テトはすでにシェラートに抱き上げられて待っていた。フィシュアはそんな二人の方へ歩きながら手を振る。
「フィシュア、もうお話終わったの?」
「うん、おまたせ」
今は自分よりも高い位置にあるテトの頭に手を伸ばし栗色の髪をなでる。
次いで、ふわりとした浮遊感を感じたと思ったら、シェラートの横顔が近くに来ていた。さっき、ヴェルムに言われたことを思い出し、なんとなく眺めてしまう。
「……何だ?」
じっ、と見られている視線を感じたのか、シェラートは横目でフィシュアを見た。
「別に。ただ、本当に心配かけてたんだなぁ、と思っただけ。悪かったわね」
フィシュアはシェラートの黒髪をぽんぽんと叩きながら少し笑っていると、テトが反対側から顔を覗かせた。
「僕もすっごく心配したんだから!」
「うん、テトにも本当にごめんね。大好きよ」
フィシュアはテトをぎゅっと抱きしめると、頬へキスをした。
遠くで、「あーーーーー!!」 という歓声が上がり、警備隊の男たちがこちらを指差していた。
みるみる赤くなるテトを見ながら、シェラートは頭を抱えたかったが、テトとフィシュアを抱え上げている今、それはできず、代わりにフィシュアを呆れた目で見るにとどまった。
「フィシュア、お前なぁ~」
「あら、シェラートもして欲しい?」
フィシュアから頬に手を添えられたシェラートは溜息をついた。
フィシュアはにっこにっこと笑っている。絶対楽しんでるな、と思いながら二度目の溜息をつく。いらん、と断わろうと口を開いたが、こちらへと駆けてくる警備隊たちに驚きその言葉が発せられることはなかった。
「何だ?」
近づいてくる男たちに怪訝な顔をしたシェラートの横で、フィシュアがクスリと笑った。
「だから、私の祝福は貴重なのよ。断るなんて相当恐れ多いことしたわね」
その言葉が示す通り、よく聞くと、男たちはテトに向かって、「ずるい」 とか、「羨ましい」 とか、口々に叫んでいた。もちろん、本当に怒ってる者などはいず、冗談交じりで笑ってはいたが。
テトとフィシュアを抱えたシェラートがふわりと空中へ浮いた。
フィシュアは下に集まっている警備隊たちへもう一度目を向けると微笑んで言った。
「皆、見送りありがとう。これからも、今まで通りこの街を精いっぱい守るように。バデュラの勇敢な騎士たちに栄えある栄光を」
その言葉に集まっていた全ての者が敬礼をフィシュアへと向けた。
三人の体がゆっくりと上昇する。それと同時に人々や街の建物がどんどん小さくなり、遂には爪の先ほどまでの大きさになって、バデュラの街全体が視界に収まってしまった。
「それ、どうにかならないのか?」
バデュラの街を離れ始めた頃シェラートがフィシュアに尋ねた。
「それって何が?」
「口調だ」
あぁ、とフィシュアは呟くと続けた。
「これって、もう癖なのよね。わざと使い分けてるわけじゃなくて、無意識だし。闇宵の姫の存在を知らなかった人に知られることなんて今までなかったからさ、私もちょっと恥ずかしいんだけど……。そんなに気になる?」
「いや、少し気になるくらいだ」
「テトは?」
「僕? 別に大丈夫だよ? 面白いし」
「そう? じゃあ、二人とも、このことは見逃して?」
分かった、というテトの元気な声が聞こえ、フィシュアは微笑んだ。
眼下の景色が緑へと変わりだす。
バデュラの街はもう石ころほどの大きさで遠くに見えるだけである。
見渡す限りの緑。その間にぽつぽつと小さな村が見えたが、他には何もなく、ただ山が続いた。
シェラートは時々現れる村や山を登る人々を避けながらテトの村を目指した。
テトも山へ入ってから緊張しているように見えた。口数は減り、顔が少しこわばっていた。
そんな一行の横をヒュンッと黒い影が横切った。
「――――――!?」
再び向かって来た黒い影をシェラートがとっさに避ける。
避けた勢いでぐらりと傾いだ体に、テトとフィシュアが、「わっ」 と小さな悲鳴を上げながら、シェラートの服にしがみついた。
一体何なのか、と見極めようとしたシェラートの元へ再び黒い影が襲いかかって来た。
「―――ホーク! やめろ!! 敵じゃない、仲間だ!」
フィシュアが黒い影に向かって叫ぶと、それは、シェラートにぶつかる瞬間急に向きを上に変え、高く舞い上がった。そのまま空を旋回すると、高度を落とし、フィシュアの近くまで舞い降りてきた。
「知り合いか?」
横を飛ぶ、鋭いくちばしと鉤爪を持った焦げ茶の鳥。美しい毛並みを持つその鳥に目を向けているシェラートにフィシュアが頷いた。
「そう、この子も仕事仲間なの。ごめん、なんか私が攫われてると思って勘違いしたみたい」
フィシュアは苦笑しつつ、「お前は早とちりしすぎだ」 とホークを鋭い藍の目で睨んだ。
ホークは知らん顔で再び優雅に舞い上がった。
わざとか…………
フィシュアは溜息を漏らし、そういえばロシュと初めて対面させた時も同じ反応だったな、とホークが飛んで行った方を睨んだ。
「あの鳥、バデュラの街に着く前も僕たちの近く飛んでたよね?」
テトの言葉にフィシュアは目を丸くした。
「よく気付いたわね。あの時は遠くで舞ってただけだったのに。」
テトは、「うん」 と頷く。
「あの時は、ただ飛んでるだけと思ってたんだけどね、きっとフィシュアのことを守ってたんだね。」
その言葉にフィシュアは微笑んだ。
それと同時に、ホークが再び舞い降りてきて、今度はテトの横にピタリとついて飛び始めた。
「ホークに認められたみたいね、テト。すごいわ。この子、なかなか人を認めようとはしないのよ?」
「それは、ただのやきもちじゃないか?」
その呟きに再びシェラートへと襲いかかって来たホークをフィシュアは呆れながらも、必死で呼び止めることとなった。
「ホーク、手紙を」
そう言って、フィシュアが手を伸ばすと、ホークはフィシュアの近くで羽ばたきながら空中で止まった。ホークの黄色い足には二通、手紙がくくりつけられている。フィシュアは素早くそれを取り外すと、手紙を広げた。
一つは義姉からの手紙であり、一つはロシュからの手紙である。
「ちゃんとロシュの所にも行ったんだな。ありがとう。ご苦労だった」
フィシュアが労うとホークが嬉しそうに一声あげた。
フィシュアは中身を確認する。
先ずは義姉の方から。それからロシュの方へと目を通す。その二つを見終わって、フィシュアはひとまず安堵した。王都では少し厄介事があったが、大したことではないらしい。ロシュも無事らしい。どうやら件(くだん)のジン(魔人)達には遭遇しなかったようだ。ロシュが向かったところには既に誰もおらず調査しかできなかった、と申し訳なさそうに書かれていた。けれど、それは結果として最善であった。
「シェラート、これ燃やしてくれない? そうゆうのってできない?」
フィシュアが差し出した手紙を見て、シェラートが問い掛けた。
「いいのか?」
フィシュアが頷くと、手紙の先端にポッと火が灯った。
赤々と燃えだした火は、白い紙を次々と黒い灰へと変えてゆく。
燃え尽きる直前、フィシュアが手を離すと、火は残っていた紙を食べつくすかのように纏わりついて、消えた。
テトの、「あっ」 という声と、エルーカ村が見え始めたのは同時だった。
けれども、そのまま村に入るわけにはいかず、三人はエルーカ村の少し手前、開けた更地(さらち)に降りたった。
今にも走り出そうとむずむずしているテトを抑え、馬と食糧など必要なものを全て転移させると、それらを全て馬へと積み込み、自らも乗ってエルーカ村へと馬を走らせた。
ちょうど、エルーカ村の入り口へとさしかかろうとした時、一人の人影が見えた。
「エリアールおばあちゃん!」
その姿を確認すると、テトは嬉しそうな声を上げて、その人物へ向かって手を振った。
「おい、テト、待て!」
テトはシェラートが止めるのも聞かず、馬から飛び降りると、入口に立っている、皺を刻んだ女性の方へと一直線で走って行く。シェラートとフィシュアは馬を歩かせ、その後を追いかけた。
「テトちゃん……?」
ここにいるはずのないテトが現れ、老婆、エリアールは見るからに驚いていた。しかし、皺を寄せ、嬉しそうな顔を作ったのもつかの間、ついで、その顔は険しいものへと変わった。
「テトちゃん、どうして戻ってきてしまったの? せっかくあなたのお母さんが逃がしてくれたのに。早く、ここから離れなさい。もうこの村はだめ。ここにいればテトちゃんまで病気になってしまうわ。さぁ、早く!」
そう言うと、エリアールはテトの肩を押し、元来た方向へと返そうとした。
「待って、エリアールおばあちゃん。大丈夫なの。僕、お母さんを、みんなを助けに来たの!」
「テトちゃん……」
嬉しそうに笑うテトとは対照的に、エリアールは苦しそうに顔を歪め、ゴホゴホと腰を曲げながら激しく咳きこみ始めた。
「エリアールおばあちゃん!!」
テトが慌てて近寄ると、エリアールはさらに激しく咳きこみだした。苦しいのだろう。目に涙をためながらも必死に空気を吸おうと口を開いている。
「大丈夫ですか?」
追いついて来たフィシュアが慌ててエリアールの背をさすった。
効果があったのか、少しエリアールの呼吸が落ち着き、ヒューヒューとした呼吸へと変わる。
しかし、それも長くは続かず、エリアールは再び咳きこみ始めた。
「シェラート! エリアールおばあちゃんを!!」
テトの願いに応じるようにシェラートは手を掲げると、その中に葉と根を一種類ずつ転移させた。カルレシアの解毒剤を作った時と同様、その手の中で風が巻き起こり、葉と根は粉々に刻まれていく。最後に一つの丸薬を作ると、フィシュアに差し出した。
フィシュアはそれを受け取り、エリアールへと飲ませる。
途端、エリアールの呼吸はさっきまで喘いでいたのが嘘のように落ち着いていった。
「もう、治ったの?」
エリアールの様子を確認していたテトが恐る恐る、シェラートに尋ねた。
不安そうな顔を浮かべるテトの栗毛をガシガシと撫でながら、シェラートは笑った。
「あぁ。まだ完全ではないが、もう治る。薬を呑んだからな」
シェラートの答えとその呆気なさに、テトは呆然としつつも、嬉しそうに、「ありがとう」 と笑った。
こちらも、やはり、あまりにも早い処置と効果に驚いていたフィシュアが尋ねた。
「これって未知の病気なんでしょう? シェラートは見ただけで対処法が解るの?」
その問いにシェラートはまた、「あぁ」 と頷くと説明した。
「前も少し言ったが、俺は医療系に突出しているからな。俺に魔法を教えた奴が、そうだったから、自然とそうなった。だからか知らないが、病の場合は何によって構成されているのかが手にとるように分かる。それへの対処法もな。ただ、傷でない場合、医療系の魔法は使えない。フィシュアの時もそうだったが、体の中に原因がある場合、つまり毒や病の時は薬を作ることしかできないから、相手の体力に頼ることも大きい。けど、まぁ、今回は運が良かったな。その人はまだ初期段階だし、この病気は未知のものじゃない」
「―――どういうこと?」
この病気は医者によって未知のものであると診断されたはずだ。
首を傾げるフィシュアにシェラートは続けた。
「症状が変わっていたからな、医者は気付かなかったんだろう。これは未知の病というより、厳密にいうとミフィア病が進化したものだな」
「ミフィア病って、咳が出る病気よね? それって普通の病気よ? 私も罹ったことがある。けど、熱も出なかったし、だるいだけで一週間もすれば引いちゃったけど。本当にそうなの?」
フィシュアの横では、僕も、「なったことあるよ」 とテトが驚いた顔で言った。
ミフィア病はこの国では珍しくも何ともない。特に幼少期に、そのおよそ半数が罹る病気だ。その予防法も薬も知られているし、きちんとした対処を取れば脅威ではなく確実に治る病気である。
その病気がなぜ――――?
「あぁ、元になってるのは、そのミフィア病だ。ただ、ミフィア病が発展したものだと思っていい。人間がミフィア病への対処を確立し、今では、もうほとんど危険な病と認知されないくらい次々と対策を打ち出してきたのと同じように、ミフィア病も同じく今までの薬に負けないよう病原菌自体が変化したんだろう。だから従来そのままの症状にもならなかったし、恐らく従来の薬ではあまり効果がない。それが、この村周辺だけで起こっているとなると、その原因はこの辺りにあると考えていい」
「その原因って?」
「そこまでは分からない。ただ、いつもと違う何かがこの村で起こっていたはずだ」
そう、とフィシュアは呟いて、未だ目を閉じているエリアールへと目を向けた。
呼吸は落ち着いているが、額に浮き出た汗が先ほどの病の影響の苦しさを如実に表していた。
エリアールよりも酷い症状の人々がまだ、村の中にいるはずである。もしかしたら、村の外にも。一刻も早い処置と原因究明が必要だった。
「シェラート、薬の材料には何を使ったの?」
「ズイの葉とイーラの根だ。どちらも同等に混ぜる」
「ズイとイーラ……」
その植物の名にフィシュアは、ほっと安堵した。どちらも、どこにでも、それこそ山にも街の道端にも生えているような草である。手に入れるのに困ることはない。後は薬の作り方を詳しく教えてもらえさえすれば、対処法を広げるには充分に可能だった。
「シェラート、その薬の作り方を……」
「エリアールおばあちゃん!」
薬の調合法を聞こうとしたフィシュアの言葉はシェラートの歓声によって、遮られた。
見ると、エリアールがうっすらと目を開けている。
「テトちゃん……?」
「エリアールおばあちゃん、もう大丈夫だよ。シェラートが病気治してくれたから」
嬉々として語るテトを見ながら、しかし、エリアールはちっとも喜んだ素振りは見せず、むしろ苦痛に顔を歪ませ、顔にさらに多くの皺を刻んだ。
フィシュアとシェラートはその様子に違和感を覚え、怪訝そうな顔をして顔を見合わせた。だが、嬉しそうにはしゃぎ、興奮しているテトはそんなことには全く気付かず、話を続けた。
「早く、家に帰ってお母さんに会わなくちゃ。そして、エリアールおばあちゃんと同じようにお母さんの病気も治してもらうんだ」
「テトちゃん……」
「お母さんの病気が治ったら、うんっと甘えるんだ。だって、今まですっごく頑張ったんだもん。きっと褒めてくれるよね」
「テト、ちゃん……」
「そうだ、エリアールおばあちゃん、今度また木の実がたっぷり入ったふわふわのケーキ作ってよ。僕もお母さんもあのケーキ、大好きなんだ。また、みんなで食べようよ」
テトの笑顔を見ていたエリアールは、「うっ」 と前かがみになり、肩を震わせ始めた。顔にかぶせられた両手の隙間からは尚も、うっ、うっ、と押し殺したような声が聞こえる。
「エリアールおばあちゃん……?」
ようやくいつもと様子の違うエリアールに気付いたテトがエリアールの脇に屈んで、彼女を覗き込んだ。
指の隙間から、心配そうに自分を見つめる黒い瞳にエリアールはとうとう堪え切れず、すすり泣き始めた。
顔を覆い隠す両手の間から、それを証明するかのように、涙が一筋流れる。
「テトちゃん……、ロージィは、あなたのお母さん、は……十日前に、亡くなってしまった、わ……」
(c)aruhi 2008