは不機嫌そうな顔。
「シェラートはいつも眉を寄せすぎ。皺になっちゃうわよ?」
 フィシュアはそう言うと指でシェラートの眉間をぐいぐいと揉み解した。
 けれど、手を放してもその顔は変わらない。
「……なんか、怒ってる?」
「あぁ」
「結局テト巻き込んじゃったから?」
「それもある」
「シェラートにも迷惑かけたし?」
「それだけじゃないだろう?」
「じゃあ、何?」
 首を傾げて考え出したフィシュアに、シェラートは再び溜息をつく。
「護衛官はどうした?」
「え? あぁ、そっか、聞いたんだ、宵闇の姫のこと」
「さっき自分でも少し話してたぞ?」
「うん、そういえば話しちゃってたね。ロシュはね、あ、ロシュって私の護衛の名前ね。私達アエルナ地方でも仕事があったから、ロシュは予定通りそっちを通って先に皇都に向かわせた」
「いないのなら、なぜ警備隊に言わなかった?」
「え? 何で?」
「一人で乗り込んだだろう」
 あぁ。フィシュアは納得した。
「もしかして、一人で無茶したから?」
 無言ってことは肯定なのだろう。
「だって、一人で充分だから。被害者が多いからわざわざ警備隊のところに行ってる間にまた誰か襲われたら困るでしょう? 強盗団縛り上げて連れて行った後に詰所視察すればいっかって思ってたから。カルレシアは予想外だったけど。その甘さは認める」
「テトがすごく心配してたぞ」
「うん、明日テトにちゃんと謝る。本当はテトにあんなこと見られたくなかったし、知られたくなかったんだけどぁ」
 フィシュアは頭上の星を振り仰いだ。
 その拍子にぐらりと揺れたフィシュアの体をシェラートが慌てて支える。
「―――危ないだろうが、ちゃんと持っとけ」
 ごめん、ごめん、と笑いながらフィシュアは手をシェラートの肩に置くと、首を傾げ翡翠の瞳を覗き込んだ。
「ねぇ、シェラートもちょっとは心配してくれた?」
「誰だって知ってる奴が倒れたら心配するだろう」
 フイッと視線をそらしたシェラートを見て、フィシュアはケタケタ笑う。
 居心地が悪そうにますます深くなったシェラートの眉間を、「ほらまた皺を寄せない」 とフィシュアがぐいぐい押した。
 フィシュアはシェラートの首に両腕を回すと、黒髪に顔を埋めるようにこうべを垂れた。
「ごめんなさい。それと、今日は助かった。ありがとう」
「分かったならもういい」
「うん、ありがとう」
 
 フィシュアの囁くような呟きが漏れてからシェラートはしばらく夜空を見上げていた。しかし、腕に抱えている人物があまりにも動かないので、琥珀の髪を引っ張ってみた。
「どうした? 疲れたか?」
「うん、そうみたい。風気持ちいけど、今ちょっと辛いかも」
 体勢を抱えないまま、呟かれた申告にシェラートは溜息をつく。
「だから寝ろと言っただろう」
「うん、ごめん」
 シェラートはフィシュアの部屋の前へと転移し、今度はためらいもせずに扉を開けて抱えていたフィシュアをベッドへと下ろした。
 フィシュアも文句を言わずにごそごそと布団の中へと入る。
 目を閉じようとした時、シェラートがベッドの脇へ椅子を持ってきているのが目に入った。
 シェラートはその椅子の上へ腰を下ろすと腕を組む。
「え? 何?」
「寝るまでここで見張る。抜け出されたら困るからな。またへたり込んでいるのを拾いに行くのはごめんだ」
「そんな、子供じゃあるまいし」
「俺から見たらフィシュアもテトとあまり変わらないくらいには子供だ。」
「あ、そっか。シェラートって200年以上生きてるのよね。見た目は若いのに中身はその辺のお爺さんよりもずっとお爺さんだもんね」
 うるさい、と言いながら見た目だけは20代前半のシェラートは、笑い出したフィシュアの額をぺちんと叩いた。
 その手をどかしながら、痛いじゃないか、と文句を言おうとフィシュアが見上げたその相手は翡翠の双眸に労りの光を宿していた。
「なぁ、どうしてわざわざ辛い道を歩んだ? 宵闇の姫なんて元々はなかったんだろう? 宵の歌姫だけでも充分大変な思いはしてたんだろう? なぜ、他の責まで背負った?」
 それは、と呟いた後フィシュアはためらうように一度口を閉じたが、微笑むと再び口を開いた。
「ねぇ、カルレシアの花って見たことある?」
 一体どういう趣旨でそんな話になるのかと、戸惑いつつもシェラートは頷いた。
「小さな黄色い花だろう?」
「そう。初めて見た時は驚いちゃった。だってすっごく可愛いし、どこか儚げなの。こんな可憐な花の下に猛毒を持つ根があるなんて信じられなかった。でもね、毒があるのにはちゃんと訳があるのよ。もし、地上に出ている花の部分を食べられても毒のある根が食べられることはない。根絶やしにされることはない。根さえ残ればまた芽を出すこともできるでしょう? 毒はカルレシアの小さな花が生き残る為に考えだした手段なのよ、きっと」
 
 
 
「私も同じ。生存率を上げる為。物心ついた時にはもう宵の歌姫になることは決まっていて、暗殺を避けるために毒に耐性をつけなくちゃいけなかった。
 けど、それだけじゃ足りなかったのよ。十歳くらいの頃だったかな、剣を持った人達に襲われてね、不意打ちだったのもあって反応が間に合わなくて、私の代わりに護衛官が切られた。その後も必死に逃がしてくれたんだけど、彼は瀕死の状態だった。その時思ったのよ。あぁ、このままじゃ駄目だって。このままだと二人とも死んでしまう。少なくとも私を庇おうとした人は死んでしまうって。
 だから強くなろうと思った。他の誰かを庇いながら一人で戦うよりも、二人で相対した方が確実に生き延びる可能性は上がるでしょう? どうせ、しなければならない仕事を一人でするよりも、二人でした方が絶対に早いでしょう? 例えそれがどんなに小さな力でも、やっぱりないよりかはあった方が助かるわ。
 だから私はこの道を選んだ。宵闇の姫として呼ばれるようになったのはそのついででしかないのよ」
 シェラートは何も言わなかった。ただ、静かに翡翠の双眸がフィシュアを見下ろしていた。
 フィシュアはそんなシェラートを見ながら苦笑し、また語り出した。
「シェラートも見てたでしょう? 急所しか狙えないのよ、私。それは、時間がなかったから。早く強くなりたかったから。確実に相手を倒す技術の方が必要だったから。だから手の抜き方が分からないって言った方が正しいの。だってそんなこと学んでる暇なんてなかったのよ。
 だから、真剣はあまり使いたくない。確実に相手を死に至らしめてしまうから。相手に死を与えるよりも、牢に入れて苦役をさせた方が罪の深さを知らしめることができるし、牢でさせられる労役は人々の生活のためにも役立つと思うから。
 でもそんな綺麗ごとばっかりじゃない。この手で人を殺したことだってもちろんある。それは、私にとってすべきことでもあったけど、でもそんなのは言い訳にはならないってことも分かってる。一つの命を奪うという点では私も牢に入ってる人殺したちと変わらない。ロシュは、私の護衛官はそんなことはないって言ってくれるけど、やっぱり同じなのよ。私の手は血に濡れてる。それは私が負わねばならない責、負うべき責。
 だけど、私はこの道を選んだことを後悔してない。だって、私が選んだんだもの。後悔したら選んだ自分を否定することになるもの。
 だけどね……さっきも言ったけどそれでも、やっぱりね、テトとシェラートには見られたくなかったな。知られたくなかったなぁ。ずるいけど、さ、あなた達の前ではただのフィシュアで、宵の歌姫としての綺麗な部分だけしか見せたくなかったのよ。多分。どこかでそう思ってたのよ、今思えば」
「―――だから一人で行ったのか?」
「うん。信用してないわけではなかったのよ。私が人を信頼するのが少し苦手なだけで」
「まぁ、俺の場合はテトに危害を与えないって面ではフィシュアを信頼してたがな、素性が分からなかったから信用はしてなかった」
「ふふっ、何それ?」
「お互い様ってことだ」
 シェラートは肩を竦めると、フィシュアの髪をなでた。
 テトの髪よりも少し硬い琥珀に近い茶の髪には、けれども、やはりテトとは違う柔らかさがあり、光沢があり、滑らかだった。
 フィシュアは初め驚いたように目を丸くしたが、別段文句も言わず、顔をほころばせた。
「なんか、ほんとに子供になったみたい」
 
 
「やっぱり、まだ熱があるな。何か冷やすもの持ってくるか?」
「いい。手、冷たくて気持ちいい」
「―――ちゃんと休んどくんだぞ?」
「うん、明日は早いものね」
 ほにゃん、と笑いながら当たり前のように零れた言葉にシェラートは髪をなでていた手を止めた。
「フィシュア、お前、明日一緒に出発する気だったのか?」
「当り前でしょう。何? まさか置いてく気だったの?」
「無理だろう」
「大丈夫よ。シェラートが作ってくれた解毒剤、一体何入れたのってくらいすっごく不味かったけど、おかげですごい効果抜群だもの。この分だと寝ればほとんど治るわ。って、でも本当にあれすごい味だったのよ? カルレシアの解毒剤っていったらヒュスとソウラの葉を混ぜ合わせて作ったものでしょう? 前飲んだ時も苦いとは思ったけど、あそこまで酷くはなかったわ」
「その二つの他にカゼリアの葉も入れた。たぶんそれが酷い味になった原因だろう。だが、カゼリアを入れた方が早く効く。早くなりすぎた呼吸を落ち着かせる効果もあるしな」
「へぇ、知らなかった。それって人の間では出回ってないわよね。ジン(魔人)ってそういうの詳しいの?」
「さぁ、色々じゃないか? ただ、俺が薬草とか医療系に強いだけだ」
「そうなの」
 皇都に行ったら広めなきゃ、とフィシュアは感心したように頷く。
 シェラートはその様子を見ながら、目の端にフィシュアの額の上に置かれたままになっていた自分の手を捉えた。
 同時に自分の手がなぜ止まってしまったのかという理由も思い出す。
「って、そうじゃないだろう。ちゃんと明日もここで休んどけ。ラルーで俺たちを怒ったのはどこのどいつだ? さっきから言ってることとやってることが違うぞ?」
「だからさっきも言ったでしょう? 私は慣れてるからいいの」
「だからそんなことに慣れるなと言ってるだろうが」
 本格的に怒り始めたシェラートを尻目に、フィシュアは口をすぼめて翡翠の瞳から顔をそらした。
「置いていきたきゃ、置いていけばいいわ。その代り私は這ってでも追いかけるから。いいのよ、別に。抱えられて飛んでく方が楽だけど、仕方ないから馬で山を登るわ。またへたり込んじゃうかもしれないけど、それをあなたのせいにしたりはしないから安心して?」
「お前は……」
 減らず口ばっかり叩くフィシュアに観念したようにシェラートは溜息をついた。
「知ってるでしょう、私の役目。できるだけ早くエルーカ村の病気の現状を視察しないと。それが未知の病気なら尚更よ。ラルーでシェラート達のことが心配だから付いていくって言ったけど、本当はそれだけが理由じゃなかったのよ。流行病のことがなかったら心配でもきっとシェラート達とは別れて予定通りアエルナ地方に向かってたもの。一体どんな病なのか、被害状況やどの地域まで広がっているのか、現状を調べて一刻も早く皇都へ知らせないと。だから、私は歩けるなら行く。それがたとえ完全な状態じゃなくてもね」
「―――分かった。ちゃんと一緒に連れていくから今度は……」
「無茶するな?」
 にやりと笑ってみせるフィシュアの額をシェラートは溜息と共にポンと叩いた。
「―――そうだ。一人で無茶するのは無しだ。少しくらいなら協力してやるから」
「ありがとう」
「だから、もう寝ろ」
 
 頷きつつも一向に瞳を閉じようとはせず、フィシュアは自分を見下ろしている翡翠の瞳を見ていた。
「シェラートの瞳って、サーシャ様のエメラルドとはまた違って綺麗だよね。少し暗い緑。東の国の人はみんなそんなに綺麗な緑の瞳をしてるの?」
「そうだな、黒髪緑眼が一般的だ。けど、あっちの大陸からしたらフィシュアみたいな青い瞳やテトみたいな黒い瞳がうらやましがられるぞ?」
「そうなの?」
「そういうもんだ。ないものねだりなんだろう」
「そういうもんかぁ」
 今度は天井を見上げ始め、寝ようとしないフィシュアにシェラートは秘かに嘆息を零す。
 そんなフィシュアを見ながら、シェラートはあることを思いつき、にやりと口の端を上げた。
 今まで乗せていた手をのかすと、フィシュアの額にそっと口を触れさせる。
 フィシュアは始めキョトンとして何か柔らかいものの触れた場所へ自分の手を伸ばしていたが、しばらくしてやっと何をされたのか理解すると、もともと赤かった頬をさらに赤くさせ動揺し始めた。
「え? ……えぇ!? 何、今の?」
 その予想外の慌てぶりにシェラートは噴き出してしまった。
「おやすみの、だっただろう? お前、テトのこと笑えないじゃないか、同じくらい顔真っ赤だぞ?」
 フィシュアは、「ふぇっ!?」 と変な声を出しながら慌てて自分の頬を抑えた。
 それを見てシェラートが再び笑い出す。
「お前、散々人にしといて自分はされ慣れてないのか?」
「いや、慣れてる、慣れてるけどさ、不意打ちはびっくりする。というか、した。シェラートとか絶対にしそうにないからよけい」
「だろう? 驚くだろ? こないだの仕返しだ。さっさと寝ないお前が悪い」
「何だそれは。仕返しというかお仕置きじゃないか」
「まぁ、そんなとこだ。いい加減早く寝ろ」
 
 睨もうとしたフィシュアの目は、シェラートの少し骨ばった手によって瞼を強制的に閉じさせられた。
 まだ、熱の残るフィシュアにはまどろんでいた目を一度閉じられると、その重さを押しのけて再び開くことはできなかった。
 再び頭をなで始めた優しい手の動きと共に徐々に眠りの中へと吸い込まれていく。
 もう少しで夢の中へ落ちそうになった時、ふわりふわりと動いていた手が額の上で止まった。
 
「フィシュア、宵の歌姫も闇宵の姫もフィシュアはフィシュアだぞ? 俺とテトは心配することはあってもそれを知ったからといってフィシュアを嫌いになることはないから安心しろ」
 
 上から落ちてきた低い声に、フィシュアは微笑んだ。
 
 ありがとうの代わりに。
 ありがとう、と伝えたくて。
 
 そして今度こそ夢の中へと滑り落ちていったのだった。
 

 

 
 
 
 (c)aruhi 2008