ラピスラズリのかけら 3:テトラン 5 テトの試練【1】

 

「嘘だ」
 
 長く重い沈黙を破ったのは、テトの口から漏れたかすれた呟きだった。
 それは、口に乗せたというよりは、零れ落ちてしまったというのが適するほど、小さく、力がなかった。
 しかし、テトの拒絶はエリアールの震えを伴った声によって否定された。
「ロージィ、は、それまでの熱が嘘のように、最期は静かに……息を、引き取ったわ……」
 最悪の事態に、フィシュアはエリアールの背に手を乗せたまま首を振った。
 容易に予想出来ていた可能性の一つであったが、それでも、幼すぎるテトにはあまりにも辛い結末だった。
 
「テト……」
 伸ばされたシェラートの手をテトは弾き飛ばし、叫んだ。
「嘘だ、そんなの嘘だ! 嘘だ!!」
 テトは首を振り必死に否定を繰り返す。
 誰へ向けられたものではなく、ただ、目の前の現実を拒む最後の手段であるかのように、テトは叫び、首を振り続けた。
 だが、いくら拒絶の言葉を口にしても、そこに彼の望む答えなど返ってくるはずもなかった。
「嘘だ、嘘だ、嘘だ!!」
「―――テト!」
 何かに憑かれたように一つの方向へと走り出したテトの背中に向かってシェラートは呼び掛けた。
 しかし、それは虚しくその場に響いただけで、テトを止められるほどの力は持ってなどいなかった。
 テトが駆けて行った方向を見ながら茫然と立ちすくむシェラートをフィシュアが叱咤する。
「シェラート! 何してるの!? ここはいいから早く追いかけなさい!!」
 その声に我に返ったシェラートは、「くそっ」 と強く握られた拳を一度、足に打ち下ろすと転移した。
 
「私のことはいいから、貴女も行ってちょうだい。テトちゃんを……テトちゃんを、早く追いかけてあげて……」
 顔を上げたエリアールは涙を目に浮かべたまま、フィシュアに訴えた。
 だが、フィシュアはかぶりを振ると、「立てますか?」 と言って、エリアールを支えながら立ちあ上がった。
「そうゆう訳にはいきません。私は、まず貴女を送り届けないと。それから二人を追いかけます。大丈夫です。テトにはシェラートが付いてる。それに、貴女はテトの家をご存じなのでしょう? きっと、テトは自分の家に行ったんだと思います。私が今から追いかけても村の中で迷ってしまうだけです。テトの家を探し回っていたら余計時間がかかってしまう。だから、これが最短で最良の方法なんです」
 フィシュアがそう断言すると、エリアールは、「そうね」 と力なく頷いた。
「馬には乗れますか?」
「ええ、少しは……」
「それなら、私が後ろから支えますので、乗って下さい。まずは貴女の家へ向かいましょう」
 フィシュアは一頭の馬に荷物を全て移してしまうと、別の一頭へと飛び乗った。
 それから、エリアールの体を引っ張り上げ、自分の前へと乗せ、エルーカ村へと入った。
 話に聞いていたテトの村は予想していたよりも、病の影響を強く受けていた。
 外に出ている者は、ほとんどいない。出ている者もどこか虚ろな顔をしていた。
 立ち並んだ小さな木造の家の中さえも、人がいるのかは分からなかった。
 それくらい、辺りは静まりかえり、まるで夜、皆が寝静まってしまった後のような雰囲気を醸し出していた。
 空気が淀んでいる、という印象は受けないが、この村に流れる空気は明るいとは言えなかった。
 フィシュアはエリアールの家へ向かう道すがら、活気がなく、閑散とした村へ目を向けつつ、溢れだしそうな溜息を嚥下した。
 きっと、自分はシェラートのようにテトの母の死を悲しむことはできない。
 ましてや、テトと同じようになど到底無理な話だった。
 悲しい、という気持ちはある。
 テトがどれほど辛いのかも、想像がつく。
 けれど、そこにあるのは悲しみではなく、残念だ、という、諦めの気持ちで、それが圧倒的に勝ってしまっていることにフィシュアは気付いていた。
 フィシュアにとってテトの母、ロージィはテトとエリアールから伝え聞いただけの存在。
 実際には会ったことのない存在である。
 その為、亡くなった、と聞かされても、実感が沸かないのだ。
 なぜなら、テトの母はフィシュアの中で実体のある人間として実在する前に、消えて無くなってしまったのだから。
 自分の身近な人間以外の死を、会ったこともない一人の死を悼むことができないほどには、そういった人の死をフィシュアは数え切れないほど、何度も何度も目の当たりにしてきたのだ。
 けれど、こんな自分に嫌気がさすのも事実で、フィシュアは飲み込み損ねた溜息を一つ馬上で吐きだした。
―――あぁ、もう、私って最悪だな。
 
 
「お母さん?」
 エルーカ村の外れにある小さな家に着いたテトは、懐かしい木の扉を開け、中へ向かって呼びかけた。
 広がっているのは、この家を出たひと月前と変わらない部屋。
 二人で暮らしてきた場所。
 あるべき場所にある家具。
 閉じられた窓にかけられた、黄緑色のカーテン。
 使い慣れた食器。
 床についた傷。
 自然と肌に馴染む香り。
 空気。
 ただ一つ違うのは、そこにあるはずの笑顔。
 そこにあるはずの存在。
 そう、たった一つ。
 しかし、それこそが重要なものだった。
 それがないだけで目の前に広がる部屋は空虚で、とても異質なものに思えた。
 
「お母さん?」
 テトはもう一度呼びかける。
 無条件に笑顔を向けてくれる存在へ。
 優しく包み込んでくれる存在へ。
 時にはひどく叱ってくれる存在へ。
 自分のことのように悩んでくれる存在へ。
 一緒に笑ってくれる存在へ。
 強く、温かな存在へ。
 その存在が、失われてしまったなんて、消えてしまったなんて、もう二度と目にすることができないなんて、テトには想像が出来なかった。
 呼べば、きっと笑顔で迎えてくれるはずだ、とテトは無条件に信じていた。
 それほど、テトにとって母の死は実感の伴わないもので、受け入れることなどできないものだった。
 
「お母さん?」
 テトは何度も部屋へ向かって呼びかける。
 けれど、テトの問いかけに答える者はない。
 テトの小さく、短い問いかけは、ただ静かな部屋に、一度、響く。
 そして、こだますることなく、消えた。
 空虚な部屋に吸い込まれるように。
 わずかな余韻も残さず、消えた。
 
 
「テト……」
 テトの後ろ、家の入口で立ち止まっていたシェラートは、無限に続くと思われるその問いかけに耐え切れず声を掛けた。
 自分の名前に反応したテトはゆっくりと振り返り、シェラートを見上げた。
 感情をなくした黒い瞳は虚ろに彼のジン(魔人)を見上げる。
 そこで、何かに気付いたように、目を止め、嗤(わら)った。
「そうだよ、シェラートに頼めばいいんだ。ねぇ、シェラート、お母さんを生き返らせてよ」
「テト……」
「ねぇ、シェラート。できるでしょ? シェラートならできるでしょ?」
 シェラートは自分に掴みかかって服を揺さぶる契約者を、苦痛を持って見下した。
「だめだ。できない。死んだ人間を生き返らせることは、ジン(魔人)の力を持ってしても不可能なんだ。死んだ人間は二度と生き返らない。それが、この世界の決まりだ」
「―――どうして? ―――どうして? どうして? できるんでしょ? 本当はできるんでしょ?」
「―――テト!!」
 シェラートはテトの肩を掴むと、焦点の定まらない黒い双眸と目の高さを合わせた。
「助けてよ! 助けてくれるって言ったじゃないか!!」
 テトの揺れる瞳からは、涙は溢れてはいなかった。
 ただ、代わりにひどく歪められたその顔こそがテトが抱える悲痛さを訴えていた。
 涙よりも深い悲しみがそこにはあった。
 シェラートは何か言おうと口を開いたが、結局掛ける言葉が思いつかず、口をつぐんだ。
 
 自分のジン(魔人)に当たるようにその体を力任せに揺さぶり続けていたテトだったが、だんだん力が弱まって来たかと思うと、どこか吹っ切れたように、その手がぴたりと止まった。
 その後すぐに、シェラートの服を掴んでいた手から力が抜け、ポトリ、と落ちた。
「……テト?」
 いぶかしげに覗き込んだシェラートはテトの瞳に光の宿ってない闇を見た。
 テトが口を開く。
「もう、誰も助けない。お母さんが助からないなら、もう、どうでもいいや。僕、疲れちゃった」
 それは、その言葉通り、放棄と疲労の滲むものだった。
 
 
「テト!?」
 フィシュアが入って来たのは、その時だった。
 普段のテトからは有り得ないその様子と呟きに、信じられないものを見るかのように目を見開くと、憤然とテトに近寄り、その小さな体を揺さぶった。
「テト!? あなた、今、自分が何を言ったか分かってるの? この村の人を助けることができる力を持っているのはあなただけなのよ?」
 フィシュアの問いかけに、テトは何も答えなかった。
 表情のない乾いた目だけが、ただ義務的にフィシュアを見つめ返す。
 けれど、そこには何も映ってなどいなかった。
 フィシュアは尚もテトを揺さぶり続ける。
 さっきまで、テトがシェラートにしていたように。
 何とか、テトの心へ響くように、と必死で語りかけた。
「テト! ……テトラン!! あなたのお母様がどんな願いを込めてこの名前を付けたのか、よく分かってるはずでしょう? お母様はこんなこと願ってない! 皆の道を照らすテト(強い)ラン(光)を望んでるはずよ?」
 テトに食ってかかるフィシュアを、シェラートは自分の腕で遮った。
「フィシュア、もう、その辺にしといてくれ……!」
「―――だけど!!」
 フィシュアはやりきれない思いに唇を噛みしめ、テトを見た。
 フィシュアの再度の訴えにも、それを止めたシェラートにも、テトは睫毛一つ揺らすことは無かった。
 あまりにも無反応なその様は、息をしている人形のようで、見ているだけで痛々しい。
 フィシュアは目の前のテトをぎゅっと抱きしめた。
 伝わってくる体温は、いつもと変わらぬ温かなもので、フィシュアは少し安堵する。
 けれど、様変わりしてしまったテトの変わらぬ柔らかな栗色の髪をなでながら、フィシュアはテトに囁いた。
「いいわ。テトは何もしなくていい。まだ、何もしなくていい。だけど、私はあなたを甘やかすことはできないから、絶対にこの役目を果たさせるわ。無理矢理にでもね。それまでは、私がテトの代わりをしておくから、早くいつもの元気なテトに戻って? いつもと同じお陽様のようなテトの笑顔を見せて?」
 ね? と言って、フィシュアはテトの額に口付けた。
 いつも顔を真っ赤にさせていたはずの少年が表情を全く変えぬことを寂しく思いながら、もう一度抱きしめると、フィシュアはその小さな体を離した。
 
「俺は契約者であるテトの許しがない限り、フィシュアに手を貸すことはできないぞ?」
 眉間に皺を刻んで言ったシェラートに、フィシュアは力のない笑みを浮かべた。
「うん、分かってる。本当は詳しい調合の仕方とか聞きたかったけど、それも無理ね。近くで見といてよかったわ。大体の量も分かるし、材料も分かる。それを一対一で混ぜるってことも知ってるしね。それ以外にも私にはやれることがあるわ。どっちにしろ、私は先に病の状況を把握しなくちゃならなかったし。だから、シェラートはテトの傍にいてあげて? 動き回れる私より、きっと、そっちの方が辛いと思うけど。」
 そう言うと、フィシュアは少し背伸びをしてシェラートの頬にも口付けを落とした。
「頑張ってね。私じゃテトは支えられない」
 フィシュアは自嘲しながら、翡翠の双眸を覗き込み、踵を返した。
 
 出口へと向かうフィシュアが泣きそうに見えて、シェラートは思わず、その腕を掴んだ。
 振り返ったフィシュアは泣いてなどいなかったが、その顔は、やはり、苦しげに歪んでいた。
 きっと自分も同じような顔をしているんだろうな、と思いながら、シェラートはフィシュアへと声を掛ける。
「あまり、無茶するなよ?」
 その言葉にフィシュアはほんの少し笑って言った。
 
「しないわよ。約束したでしょう? それに、もう、苦くて不味いあの薬を飲むのだけは嫌だもの」
 
 
 
 
 

(c)aruhi 2008