ラピスラズリのかけら 4:シェラート 3 水端の巫女【1】

 

 右へ行けば皇都、左へ行けば河沿いの村という道の岐路。
 前を進むフィシュアの背を見ながら、シェラートは馬の歩を止めた。
 突然、後ろに聞こえていた規則正しい馬の蹄の音が消えたのを不思議に思ったフィシュアは振り向いてその原因の主を見た。
「どうしたの、シェラート?」
 シェラートの前に座り、揺れ続ける馬の上で体を支えてもらっていたテトも不思議そうに彼を見上げている。
「どうしたじゃない。フィシュアこそどうした? 皇都への道はあっちだろう」
 そう言って、フィシュアが立っていない方の右の道を顎でしゃくった。
 河沿いの村へと続く左の道の上に立っていたフィシュアは、ようやくシェラートが立ち止まった理由を悟り、「ああ」と頷いた。
「そういえば話してなかったわね。確かに右に進めばあと二日で皇都へ着くけど、その前にガンジアル地方で極端に水が減った原因を見ておかないといけないから。だから、こっちの道であってるわ」
「その先に原因があると分かってるのか?」
 シェラートの少し驚いたような問いに、フィシュアは、「ええ」と答えた。
「このペルソワーム河に沿って道なりに半日ほど行った村の周辺に原因があるらしいわ。なぜかそこだけ水が減って、雨も降らないらしいの。だから水商人達がこぞってそこへ出かけているそうよ。ペルソワーム河はこの先を少し蛇行して皇都へも繋がってるし、日数もそんなに変わらないから何とかなるわ」
 自分たちの知らない情報にテトとシェラートは顔を見合わせた。
 昨日も今日もフィシュアとは別行動はとらず、一緒にいた筈なのだ。
「一体いつの間にそんなこと調べたの?」
 不思議そうに聞くテトにフィシュアは可笑しそうに笑いかけた。
「あなた達がリシュトワの街でへばってる時よ」
 フィシュアの言葉でリシュトワの香油市場の強烈な匂いを思い出してしまったテトとシェラートは二人揃って、「うっ」と顔を歪めた。
 何とも嫌そうなその表情を見て、フィシュアはさらにクスクスと笑いながら話を続けた。
「香油を精製する時には水が使われるのよ。植物から水蒸気を使って取り出したものを再び水で冷やして液体にするの。だから香油を扱う店は、特にその店自身で作っているところは水の情報に敏感なのよ。だって、水がなければ商売道具の香油が作れないのだから」
「フィシュアは、ただ喜んではしゃいでるだけかと思ってた」
 感心したようなテトの呟きに、シェラートが同意する。
 その仕草を見たフィシュアは少し眉を寄せて言った。
「街へ下りて情報収集するって言ったでしょう? そりゃあ、ちょっとは……はしゃいでたかもしれないけど、自分の役目はしっかり果たすわよ」
 いや、あれはちょっとじゃなかった、という二人の視線を感じとったフィシュアは再び馬の顔を前に戻し、その空気を振り払うかのように二人へ向かって明るい声を出した。
「はい、じゃあ、行くわよ!」
 
 
 河沿いに馬を走らせていた三人はある地点で再び足を止めた。
「これは……」
 河原を見下ろす土手の上。
 信じられぬ光景にフィシュアが素早く馬を降り、河辺へと降りていった。その後ろをテト、シェラートが続く。
「何これ? どういうこと? どうなってるの?」
 理解できない、けれど明らかなる異変にフィシュアはシェラートに説明を求めた。
 シェラートは困惑を隠しきれないフィシュアの横を通り過ぎ、河岸に座って河の様子を確かめ始めた。
 同じように河を見ていたテトもポカンと口を開き、ただ一言呟いた。
 
「……河が無くなってる」
 
 テトの声に再び河へと目を戻したフィシュアは重々しく頷いた。
 テトの言葉が示す通り、ペルソワーム河は途中で切れて無くなっているのだ。
 堰(せき)が築かれているわけでもない。それなのに、幅の広い河の水量は段があるかの様にガクンと急激に減っていた。
 ある一方は、豊かでたっぷりとした水を湛えて。けれど、その水が悠々と流れていくはずのもう一方では、水がほとんど干上がり、普段は見ることができない深い河底が見えるほどの水しか流れていなかった。
 大体、途中で消えた水はどこへ行ってしまったのか。
 人知の力では有り得ないこの現象にフィシュアとテトはひたすら唖然とした。
 
「これは魔法だな。ジン(魔人)為的なものだ」
 確認を終えて立ち上がったシェラートの言葉に、フィシュアは、「やっぱり」と呟いた。
 どう考えたって目の前に広がる光景は魔法で作られたとしか考えられないものだった。
「だけど、どうしてジン(魔人)だと分かるの? 魔法ならジーニー(魔神)の可能性だってあるんじゃない?」
 フィシュアの率直な疑問に、シェラートは、「いや」と首を振った。
「ジーニー(魔神)はこんなあからさまに痕跡を残すような馬鹿なことはしない。力が有り余ってるからな、もっと上手くやるだろう。それさえ出来てないってことは頭と力が劣ってる馬鹿なジン(魔人)の仕業ってことだ」
 刺々しい言葉を吐いたシェラートに、フィシュアは呆れながら、あなただってジン(魔人)じゃない、と言おうして、その言葉を呑みこんだ。
 シェラートが怒っていることに気付いたのだ。
 
 自身の両拳を握りしめ、見たことも無い程の形相で目の前にある消えた河を睨みつけているシェラートの肩をフィシュアが軽く叩き、溜息と同時に小さく呟いた。
「―――テトが見てる」
 フィシュアの言葉にハッと我に返ったシェラートの翡翠の双眸が近くで心配そうに見上げているテトを捉えた。
「シェラートが憤る気持ちも分からなくはないけどね、私だって怒りを感じるし。だけどどうにもならないでしょう? 河に向かって怒ったって。過去は変えられないし、あなたのせいでもない。テトに心配を掛けるなって怒ったのはどこのどなた?」
 フィシュアは哀しげに微笑し、シェラートの拳を広げた。
 開かれた掌にはうっすらと血が滲んでいる。
「それに、こんなに強く握りしめたら傷になっちゃうでしょう? 私とテトには傷を治してあげる力なんてないんだからね」
「……悪い」
 そう言うと、自分の手に目を向けて、一つ溜息をついたシェラートは両掌を重ねて己の傷を消した。
 跡形もなく消えた傷の上に再び溜息を落としたシェラートの背を、今度は容赦なくフィシュアが叩いた。
 バシッという景気の良い音と共に、睨んでくる翡翠の瞳に向かってフィシュアは腰に手を当て、ニヤリと笑った。
「悪いと思ってるなら、テトに謝ってきなさい!」
 そんなフィシュアに苦笑を返しつつ、言われた通りシェラートはテトの元へと向かい、栗色の頭をぽんぽんと撫でた。
「悪かったな、心配かけて。何ともないから、もう行こう」
 本当にもう大丈夫なの? と問いかけるテトに、「ああ」 と頷き返し、シェラートはテトの体を持ち上げた。
 シェラートがテトを抱えたまま、フィシュアの元へと戻り、次いで馬の方へと向かう。
「さあ、じゃあ次に行くか」
「次って、ここから先どこに行くのよ?」
 シェラートと共に馬の方へと歩みを進めつつ怪訝そうに尋ねるフィシュアに、シェラートは、「簡単だ」と答えた。
「ジン(魔人)が関係しているなら、その魔力をたどれば分かる。さっき言っただろう、痕跡が残っていると。さっきの川には魔力の残り香がありありと残っていたからな。それを辿るのは簡単だ。」
「魔力って匂いがするの……?」
 不審そうな表情をするフィシュアを見て、シェラートはようやくちゃんとした笑みをつくった。
「言葉のあやだ」
 
 
「だけど、どうして誰も気付かなかったんだろうね」
 再び馬の背に乗り歩を進めていると、テトが突然呟いた。
「だっておかしいと思わない? あんなに急にぷっつりと河が途切れてるんだよ? 絶対に誰か気付いたはずじゃないか」
「あら、テト。よく気付いたわね」
 テトの言い分はもっともだ。
 その点に気が付いたテトを馬上で褒めつつも、答えを知っているフィシュアは、「けどね」 と続けた。
「テト、辺りをよく見回して御覧なさい。私達の他に誰も見当たらないでしょう?」
 フィシュアの問いに、テトが頷く。
 ここから見えるのは横を流れるペルソワーム河と、柔らかく瑞々しい青葉、ぽつぽつと見かける灰色の岩、そして晴れ渡る雲一つ無い青い空ばかりである。
「もう少し、あと一時間もすれば、また道と合流するけどね、ペルソワーム河のどこで異変が起こっているのか知りたかったから私達はわざと道を外れて河沿いを歩いていたのよ。だからほら、ここも道が整備されてないでしょう? 人々は皆、道があるならそちらを通るわ。そっちの方が安全だし、次の街へ最短距離でつながっているからね。だから、あの場所にわざわざ立ち寄る人なんていなかったのよ。結果、水が減ってしまった原因に誰も気が付かなかった。水が減っているっていう地域は雨も降っていないらしいから、河の水量が減ってしまったのはそれが原因だと単純にそう思ってしまったのでしょうね。」
 そっかぁ、と呟き、テトは馬上から下に見える大河を見下ろす。
 水がほとんど無いその河は、ちょろちょろという心許ない微かな音を立てながら、テト達の進行方向へと流れ続ける。
 テトは水が流れるその様を、そして、少ないながらも確かに流れて行くその先をぼんやりと眺め続けた。
 
 
 
 風がそよぐ。
 水晶のいくつも連なる飾りを首に掛け、白い衣に身を包んだ少女は風が吹いてきた方へと目を向けた。
 風に巻き上げられた金茶の髪を手で押さえ、顔をほころばせる。
「―――メイリィ様! どこへ行かれるのです!!」
 青々と茂る柔らかな草を蹴って駆けだした少女は後ろから掛けられた男の声に振り返り、口をゆっくり大きく動かした。
『お・きゃ・く・さ・ま!・は・な・を・つ・み・に・い・か・な・い・と!!』
 村へと繋がる外の道を指し、花畑へと再び軽やかに駆けだした少女の言葉に男は眉をひそめた。
「よりによって、こんな時期に客とは……。部外者に邪魔をされなければいいが」
 男の懸念は誰に聞こえるでもなく、風に吹かれ、溶けて消えた。

 

 

(c)aruhi 2008