ラピスラズリのかけら 4:シェラート 8 水端の巫女【6】

 

 鐘が鳴る。
 カランコロンという空虚なその音は小さな村の中、隅々まで響き渡り、正午がやってきたことを告げた。
「この鐘って、やっぱり神殿で鳴ってるの?」
 ちょうど村全体を見下ろせるほどの小高い丘の上、メイリィがよく来るのだと言うその場所に二人は居た。
 雨が降らないせいか斜面に茂っている草の一部は黄色く枯れている。だが、その中には厳しい条件にも負けず強かに咲いている野の花が確かにあった。
 メイリィと初めて出逢った時、テトが受け取った薄桃の花もここから摘んできたのだと言う。
 
 メイリィはテトの問いに頷くと、草が無く茶色く剥き出しとなった地面へと向かった。
 すでに、そこに書かれてあった文字を掌で消し、新たな文字を書き出す。
『神殿の一番てっぺんに付いてるの。時間が来たら紐を引いて鐘を鳴らすんだよ』
 メイリィが村の中心にある純白の石造りの建物を指差す。
 周りの建物よりも一際大きい神殿の屋上、その中の一部だけ小さく突き出した屋根の下には確かに黒っぽい何かがぶら下がっているのが見えた。
「こんなに音が響くのに、小さいんだね」
『本当は大きいよ。テト、見たらびっくりするかも。鐘が鳴ったから、もうそろそろ帰らなくちゃいけなくなってきちゃったし、ちょっとだけ早めに帰って一緒に見に行く?』
「いいの?」
 嬉しそうに問い返してきたテトに向かって、メイリィがコクリと頷き微笑んだ。
 それを合図に二人はまるで競争をするかのように村へと続くなだらかな丘の道を駆け降りて行った。
 
 
 メイリィと共に神殿へとやって来たテトに、ディクレットは憮然とした表情で眉を顰めた。
 しかし、メイリィが、鐘を見せてあげたいのだ、と声の出ない口をパクパク動かすと、渋々ながらもテトが神殿に入ることを認めてくれた。
「うっわぁ!」
 歓声を上げるテトの隣で、メイリィは得意げに胸を張った。
 目の前に広がるのは壁一面を真っ白に塗り固められた世界。
 だが、純白であるが故に微妙な凹凸によって陰影が生み出されている。壁の上の方に掘られている花や魚の飾りは同じものであるのに、光の当たり具合によってその表情を全く異なるものへと変えていた。
 天井に等間隔に開けられた丸い天窓からは目に染みるほど晴れ渡った空の青が、白いだけの世界を彩る。
 その真下には天窓から降り注ぐ陽の光が、やはり光の円を床へと描き出していた。
 テトは想像以上に広く、美しい神殿の内側をしばらく呆けたように眺めていたが、視界の端に手招きをしている見知った少女の姿を見つけて本来の目的を思い出し、彼女が立つ螺旋階段へと向かった。
 
 メイリィはテトが階段の下に来たのを確認すると、先導するように登り始めた。その後をテト、ディクレットと続く。
 一段一段上がるごとに白い壁に囲まれた螺旋階段を照らす光の量が増してゆく。
 屋上へと辿り着いたのはテトの息が上がり始めた頃だった。
 頭上に広がる青空に浮かぶ雲よりも映える白い屋根の下、そこには確かにテトが考えていたものよりも大きい黒茶の銅でできた鐘が下がっていた。
 ねっ、と振り向いて笑うメイリィにテトが頷く。
「あの紐は?」
 銅の鐘の天辺から両側にそれぞれ紐が一本ずつ地面までピンと張られている。左右の紐と地面とがちょうど三角形を描き出していた。
「左右の紐を二人で交互に引っ張って鐘を鳴らすのです」
「へ~! メイリィが言ってたのってあの紐だったんだ。―――ねぇ、もう少し近寄ってもいい?」
「……いいですが、絶対に触れてはなりませんよ」
 分かってる、と言いながらテトはすでに鐘の元へと駆け寄っていた。それに連なる様にメイリィも駆け出し、テトの隣へと並ぶ。
 間近で見る鐘は迫力があった。
 テトが両腕を広げてみると、それよりも少し大きかった。鐘の中を覗いて見ると、大人の頭と変わらぬほどの球が付いている。
 これが村全体に響き渡るのか。そう思うとテトはなんだか不思議な気持ちになった。
 たった一つで村に時間を知らせ続けてきた鐘は、それを誇りとしているかのように堂々と鎮座している。
 テトは隣に居るメイリィに、「すごいね」 と感想を漏らした。メイリィはまるで自分が褒められているかのような誇らしげな顔をして頷いた。
 
「あれは何?」
 鐘の奥、屋上の端になるその部分で、幾重にも重なった薄い白い布がヒラヒラと揺れている。
 メイリィは、はためく白い布を不思議そうに見つめているテトへ、にっこりと笑みを向けると、自分を指差した。
「メイリィの?」
 メイリィはコクリと頷き、来て、とテトを手招きした。
 メイリィが立ち止まった場所。小さな祭壇の上に乗せられていたのは細やかな刺繍が丁寧に縫いとられた純白のドレスだった。刺繍で描かれた花の模様が陽に当たって浮き上がって見える。
 このドレスの形は見たことがある。メイリィに合わせたものだから丈は小さいが、まるで、この前見た花嫁が来ていた花嫁衣装のようだ。
 そう考えたテトの中にチカリと光るモノがあった。
 これは、まさか――――
「水初の儀の衣装……?」
 綺麗でしょう、とメイリィがはにかんだ顔で笑う。
「うん……すごく綺麗」
「あの衣装は水初の儀に向けて太陽の光と月の光に一週間晒しているのです。そうやって衣装自体にも聖なる力を溜め、水端の巫女であるメイリィ様によりふさわしいものにしているのです」
 いつの間にか背後に立っていたディクレットが淡々と語った。
 このドレスは本当にメイリィにとっては花嫁衣装なのだ。村の水神に嫁ぐ為のドレス。
 聖なる力を溜めるまでも無く、ふわふわと風に揺れるこのドレスはきっとメイリィによく似合うだろう。
 けれど、彼女がこのドレスに袖を通す時、それは同時にメイリィとの別れの時なのだ。
 そして、そのまま彼女に会うことは二度と叶わなくなってしまうのだ。自分の母と同じように。
「あのね、メイリィ……」
 メイリィが首を傾げて微笑む。それを見た途端テトには言葉を続けることができなくなった。
 何でもない、と首を横に振ると、テトは風に揺れ続ける小さな花嫁衣装をやりきれない気持ちで眺めたのだ。
 
 
 
 帰って来たテトは明らかに元気が無かった。
 また何か分からない字があって落ち込んでるのかと思ったが、そうではないらしい。
 寝台に腰けたまま、深く思いつめたように黙り込んでしまった。
 フィシュアはテトの前に膝をつくと、下からテトを覗きこんだ。
「どうしたの?」
 テトの目とかち合い、その黒い瞳がわずかに揺れる。
「ねぇ、フィシュア……本当に、どうにもできない?」
 掠れた声で苦しげに呟かれた、その言葉でフィシュアは全てを悟った。
 テトもまた考えてしまっていたのだ。どうすることもできないのだと知っていても、それを認めることはできないのだ。何か方法は無いのか、とずっと模索していたのだ。
 テトの問いにフィシュアは答えることができない。
 自分でも、まだ見つからない答えなのだ。
 “何とか考えてみるから安心して”などという安易な気休めなど言えるはずも無かった。
「雨を降らせるのはどうかな? ほら、水が無くなってる場所以外の河にはたくさん水があったでしょう? そこから運んだ水で雨を降らせるの」
 テトの視線を受けたシェラートは、だが、難しい顔をして首を振った。
「確かに俺の力をもってすればできないことではない。一時的には水初の儀を回避できるだろうな。けどテト、その方法だと消えたペルソワーム河の水はそのままだ。その状態なら一日も空かずに水初の儀は決行されることになるだろう」
「でも、一時的にでも中止になるなら、その間にジン(魔人)の所に行けばいいじゃないか」
「それもちょっと無理そうなのよ、テト。今日、水神の泉に行ってみたんだけどね、神官や巫女が大勢いて近寄れそうになかったの。恐らく、少しの間中止になったくらいじゃ、あそこで準備している人たちは退かないと思うわ。完全に中止になった後、祭儀場の片付けまで全て終わった後じゃないとね」
「そっかぁ……」
 再び俯いてしまったテトの栗色の頭をフィシュアはゆっくりと撫でた。
 あまりにも落ち込んでしまったテトの姿に、ごめんね、と謝りたくなってしまう。
 けれど、この言葉を口にすることはできない。
 テトの中では、まだ終わってはいないことなのだから。
 きっと、簡単には終わらせてはいけないことなのだ。
 大切な人との永遠の別れを知ってしまってる分、きっと諦められるような事柄ではないのだ。
 ―――テトは強いな。
 腕を組んで必死に考えを巡らせ始めたテトにフィシュアは目を細めた。
 テトに比べて自分はどうだろう?
 “どうしようもない”、という諦めの思いと、“何とかしたい”、という二つの思いがせめぎ合っている。
 テトが諦めずに一直線に良い方法を模索しているのに対し、自分はそのどちらにも決められないでいる。
 テトがメイリィのことだけを思って考えているのに対し、自分はきっとそうではない。
 
 さっき泉でシェラートに言われた通りなのだ。
 メイリィに過去の自分を重ねてしまっている。
 私は逃れられなかった。だから、彼女だけは、と願ってしまうのだ。
 
 フィシュアは短く溜息を落として、その考えを振り払った。
 
 今はそんなことを考えている場合ではない。
 テトが難しいと知っていてもなお、諦めないと言うのなら、私も少しでも力になれるように考えなければ。
 
 だけど、どう考えたって、自分達三人だけで事を運ぶのは無理だ。
 ―――誰か、他に協力してくれる人がいたなら…………
 
 けれど、協力者となってくれる人がこの村に居るとは思えない。
 誰もが皆、水初の儀を、神官達が水端の巫女に下した決定を、信じて疑ってはいないのだから。
 
 フィシュアは顎に手を当てながら、窓の外に見える純白の神殿を睨んだのだった。
 
 
 
 

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