ラピスラズリのかけら 3:テトラン 3 出立の前に

 

「フィシュア、お腹大丈夫?
「うん、もう、すっきりよ」
 にっこりと微笑んだフィシュアの前に差し出されたのは一つのコップだった。
「……何これ?」
 入っているのは不気味なほどに濃い緑のドロドロとした液体。いかにも不味そうで怪しい。
「薬だ。腹にいい」
「や、でも治ったし……」
 さらに突き出された気味の悪い深緑の液体。それとは対照的に光る綺麗な緑の双眸。ただし、有無を許さぬその瞳にフィシュアは渋々コップを受け取った。
 見た目同様匂いも酷い。フィシュアは顔をしかめてコップから顔を離すと、もう一度この薬の調合主を見上げた。
 ―――これは、ばれてる?
 けれど、翡翠の瞳の中にその答えを見出すことはできなかった。
 だが、これを飲み下すことだけは避けたい。フィシュアは助けを求めるように隊長のヴェルム、副隊長たち、警備隊へと視線を走らせたが、その誰もが皆、苦笑いをしながら視線をそらした。
 ―――宵闇の姫をどんな時でも助けるように言いつかっているはずだろう!?
 薄情な警備隊たちに非難を込めた視線を送ってみたが、やはり苦笑いが繰り返されただけだった。
「シェラート、それ……」
 ―――テト!!
 真剣な顔でドロリとした液体を見つめるテトに期待を持ってフィシュアは顔をテトへと向けた。
「お腹にいいんだよね?」
「そうだ」
「じゃあ、フィシュアちゃんと飲まなきゃ!」
「…………」
 自分を見上げる黒い瞳。
 今朝と全く同じ展開。フィシュアには、またもや覚悟を決めるしか道は残されていなかった。
 
 緑の液体へと口を付ける。見た目通りのドロリとした感触。思った以上に苦く酷い味にフィシュアは一度体を大きく震わせると、そのまま痙攣し出しそうな体を押さえ、必死に飲み干した。
「み、水……!」
 近くにあった椅子に倒れ込むように座り、机に突っ伏したフィシュアの手に握られているコップへとすかさず水が現れる。フィシュアは急いで水を口の中へと流し込み、苦みを消そうと努力した。
 だが、さっきよりもましにはなったもののすぐに消える程、その苦さは文字通り甘くはなかった。
 
「……テト、口直しのお菓子をいくつか皆と選んできてくれない?」
 快諾したテトとその場にいた警備隊全員をヴェルムは菓子の置いてある台所へと促した。
 虚ろな目で、テトと警備隊の皆が出口の向こうへと消えたのを確認するとフィシュアは唯一その場に残
ったシェラートを机に突っ伏したまま見上げた。
「すみませんでした……」
「わかってるならいい」
「やっぱり、ばれてたんだ……」
「当たり前だ。嘘が苦手ならつくな、と言わなかったか?」
「……言われました。けど、皆にも頼んだし今回は大丈夫かと」
 うぅ、と呻き声を漏らすフィシュアを見ながらシェラートは溜息をついた。
「あいつらソワソワと動きすぎだ。不自然すぎて全然役に立ってない」
 シェラートに一刀両断され、フィシュアは益々頭を机へと突っ伏した。
 そんなフィシュアに再び溜息を落としつつシェラートは椅子を引き、フィシュアの向かいの席に座る。
「まぁ、フィシュアのは仕事が仕事だからな、部外者に聞かれちゃ不味いのもよくわかるが、行きたいな
ら一言いってから行け」
「いや、だって視察行きたいとか言ったら、また運ばれそうだったし。その前に許してくれるかわからな
かったし」
「どうしてそうなる? 別にフィシュアの仕事に口出しするような権利は俺にはないだろう。警備隊の奴
に任せれば問題ない。けど、一人で行っただろう?」
「何でそこまで分かったの!?」
 驚いて顔を上げたフィシュアに、シェラートは心底呆れたような顔を向けた。
「だから、フィシュアは嘘が苦手だって言うんだよ。ただの釜賭だ。というか、やっぱり一人で行ったの
か」
「釜賭って、シェラートも大概性格悪いよね……」
 うなだれたフィシュアの呟きに、シェラートは血相を変え、目の前の藍の瞳を覗き込んだ。
 フィシュアは急に張りつめた空気の意味が分からず眉をしかめた。
「何?」
「―――――もしかして、一人でエネロップに会いに行ったのか!?」
「…………」
 どうしたらさっきの会話の流れでその結論に達するのだ!! と思いながらもフィシュアはこの状況を
打開する為、必死で言い訳を探した。だが、シェラートはその間の沈黙を肯定と取ったらしい。こめかみ
に手を当てると深く嘆息した。
「お前なぁ、昨日の今日だぞ? あいつらに殺されかけたの忘れたのか? そんな奴らの所に共も付けず
に一人で行くか、普通?」
「いや、でも、別に特に問題なかったし……」
「それは結果論だろうが! どうしてフィシュアはそう周りのことには聡いくせに自分のことには無頓着
なんだ? 周りに害がなければ自分一人は傷ついてもいいとか思ってるなら、それは傲りだぞ? もう少
し考えた方がいい」
 シェラートのあんまりな物言いに、フィシュアはムッとすると反論した。
「別に傲ってないし、きちんと考えてるわよ!」
「だけど、どうせ俺たちを巻き込みたくないとか勝手に思ってたんだろう?」
 フィシュアはその問いに答えずシェラートからフイと顔を背けた。
「……まぁ、フィシュアがそう思ってくれること自体は有り難いし、特にテトのことがあるから分からな
いでもないが、もう少し周りに頼ることを覚えろ。昨日も思ったがフィシュアは何でも独りで抱え込みす
ぎなんだよ。俺たちは、まぁいいにしろ、ロシュだったか? その護衛官とか、フィシュアの近くでずっ
と支えてくれてた奴らにそれは酷すぎるぞ? もっと頼ってやれ」
「それは、ロシュに言われたことがある……」
「だろ?」
 今度は素直に頷いたフィシュアにシェラートは続けて言った。
「フィシュアは昨日の夜くらい我儘言っても許されるんじゃないか?」
「昨日は駄々こねるな、とか言ってたくせに」
「俺に言われたら困るが、フィシュアの周りの奴らは喜ぶだろ」
「何だそれ。意味が分からないんだけど」
 怪訝そうな顔をしたフィシュアを見てシェラートは苦笑した。
「分からないなら、試しに今度やってみるといい」
 
 
「そういえばさぁ、さっきのあれ絶対お腹の薬じゃないでしょう? ある意味お腹に効いたけど、どっちか
というと昨日の解毒剤に近かった気が……。あれよりさらに酷かったけど」
「何だ、よく分かったな」
「やっぱりそうだったんだ! 酷すぎる!!」
「勝手に抜け出すのが悪い。無駄な体力使うなって言ってただろう? 元々飲ませようと思って用意してた
んだけどな、しかもちょっとは飲みやすいようにしてやってたんだが……ちょっと腹が立ったんで濃度を倍
にして元より苦くしてみた」
「何てことを!!あの不味さは半端じゃないのよ?」
「自業自得だ」
「――――――!!」
 フィシュアは文句を言おうと口を開いたが、やはり、やめることにした。今回はどう考えても自分が悪い。
「はぁ~、悪かったわよ」
「それ、昨日も言ってただろう? で、次の日にこれだもんな。もう、いいさ。フィシュアのそれは当てに
ならないからな、テト同様注意して見張っとくことにする。」
「ごめんってば!! 勝手に抜け出すのはやめるからさ」
「その言葉を忘れるなよ? また同じことしたら、さらに苦いの作るからな?」
「―――――っう、それだけはご勘弁を!!」
 再び机に突っ伏したフィシュアは、黙って抜け出すのはもうやめようと、心に深く刻み込んだ。
 もれなくシェラート特製の緑の液体が付いてくるのだけは本当に耐えられない。あと一滴でもあれを呑ま
なければならない状況に陥ったことを考えただけでぞっとした。本当によく、二回も気絶せずに飲めたもの
だと我ながら感心する。
 だけど――――――
「やっぱり、シェラートの薬は良く効くわね。もう、倦怠感すら無くなっちゃった」
「それ、薬の効果だから完璧に治ってるわけじゃないぞ? 本来なら絶対安静だ」
 シェラートが再びコップに注いでくれた水を受け取りながら、フィシュアはクスクス笑った。
「なんか、まるっきり砂漠の時と逆になっちゃったわね。あの時はこんなことになるなんて思わなかったな」
「あぁ、ここまで無茶苦茶な奴とは思わなかった」
 本当に呆れたようにいうシェラートをフィシュアは一睨みして、テーブルの下からシェラートの足を蹴っ
た。
「―――――でも、まぁ、今回は本当に色々ありがとね。それから、昨日言ってくれたことも嬉しかった。昨日
は言えなかったから、ありがとう」
 軽く頭を下げたフィシュアは、次に顔を上げた時、真正面に座る人物を見て少し驚いた。
 ――――――初めて見たかも…………
 恐らく、初めて自分に向けられた顔。
 シェラートがちゃんとした笑みを浮かべていた。それは、どこか小さな子を見るようなものでもあったけ
ど、テトを見るような穏やかな目だった、ような気がした。
 
「馬と食糧等は後で、シェラートに転移してもらう。いきなり消えると思うが慌てるなよ? それから、今
から向かう村は病が流行っているらしい。ここも割と近いからな、情報を送る。ここから近隣周辺一帯に警
告を出してくれ。あぁ、後、何か入用になった場合もここへ知らせを送るから、用意できたら知らせてくれ。
こちらの方も、やっぱり、転移してもらうから運ぶ必要はない。ここでかかった費用は全て王都へ届けるよ
うに。予算のいくらかをこちらに回してもらう。以上、何か質問のある者」
 フィシュアは全体を見渡し、問題がないことを認めると頷いた。
 そこにはバデュラの詰め所にいる全ての警備隊が出揃っていた。
 申し送りをするだけだから見送りは数人でいいと言ったのだが、隊長、副隊長に続く、見送りの三人を巡
って、遂に代表選出武芸大会が始まってしまった。あまりにも時間のかかりそうなその選出方法に、フィシ
ュアは呆れながらも全員の見送りを認めたのだ。
 結果、詰所の前には鍛え抜かれた精鋭の男たちがずらりと並び、何とも異様な仰々しい様子を醸し出して
いた。満足そうにニコニコと笑みを浮かべる隊員たちとは対照的に、詰所の前を歩く街の人々は、一体何事
かと、いぶかしげな顔で、この奇妙な団体を凝視しながら通り過ぎてゆく。
 フィシュアよりも離れた場所でシェラートと一緒にその様子を見ていたテトまでもが、何とも言えない表
情を浮かべていた。
 それを見て、フィシュアはやはり判断を間違ったか、と思ったが、嬉しそうな笑みを自分に向ける隊員た
ちに向かって、やっぱり帰れ、とは言えなかった。
 それに、フィシュアにも言っておきたかったことがあったのだ。

「あの時は皆よくも裏切ってくれたな。おかげで、酷い目に会った」
 げんなりした顔で吐かれた恨み事が、何を指しているのを悟り、集まった男たちは苦笑した。
 やはり、こちらも苦笑しながらヴェルムが口を開いた。
「確かに、あれは少し……いえ、かなり酷かったと思いますが、止めに入っても、止められなかったでしょ
う。恐らく全員でかかっても彼には敵いませんから」
「それは、堂々と言い張ることじゃないだろう……」
「はい、そうですね。私たちも訓練を増やさなければならないと考えさせられました。しかし、今回の場合
はそれだけではありませんよ。もし、それだけなら、私たちはどうなろうが宵姫様をお守りします。ただ、
今回の場合は、シェラート殿は私たちに危害を加えることはあっても、宵姫様に危害を加えることはない、
と判断しました。初めてシェラート殿と対峙した時、貴女様の護衛官と間違えるくらいには彼は必死でした
からね」

「…………そう、か」
 フィシュアは黙り込んで、少しの間自分の足元を眺めてるように見えたが、次の瞬間には顔をあげ、何事もなかったように警備隊を見渡すと艶やかに微笑んだ。
「じゃあ、後は任せたぞ?」
 それだけ言ってしまうと、フィシュアは踵を返してテトとシェラートが待つ方へと向かったのだった。
 
 
 
 
 
 
 (c)aruhi 2008