ラピスラズリのかけら 4:シェラート 7 水端の巫女【5】

 

「じゃあ、行ってくるね!」
 そう告げるが早いかテトは扉を開けると元気良く外へと飛び出して行った。
 窓の向こうではメイリィがテトに向かって嬉しそうに手を振っている。
「すっかり仲良しになっちゃったわね……」
 雲一つ無い空の下、丘の方へと駆けて行ったテトとメイリィをフィシュアは一つの呟きと共に見送った。
 
 昨日、そろそろ陽が暮れ始めるな、という頃に帰ってきたテトは、部屋に着くなり真っ直ぐに机へと向かった。
 何を始めるのか、と思ったフィシュアとシェラートが小さな背の後ろから机の上を覗きこんでいると、テトは村長から借りてきたらしい紙とインクペンで文字の書き取りを始めたのだ。
「……テト? そこ、間違ってるわよ?」
「あ、ほんとだ! ありがとう、フィシュア」
 テトは指摘された間違いをインクで黒く塗りつぶすと、その横に正しい文字を書いた。
 落ち始めた陽は一気に翳り始め、それと同時に徐々に薄暗くなってきた部屋の中。それでも全く意に介した様子を見せないテトは黙々と文字の基本表記の書き取りを続ける。
 目が悪くなる、とシェラートが明かりを灯したランプの一つをテトの手元へと持ってきたが、テトはそれさえも気付かなかったようだ。
「なんだか、すごい勢いね……」
「ああ……」
 テトが元々勉強熱心で飲み込みが早いということは、よく知っていたつもりだった。
 しかし、フィシュアから言い出さない限り、つまりフィシュアによる授業の時以外、テトが自主的に書き取りの練習をすることなど今まで一度も無かったのだ。
 そんな暇が無かったからだ、と言われればそれまでだが、無心でひたすら手を動かし続けているテトの様子はフィシュアとシェラートに少なからず衝撃を与えた。
 二人が唖然として見守る中、白かった紙は一枚、また一枚と黒く塗りつぶされていった。
 だが、ほっとけばいつまでも止まりそうの無いテトの様子に、フィシュアは、とりあえず夕食を取ろう、と提案してその作業をようやく中断させたのだった。
 
「急にどうしたの、テト?」
 出された根菜の煮物をつつきながらフィシュアが尋ねると、テトは口に含んでいたものをごくりと飲み込んで言った。
「んっとねぇ、メイリィが話をする時、地面に文字で書いてくれるんだけどね、僕、全部は分かってあげられなかったから。せっかくフィシュアから習ってたのに、ちゃんと覚えてなかったから読めなかったんだ。今日そのことに気付いたんだよね。だから、明日こそはメイリィが言いたいこと、きちんと分かってあげられるように今日のうちに文字をしっかり復習して完璧にしとこうと思って」
 夕食後もやはりテトの勉強は続き、結局見かねたフィシュアが、「もう寝なさい」 と諭しつけた夜更けまでテトは何度も何度も同じ文字をひたすら書き取り続けたのだった。
 
 
 
「うーん、初恋かしら?」
 シェラートがその言葉に目を向けると、フィシュアはまだ駆けてゆく窓の外の少年少女を見守っていた。
 しかし、その藍の瞳が穏やかで温かなものであるのと対照的に、口元にはニヤニヤとした笑みが浮かんでいる。
「……楽しそうだな」
 シェラートの呆れたような呟きに、フィシュアが振り向いた。その口元にはやはり先程と同じ笑みが刻まれている。
「そりゃあ、楽しいわよ。テトはメイリィと話したいが為だけに昨日あんな一所懸命に頑張ってたのよ? あれだけ努力してたんだもの。きっと今日は詰まることなく会話もできるでしょうね。微笑ましいわ」
「昨日はテトとメイリィが仲良くなることを危惧してなかったか?」
 その問いが放たれた瞬間、フィシュアの笑みが苦いものへと変わる。
 もうすっかりテト達の姿が見えなくなった窓の外の向こうの景色へと視線を戻した後、フィシュアが口を開いた。
「―――ええ、それは今でもしてるわよ。特に明日は水初の儀があるから、本当に心配だけど。でもね、今日は少なくともテトのとっては良かったのかもって思ってる。水初の儀が始まる前に水神がいるって言う泉に行ってみようと思ってたから。テトは明るく振る舞ってるけど、お母様が亡くなった原因を作ったジン(魔人)と会わせるのはちょっとね……」
「まあ、そうだな……」
 溜息と共にシェラートはそう零すと、腰かけていた椅子から立ち上がった。
「じゃあ、さっさと行くか。メイリィは明日の儀式の支度があるから昼過ぎには戻ってくるってテトが言ってただろう? テトが戻って来た時、俺達がここに居なかったらテトが心配するからな。早く行って、テトが返ってくるまでに戻らないと
 
 
 
 水神が住まうとされている泉は村のはずれにあった。
 村長から教えられた道筋通り、村を出て林へと続く道に沿って三十分程歩くとフィシュアとシェラートは迷うことなく泉へ辿り着いた。
 目の前に広がる泉は村にあった畑一つ分の大きさほども無い。
 しかし、まるで水鏡とはこのことを指していたのかと言うほど、空をそのまま落とした泉は青く澄んでいる。風が吹いても微かな漣(さざなみ)さえ起たず、張り詰めた泉は冷え冷えとしていて、確かに、どこか神聖さを持ち合わせていた。
 
 それにもかかわらず、フィシュアとシェラートの目には美しい泉の姿など塵ほども映っていなかった。
「―――これ、は……。今日は、ちょっと無理ね……」
「―――だな……」
 多少の驚きを含んだフィシュアの言葉にシェラートが頷く。
 泉の横にある小さな石造りの祠(ほこら)。
 恐らく水神を祭る為に建てられたのであろう、その祠の周りには黒と白の衣を纏った人の姿が多くあったのだ。
 黒衣を纏っているのは男。白衣を纏っているのは女。それぞれが、ディクレットとメイリィの服装に似ていることから、恐らく神殿の神官と巫女達なのだろう。どの人物も祠の周りを忙(せわ)しなく走り回っていた。
 明日は水初の儀があると昨日から聞いていたのだ。その用意の為に、人が集まっていることなど当然のことであり、容易に予想できたはずだった。
 だが、ガンジアル地方の極端な水不足の原因の主であるジン(魔人)と相対するのだと気負って来ていた分フィシュアの落胆は激しかった。
 フィシュアは大きく溜息をつくと唯一の頼みの綱であるシェラートに微かでも希望を見出そうと尋ねてみた。
「……そのジン(魔人)に会う為には絶対に、ここじゃなきゃダメなの? 水の宮って泉の中にあるんでしょう? 裏から回って、こっそり入れないかしら」
「残念だが無理だな。水の宮に住んでいると言っていたが、泉の中に魔力の気配は無い。きっと、ジン(魔人)の住処は、ここではない別の場所にあるんだろう。ただし、道自体はしっかりあの祠のすぐ近くで繋がっている。ジン(魔人)の住処への入り口はそこしか無いようだから、こっちもまた行くのは無理だ。行けるとしたら水初の儀が終わってからだな。今日行くのは断念するしか無いだろう」
「―――泉の中に水の宮が無いって、それじゃあ本当に水神も水初の儀も名ばかりじゃない!」
「まぁ、そういうことになるな。元々ジン(魔人)は契約で結ばれない限り、自分の意思以外で力を使うことは無い。ジン(魔人)より階位が上のジーニー(魔神)なんかは人間と契約すら結ぶことが無いしな。たまたま、ジーニー(魔神)やジン(魔人)が力を行使している所を見た人間達が勝手に神として崇め祭っているだけだ。自分が神として称えられているのを知っていたとしても、ほとんどの奴は興味が無いから、そのまま放置して人間達のやりたいようにやらせている。中には願いを叶えてやる奴もいるだろうが、それも単なる気まぐれが多いだろう。そんな奴らにどんなに捧げ物をして、願いを託したって望みが叶えられることはまず無い、と考えていいだろうな」
「つまり、神の名自体が名ばかりってわけね」
「そうだ」
「それじゃあ、あの子……メイリィは本当に全く意味のないことで殺されるってわけ」
 そう言うとフィシュアは祠の方に向かって薄い笑みを浮かべ、踵を返して形だけの祠から背を向けた。
 大股で歩を進める振動からか、高い位置で一つに括(くく)られた琥珀に近い薄茶の髪が右へ左へと大きく揺れている。
 元来た道へと足早に歩きだしたフィシュアの背に溜息を洩らしながら、シェラートもまた、村への道を歩き出した。
 
「テトにどうしようもないとか言って、自分はどうにかしようとしてたのか?」
 いつの間にか追いついて来たらしく、隣から聞こえてきたシェラートの問いに、フィシュアは鋭い藍の瞳を向けた。
 しかし、ちっとも怯まず、問いかけの手を止めようとしない翡翠の双眸にフィシュアは降参というように一度肩を竦めると、その口を開いた。
「―――どうしようもないことだからこそ、どうにかしたいと思っちゃうのよ。今日、ジン(魔神)に会ってペルソワーム河の水を元に戻すことができれば、水初の儀も中止にできると思ったの。水さえ元通りになれば、その後、説得する方法はいくらでもあるでしょう? 聞き耳だって持ってくれるだろうし」
「けど、今日は無理だぞ?」
「―――分かってるわよ」
 再び歩調を上げ始めたフィシュアに合わせて、シェラートも歩幅を広げる。
 けれども、それに気付いて走り出そうとしたフィシュアに嘆息しながら、シェラートは揺れる長い琥珀に近い茶の髪を引っ張って強制的にそれを止めた。
「―――ちょっと、痛いじゃない!」
 フィシュアが振り向き、続いて藍の瞳がキッとシェラートを睨みつける。
「本当フィシュアって自分で言ってることと、やってることが矛盾してるよな」
「―――うるさいわね! これでも一応自覚してるわよ!」
 頬に朱を散らして怒っているフィシュアにシェラートは苦笑を洩らす。
 だが、それが不服だったらしいフィシュアはシェラートに向かって半眼した。
「まあ、分かってるならいいさ。けど、フィシュア、もう一つ自覚してることがあるだろう? そっちの方は間違ってるぞ。メイリィはフィシュアじゃない。立場が似ているのは分かってるが自分と重ねすぎるな。」
 
 シェラートがフィシュアの頭をポンと叩き、その横を通り過ぎて行く。
 フィシュアはその背を唖然とした表情で見送った。
「……どうして分かったんだろう?」
 独り言のように思わず漏れてしまった言葉。
 しかし、小さな呟きはシェラートの耳にきちんと届いていたらしい。
 シェラートは歩みを止めると立ち尽くしているフィシュアへ再び苦笑を向けた。
「フィシュアはすぐ顔に出過ぎなんだよ。用は終わったんだから早く戻るぞ。ここにずっといたらテトが帰って来るのに間に合わなくなる」
「……あ、うん。そうね……」
 フィシュアが追い付いたのを認めると、シェラートは再びその歩を進めたのだった。
 
 
 
 

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