ラピスラズリのかけら 3:テトラン 6 テトの試練【2】

 

「ホーク、いるか?」
 静かな羽音と共に、ホークが地面へと舞い降りた。
 一部始終を空から見下ろしていたのだろうホークが首を傾げたのを見て、フィシュアはふっ、と苦笑を洩らした。
「私は大丈夫だ。ありがとう」
 フィシュアは先ほど書きつけたばかりの一枚の紙きれを取り出すと、ホークの黄色い足へとそれを結びつけた。
 そこには、エルーカ村で流行している病はミフィア病が発展したものである、という今分かっている情報と対処薬に必要なズイの葉とイーラの根をできるだけ多く大至急に届けてほしいという旨が書かれている。
「帰って来たばかりで悪いのだが、これをバデュラの詰め所に届けてくれ。場所は分かるよな? 東にある大きな木造の建物だ。ホークがいてくれて本当に助かった。私がバデュラまで戻っていては時間がかかりずぎてしまうからな。あそこから、ここまで物資を運んでもらうには丸一日かかってしまうだろうが、シェラートの力に頼れない今、その手段を取らざるを得ない。頼めるか?」
 フィシュアの問いに答えるように、ホークは一声鳴くと、素早く舞い上がり、一度頭上を旋回してからバデュラの方角へと飛び去った。
 ホークを見送った後、フィシュアも素早く馬に飛び乗ると、隣の村への道を急いだ。
 エリアールの話によると、エルーカ村での感染者は九割を超えていた。そして、その半数以上がすでに亡くなっていて、現在の感染者のうち七割は熱が出てきており、最終段階へと移っているというものだった。
 もし、エルーカ村と同じ状況が他の村でも起こっているとしたら、大変なことである。
 幸いなことに地図やエルーカ村へ向かう途中で空から見てきた限り、エルーカ村の周りの村々は馬で数時間というほど距離が離れていた。一番近い村でも一時間はかかる場所にある。
 希望が確信になるのを祈りつつ、今はただ馬を走らせるしかなかった。
 
 
 シェラートは眠りについたテトを見ながら、自分の無力さを歯がゆく思った。
 フィシュアは、「自分にはテトを支えられない」 と自嘲していたが、果たして自分にテトを支えることができているのか、疑問に思った。
 テトの傍にいてあげて、というフィシュアの言葉通り、今日一日シェラートは、ただ、テトの傍にいることしかできなかったからだ。
 テトはあれから、泣き喚くことも、怒ることもせず、感情を排したかのようにぼんやりとしていた。
 どこを眺めているわけでもなく、ただ空っぽな闇の瞳は空中のある一点から目をそらそうとしなかった。
 別にそこに何かがあるわけではない。
 けれど、見つめることが義務かのように、ただ一点を凝視していた。
 テトが初めて、そこから目をそらしたのは、テトの様子を見にきたエリアールが、持ってきた昼食を並べ、食べるように促した時だった。
 テトが食卓に腰を下ろし、並べられた料理に手を付け始めたのだ。
 しかし、それは機械的に手を動かし、料理を口に運んでいるにすぎなかった。
 そこにテトの意志がある訳ではなく、食べるように言われたから、食べているという感じだった。
 シェラートは、そんな状態のテトに声を掛けることなどできず、ただ、目の前で手を動かす自分の契約者を見ていた。
 テトはそんな風に昼食を食べ終え、夜になれば夕ご飯を食べ、湯に入り、眠りについた。
 眠ってしまったテトを見ながら、シェラートはやっと息をつく。
 せめて眠りの中だけでは穏やかな夢を見て欲しいと思いながらも、眠っている姿さえ苦しそうに見えて、シェラートはテトの寝顔に溜息を落とした。
 
 ガチャリという扉が開く音が聞こえ、シェラートが顔を上げると、そこにはいつの間に戻ってきたのかフィシュアがこちらの様子を伺っていた。
「テト、どう?」
「相変わらずだ。そっちは?」
「割と良かった。離れてるせいか、他の村には今のところ影響がないみたい。まだ、これから症状が出だすのかもしれないけれど。ただし、エルーカ村の状況は最悪」
「……そうか」
「シェラート……、酷い顔してる」
「お前もな」
 お互いの顔を見合わせ、二人はふっ、と苦笑した。
 フィシュアはテトが寝ているベッドの端に腰かけたシェラートに近づくと、その頬にそっと触れた。
「やっぱり、自分を責めてるんでしょう? こういう結果になっても誰のせいでもない、って前に私が言ったの忘れちゃった?」
「いや、覚えてる。だけど、もう少し早くテトに声を掛けてれば、って、やっぱり後悔してしまう。テトがあの街に来て、あの場所で泣いてたのをずっと……、きっと初めから知ってたんだ。それでも、声を掛けたのはだいぶ後になってからだった。あまりにも毎日泣くから一体何なのだろうと思ったんだ。……遅すぎたけど」
「でも、それは、仕方のないことでしょう?」
「ああ、分かってる。考えても詮無いことだ。何も変わらない。だけど、考えてしまう。後悔してしまう」
 自嘲を宿した翡翠の双眸に、フィシュアは悲しげに笑いかけた。
「そうね、それがシェラートなのかもね……。辛かったら泣いてもいいわよ? 何だったら胸も貸してあげる」
「それは断る。」
 いつものように怪訝な顔をして即答したシェラートにフィシュアは、「失礼ね」 と言って笑った。
「じゃあ、悪いけど、私がシェラートに抱きついてもいい?」 
 そう言うが早いか、フィシュアはシェラートの答えも待たずに両手を伸ばし、シェラートの肩へと顔を埋めた。
 シェラートは寄りかかって来た重みに驚きつつも、受け止めながら、フィシュアに問いかける。
「どうした?」
 膝の上で、「う~ん」 と唸るフィシュアの頭をシェラートはポンポンと撫でてやった。
 それに促されるかのように、フィシュアが口を開く。
「さっき、墓地を見てきたんだけど、新しい土の山がいっぱいできてたわ。たくさん人が亡くなったってこと身に染みて感じた。人の死って、いっぱい見て来たけど、諦めてる部分もあったんだけど、目の当たりにするとやっぱり少し辛いわね。それに、テトが……、テトがこんなになっちゃうなんて思ってなくて、それも……辛い。思ってた以上に堪えちゃったかも……
「―――大丈夫か?」
「うん……、まだ、大丈夫。シェラートは?」
「あぁ、まだ、大丈夫だ」
 そう言うと、シェラートはもう一度慰めるようにフィシュアの頭を撫で、結局フィシュアが眠りに着くまでそうしていたのだった。
 
 
 
 翌日、普段と同じく夜明けと共に起き出したフィシュアは、ズイの葉とイーラの根の採集に出掛けた。
 物資が届くまで時間がある。小さなことでも、やれることはやろうと思ったのだ。
 ズイもイーラも日向を好む。ギザギザとした葉を持つズイと、丸くツルツルとした光沢のある葉を持つイーラは他の草と見分けがつきやすく、フィシュアはすぐにザル一杯に山盛りの収穫を得ることができた。
 しかし、安心したのもつかの間、そこに新たな問題が浮上した。
 薬が上手く作れなかったのである。
 エリアールの家の台所を貸してもらい、フィシュアは昨日シェラートがしたように同量のズイの葉とイーラの根を包丁で細かく刻んで混ぜ合わせた。しかし、丸薬を作ろうとしても、ポロポロと崩れるばかりで一向にまとまる気配を見せない。
 それならばいっそ水に溶かしてみてはどうか、と思い、水を加えたが、葉と根が分離してしまった。それでも、少しだけでも近いのではないかと、何とか混ぜ合わせた薬汁をエリアールに少し試飲してもらった。だが、やはり味が違うという。
 結局、これ以上意味もなく薬草を減らすのは忍びないので、フィシュアは薬を作ることを断念した。
 
 
「大丈夫よ。もうすぐ薬が来るからね。そしたらすぐに治っちゃうからね。だから、もう少し頑張って」
 フィシュアは高い熱で喘いでいる、テトよりも少し年上であろう女の子が流す汗を拭いてあげながら、励ました。
 エルーカ村に来てから、早くも五日が経とうとしていた。
 自分の力では薬が作れないと悟ってから、フィシュアは病で苦しむ患者の家を一軒一軒回り始めた。
 フィシュアには患者の汗を拭いてあげること、運んできた水で患者の熱を少しでも下げてあげることしかできなかったが、それでも、何か少しでも手を打ちたい、という願いからの行動だった。
 当然ながら、村の老女を伴って突然現れた女に人々は皆いぶかしげな目を向けた。けれども、毎日決まった時間、村の全ての患者の家を回り、献身的に看病をして励ますフィシュアに次第に心を許す者が増えてきた。
 病に倒れていない者の中には、エリアール同様、フィシュアを手伝う者も出てきた。
 三日目にはホークに導かれ、物資を積んでやって来たバデュラの警備隊と医者も加わり、各自持ち場を決め、仕事が分担されるようになった為、患者の急な変化にも対応できるようになってきた。
 テトを知るバデュラの警備隊たちは、抜け殻のようになった少年を見て、さすがに戸惑いを隠せなかった。皆何とか笑わせようと必死に試みては見たが、どれも効果がなかった。
 医者は医者たちで、何とか薬を作ろうと悪戦苦闘していたが、「やはり何かが違う」 とエリアールに首を振られ続けた。
 
 
 そして、この日、遂に事件は起こったのである。
「お爺さん、今日は少し調子がいいみたいですね」
 担当している次の家を訪れたフィシュアが老人の額に固く水を絞った冷たい布を乗せてやると、彼は、まなじりを少し下げた。
 声を出すことはできない、これが彼の精一杯の意思表示だった。
「この調子ならきっとすぐに良くなりま――――」
 老人へと声を掛けていた言葉が突然途切れ、フィシュアは激しく咳き込みだした。
 ゴホゴホと咳き込み続けながら、苦しそうに体を曲げ、膝をついたフィシュアの傍にエリアールが慌てて駆け寄る。
「―――フィシュアさん!? 大丈夫ですか?」
 大丈夫、と口を開こうとしたフィシュアは、しかし、再び咳に気道を支配され、その言葉を口を出すことができなかった。
 寝台の上で狼狽している老人にこれ以上不安を与えない為にもエリアールは咳を繰り返すフィシュアを支えながら、外へと出る。
 だが、フィシュアを支える手から伝わって来た熱の異常さに、エリアールは驚きに目を見開いてフィシュアを見た。
「―――どうして!? 熱が出るのは、咳が出てしばらくたった後なのに!」
 苦しげにしゃがみ込んだフィシュアの背を擦りながら、エリアールは一つの確信へと辿り着いた。
「フィシュアさん、貴女、ずっと隠していましたね? ずっと咳を呑みこんで、気付かれないようにしていたのでしょう?」
 自分で体を支えることもできず、激しく咳き込み続けていたフィシュアはその問いに答えることができなかった。
 しかし、その病状こそが、エリアールの問いを肯定していた。
 なぜなら、この病気の初期症状は風邪のようなもの。発症一日目の咳がこれほどまでに激しいはずがなかったのだ。
「誰か! 誰か早く来てください!!!」
 エリアールの助けを求める声に一番早く気が付いたのは、バデュラの警備隊副隊長であるイベウルだった。
 イベウルは倒れるようにして咳き込むフィシュアに、一瞬のうちに状況を把握して、その体を抱き上げると、テトの家へと向かった。
 感情を失くしてしまった少年を刺激しない為にも、本当はエリアールの家へ運ぶのが最善ではあったが、そこにはバデュラから運んできた物資を置かせてもらっている為、物で溢れ返っている。かといって、新たにフィシュアを運び入れる為の家を探すほどの余裕などない。
 足早にフィシュアを運んでいたイベウルは迷うことなくテトの家の前に立つと、扉を叩き、部屋の中へとその足を踏み入れた。
 
 
「フィシュア!?」
 イウベルに抱えられて入って来たフィシュアに、シェラートは驚きを隠すことができず、その名を呼んだ。
 すぐに行かなければならない、というイウベルからフィシュアを受け取ったシェラートはその熱の高さに驚愕する。
「宵姫様は、かなり無理をされていたようです。ここに運ぶのはどうかとも思いましたが、他に休ませる場所もなかったので……。後は、よろしくお願します」
 悔しそうに顔を歪めたイウベルはそれだけ言うと、咳き込むフィシュアに心配げな目を向けながらも礼をして外へと出て行った。
 イウベルと入れ替わりで、後ろを追いかけて来ていたらしいエリアールが入って来て、涙を浮かべながら説明した。
「どうやら、フィシュアさんは、ずっと隠しておられたようで。倒れられた時には、もうそのように、咳をしていて……、熱がひどくて……」
 そのまま泣き崩れたエリアールにフィシュアはなんとか咳を抑え切れ切れに言葉を漏らした。
「エリ、アールさん……大丈夫だから、泣かないで? ……私は、いい、から……早く、他の人、の所、へ……」
 エリアールは涙を零したまま何度か頷くと、再び外へと向かった。
 完全に扉が閉まったのを確認したかのように、ゴホゴホというフィシュアの激しい咳き込みが始まった。
 カルレシアの毒にやられ、完全ではなかったフィシュアの体は病に対する抵抗力が極端に下がっていたのだろう。
 見抜けなかった自分に怒りを覚えつつも、それを隠していたフィシュアにも憤りを覚え、シェラートは苦しそうに息をしているフィシュアを睨みつけた。
「―――お、前は……、やっぱり、自分で言ったこと守れてないじゃないか」
「ごめ……」
 憤然としながらも、咳を繰り返すフィシュアを寝台へと運ぶため、足早に歩いていたシェラートはぴたり、と足を止めた。
 寝室へと繋がる扉が少し開き、そこからテトが顔を覗かせていたのだ。
 
「フィシュ、ア……?」
 何も映していなかった闇色の瞳は、今、確かにシェラートの腕に抱えられたフィシュアを捉えていた。
 何度も咳き込むフィシュアに、テトの体がびくり、と震える。
「悪い、テト。フィシュアにベッドを貸してやってくれないか?」
 この家にベッドは一つしかない。
 そして、それがある寝室にテトは初日以来ずっと閉じこもっていたのだ。
テトはゆっくり扉の前を退くと、ベッドへと下ろされるフィシュアを眺めた。
「フィシュア……?」
 その問いかけに呼応するかのように再び咳きによって揺れ始めたフィシュアの体を、テトは恐怖を持って見つめた。
 恐る恐るベッドへと近づいたテトは、寝かされたフィシュアに手を伸ばし、その体が熱いことを知る。
「嫌だ! 嫌だ、嫌だ……!!」
 テトは敷布を握りしめ、叫んだ。
「嫌だ! フィシュアまで、いなくならないで! ―――助けて! シェラート、フィシュアを助けて!!」
 
 
 テトのその叫びに、シェラートは安堵しながら、頷いた。
 薬を調合しようと手を伸ばす。
 しかし、その手を掴まれ、シェラートは驚きながら自分の腕を掴んでいる手の主を見た。
「ダ……メ……!」
 切れ切れに吐かれたフィシュアの言葉は、力がないが、はっきりとした意志を含んだものだった。
「ダメ……!!」
 再び繰り返された言葉にテトは戸惑いを隠せず、顔を歪めて咳をするフィシュアを見下ろす。
「何で? 何でダメなの? だってこのままじゃ、フィシュアが……!!」
 どうすればいいのかわからない、と訴える黒い瞳を見据えたのは、フィシュアの意志のこもった深い藍の瞳だった。
 フィシュアは一つ息を吸い込むと、咳が出ないうちに、と一気に言った。
「ダメ。テト、もし、私を助けたいなら、その時は村のみんなも同じように助けなさい。それができないなら、私を助けてはいけない。そうじゃないと許さない」
 その訴えに、テトの黒い瞳は大きく揺れた。
 それを見ながらも、フィシュアは耐え切れなくなって、再び激しく咳きこんだ。
 
 だんだん酷くなっていくその咳に、テトは切なる願いを請うように彼のジン(魔人)への言葉を口にした。
 
「シェラート、お願い。フィシュアを助けて。村のみんなも……みんなを、助けて!」
 
 
 
 

(c)aruhi 2008