ラピスラズリのかけら 3:テトラン 1 穏やかな朝

 

 フィシュアは目を覚ました。
 白みだした空。太陽はまだ顔を出していない。
 いつもの時間、いつものように目が覚めた。
 体に染み付いてしまった習慣、それはいつしか習性となっていた。自分の意識とは関係なく、まるで空が明るくなり始めるのを図ったかのように目が覚めてしまうのだ。
 フィシュアはむくりと起き上がり、ベッドの横にある窓の外へと視線をずらす。
 白かった空が、だんだん朱色に染まり始めた。街の奥に見える山の端が、その流線状をかたどるかの様に黄金に輝いている。
 しばらくすれば太陽が顔を出すだろうその景色を、刻々と変わりゆく空の色を、フィシュアはぼんやりと眺めていた。
 目覚めればすぐに覚醒するはずの頭が今日はどこか靄がかかったように少し白く霞んでいる。
「やっぱり、万全の体勢ってわけにはいかないか」
 窓から目を離したフィシュアは苦笑しながらひとりごちた。
 完全ではないにしろ覚醒し始めた頭を回転させながら、今日の予定を確認する。
 まず始めにやるべきこと。
 テトの村に行く前にやるべきこと。
 それは昨日行うことの叶わなかった、ここバデュラの警備隊の詰所の視察。
 それだけ確認するとフィシュアはベッドから床へと降り立った。
 
「さて、じゃあ早いとこ済ませるか」
 
 そう言うと、フィシュアは思いっきり息を吸い込んだ。
 
 
 
「キャーーーーーーーーーーーーーーー!!
 
 
 
 高く、長い、悲鳴が、夜が明けたばかりの空に響き渡った。
 詰所の屋根にとまっていた鳥達が、バデュラの街にいる全ての鳥達が一斉に飛びたちそうな、その叫び声でテトは一気に目を覚ました。
 その声の主に気付き、テトは向かいのベッドにいるシェラートに目を向けた。
「―――シェラート!」
 同じく目を覚ましていたシェラートはテトの言わんとしていることに一つ頷くと素早く転移した。
 
 
「あれ、シェラートが来ちゃった」
 平然と立っていた悲鳴の主にシェラートは脱力した。
 誰かが押し入った跡も、部屋が荒らされた跡もない。昨夜と変わらぬ部屋の様子、昨夜よりは気色が良い琥珀に近い茶の髪の持ち主。
 月の光で琥珀に輝いていた腰まで落ちる長い髪。今は登り始めた太陽に照らされ黄金に輝いている。
 脆弱だった濃い藍の瞳には強い光が戻っていた。
 昨日の今日だ。何事かと慌てて来てみれば……
「お前、何やってんだよ……」
「ん? テスト」
「―――テスト?」
「そう。抜き打ちテスト」
 フィシュアはポスッとベッドの脇に腰かけた。
 ドアを見つめる藍の瞳に鋭い光が走る。と、同時に勢いよくドアが開け放たれた。
 
「―――宵姫様、ご無事ですか!?」
 早朝にもかかわらず、きっちりと警備隊隊長服に身を包んだヴェルムが剣を片手に飛び込んで来た。
 ヴェルムは間もなくフィシュアの目の前に立つシェラートを捉えると目を見開いた。
「―――シェラート殿!?」
 想像しなくても解るヴェルムの誤解にシェラートは溜息をつく。
 代わりにフィシュアは悠然と微笑んだ。
「悪くないな。服装も帯剣も完璧。到着もまぁ早い方だ」
「―――は?」
 いきなり紡がれた宵姫の言葉が理解できず、ヴェルムは呆気にとられた。
 そのヴェルムの後ろから次々と警備隊の面々がなだれ込んでくる。
「宵姫様!!」 「何事ですか!?」 「一体何が!!」
 初めの方にやって来た男たちはヴェルムと同様完璧だった。しかし、次第に寝癖のついたもの、寝着姿のままやって来るものが増えてきた。それでも、それは、ましな方だった。彼らはちゃんと警備隊に必要な剣を引っ掴んできていたからだ。
 けれども、中にはその剣すらも慌てすぎたのか忘れてきてしまった者まで出てきた。
 フィシュアは頭を抱えた。
「お前たち、丸腰で来ているが、そんなに体術に秀でているのか?」
 
 ついで、飛び込んできたのはテトだった。
「―――フィシュア!」
 切迫した様子で走りこんできたテトは部屋に集まっていた20人ほどの男たちに目を丸くした。
 けれども、部屋の奥、ベッドに腰かけた目的の人物を捉えると、その間を縫って駆け寄った。
「大丈夫? どうしたの?」
「何でもないのよ。テトまで起こしちゃったか、ごめんね」
 柔らかな表情で少年の栗色の頭をなでる宵姫に一堂に会していた男たちは皆、表情を和ませた。
 しかし、当のフィシュアは顔を上げると鋭い眼光を目の前の警備隊へと走らせた。
 
「扉を閉めなさい」
 
 
 
  
「―――さて、ここに集まった面々は一先ず合格とする。剣を忘れた者は次は気を付けるように。早いのは良いが丸腰じゃただの足手まといだ。どんな時でも冷静に。非常事態でも焦りは禁物だ。その焦りが判断を鈍らせる
 集まった面々は一様に神妙な面持ちでフィシュアの言葉に頷いた。
 その一種奇妙な光景にテトもシェラートも呆気にとられる。
 フィシュアはヴェルムへ視線を向けると問いかけた。
「詰所にいる警備隊で、ここに来てないのは何人だ?」
「……15人くらいかと。門番には何があっても持ち場を離れるなと言っておりますし、他の者はそれぞれの家に戻っておりますので」
「15人か。扉の外に何人か来ている者もいるようだが、反応が遅い! 部屋が離れていたにしろ一般人より遅れてどうする。それじゃ緊急事態に対応できないだろう? まだ部屋で眠りこけている者は問題外だ。今日から鍛錬を五倍に増やして鍛えなおすように」
「―――はい」
 身を固くしたヴェルムにフィシュアは微笑みを向けた。
「お前は完璧だったぞ? その後ろの三人もな。さすが、隊長に副隊長といったところか。その様子だと夜明け前から起きていたのだろう? いつ何時何が起こるか分からないからな。警備が手薄な朝にも対応できるよう早く起きておくのは得策だ。その上動きも迅速だった。その態度を部下たちにもきちんと指導するように」
「はい!」
 自分たちより大分年下の、小娘といってもいいようなフィシュアの褒めと忠言にヴェルムたちは嫌な顔をするどころか、照れたような、どこか誇らしげな表情を浮かべた。
 次にフィシュアは寝癖ついた者や寝着のままの男たちの方に向き合った。
「自分がどんな状態にあっても守るべきものは守るというその態度は大切だ。格好がなってないからといって、それは気にするほどのことでもない。格好を気にしていて間に合わなければ意味はないからな。お前達の判断は正しかった。これからもその心を忘れないように」
「はい!!」
 やはり、こちらの警備隊たちも嬉しそうに笑みを零した。
 最後に藍の瞳が向けられたのは剣をうっかり忘れてきたグループだった。彼らにフィシュアが放ったのはたった一言。
「体術をあげろ」
 あまりに短い忠言に、彼らは一瞬ぽかんと呆けていたが、素早く背筋を伸ばすと一斉に口をそろえて意気込んだ。
「―――はい、頑張ります!」
 各々握った拳を突き出し、前に乗り出す程の男たちの勢いにフィシュアは苦笑した。その後ろでは他の隊員たちも苦笑いを浮かべている。
「いや、一応、皮肉だったんだが……。まぁ、他の技術を上げておくことに損はない。その調子で励むように。以上、解散! 皆、食堂へ行ってしっかり朝食をとるように!」
 
 
 
 
「あの、出てってくれないと着替えられないんですけど……」
 皆が退出してしまった後も、何とは無しに部屋に残っていたテトとシェラートにフィシュアは声を掛けた。
 困惑顔のフィシュアの頬にシェラートはひたひたと触れる。
「―――熱は無いな」
「おかげさまで」
「フィシュア、本当に大丈夫?」
 いつの間にかベッドへとよじ登ったテトがフィシュアの顔を覗き込んだ。
「うん、大丈夫よ。ありがとうね、テト」
 いつものように柔らかな栗毛をフィシュアは撫でた。朝早くということもあり、寝癖のついた髪はところどころぴょんぴょんと跳ねている。
 けれども、いつもとは違って俯いてしまったテトにフィシュアは顔を傾げた。
「テト? どうしたの?」
「あの、フィシュア、ごめんね、守れなくて……」
 下を向いたままぽつりと呟かれたテトの言葉にフィシュアは目を丸くした。その言葉が昨日のことを指していることは明白だった。
 テトの頭を梳くようにもう一度なでると、フィシュアはそのまま小さな体を包み込んだ。
 腕の中にすっぽりと収まってしまった小さな体は温かくて、とても優しい。
「いいのよ、テト。守るのは私の仕事だもの。私こそ恐い思いさせてごめんね。心配かけてごめんね。でも嬉しかったわ、テトが来てくれて。すっごく驚いたけど、本当にすっごく嬉しかった。だから、ありがとう」
 腕を解くと、テトはかぶりを振った後フィシュアを見上げ、はにかんだ様な笑みを浮かべた。
「ううん、フィシュアこそ守ってくれてありがとう」
 
 部屋を出ようとしたシェラートはふと立ち止まり、いまだベッドに腰かけているフィシュアへ声をかけた。
「そうだ、フィシュア、着替えた後もここにいろよ?」
「―――なんで!?」
「まだ、少しぼうっとするからずっと座ってたんだろ?」
 図星を付かれ、フィシュアは視線をシェラートからその横にある木目の壁へとずらした。
「食堂まで運んでやるから、ここで待ってろ」
「え、いや、それは、かなり恥ずかしい! ……というか、もう十分自分で歩けるし!」
 警備隊の皆の前であんなに偉そうなこと言った手前、そんなことになったらかなり辛い! というか恥ずかしすぎる!
 あたふたと動揺し始めたフィシュアなど、お構いなしにシェラートは続ける。
「今日は山越えだからな。飛ぶって言っても平地と山とじゃ環境も変わるし、体力はできるだけ温存しとけ。無駄な体力は使うな。テトの村まで連れてって欲しいなら諦めろ」
 食堂に降りるのは無駄な体力じゃないだろう! という、フィシュアの無言の訴えは同じく無言によってあっさりと却下された。
 なんとか、抱えられて皆の元へ降りるのを避ける手段はないかと考えあぐねいていたフィシュアにテトが更なる追い打ちをかける。
「フィシュア、また倒れちゃったら困るし、そうしよう?」
「―――っう!!」
 ね、と心配そうに見上げられた黒の瞳に逆らえるはずもなく、フィシュアは渋々、半ばやけっぱちで首を縦に振った。
 
 
 こうして、食堂まで抱きかかえられ運ばれることとなったフィシュアは恥ずかしさの余り真っ赤になった顔を隠すくべく黒髪に埋めたまま階下へと降りてきた。
 その早朝、食堂に集まっていたバデュラの詰め所で働く人達は滅多に見られない宵闇の姫のそんな表情を微笑ましくも、どこか得した気分で眺めることとなったのである。
 
 
 
 
 
 
 

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