ラピスラズリのかけら 4:シェラート 9 水端の巫女【7】

 

フィシュアは一つの羽音に顔を上げた。
見ると、もう日が暮れかかっていて、神殿が橙色に染まっている
ずいぶんと長い間、考え込んでいたらしい。同じく黙々と考え込んでいるテトに目をやりながらフィシュアは立ち上がった。
「どこに行くんだ?」
扉へと向かおうとした時、シェラートが声を掛けてきた。彼もまた、この部屋でずっと何か方法はないかと考えを巡らせていたのだ。
「ちょっと外に行ってくるわ。ホークが来たみたい」
フィシュアが窓の外へとちらりと目線を送る。
夕日色に輝く空には確かに茶の鳥が一羽、優雅に舞っていた。
ホークを認めたシェラートは怪訝気に眉を寄せた。そんな彼を見てフィシュアが苦笑する。
「そんなに嫌がらなくても部屋にいさえすれば突こうとしたりしないわよ」
「つまり、外に出たら突かれるってわけか……?」
「まぁ、それは否定できないわね」
フィシュアがクスクスと笑うと、シェラートはさらに眉間の皺を深めた。
「じゃあ、すぐ戻るから。テトのことはよろしくね」
「―――ああ」
 
部屋を出たフィシュアは階段を降り、居間を通り抜け、足早に外へと続く玄関へと向かう。
扉を開いた瞬間、風がフィシュアの長い髪を掬った。琥珀に近い薄い茶の髪がふわりと流れる。
通り抜ける夕暮れの風は早くも肌に心地好い程の涼しさを含んでいる。
フィシュアは端から薄紫に変わり始めた高い空へと声を投げかけた。
名を呼ばれ、鋭い黄のくちばしをもった鳥が主人の元へと音も無く舞い降りる。
フィシュアは膝をつき、ホークの首元を一度掻いてやると、鳥の太い鉤爪の付いた足から素早く手紙を外した。
慣れた手つきで、手紙を広げ一通り目を通す。
そこに書かれているのは皇都での近況。
ミシュマール地方で発生した病の概略と対策を各地に発布した旨。
アエルナ地方での事件とジン(魔人)の関わりと皇都攻撃の件を確かに承ったという旨。
それから、差出人である義姉からの他愛も無い近況報告だ。
フィシュアは相変わらず仲が良いらしい兄夫婦に張り詰めていた心がいくらか和んでいくのを感じた。
「兄様や義姉様だったら何か良い方法が思いつくだろうか?」
どちらも良く頭の働く夫婦である。きっと自分よりは上手くやるだろう。
「お前だったらどうする、ホーク?」
問われたホークは首を傾げ、クリリとした黒の瞳を一度パチクリと瞬かさせた。
しかし、首を持ち上げると、近づいてきた足音に再び羽を広げ上空へと飛びたった。
舞い上がったホークの向こう、フィシュアが目にしたのは夕焼けに染まった衣に身を包んだあどけない少女だった。
「メイリィ?」
やって来たメイリィはコクリと頷き、村長の家を指差した。
「もしかして、テトに会いに来たの?」
フィシュアの問いにメイリィは当たり、とばかりに微笑むと、キョロキョロと辺りを見渡した。何をしているのだろう、とフィシュアがその様子を眺めていると、メイリィは急にしゃがみ込み、次の瞬間には木の棒の切れ端を手にしていた。
ガリガリという土を削る音と共に地面の上に文字が現れる。
『明日の準備が終わったからテトにお礼を言いに来たの。話しができるのは今日が最後だから』
「……そう。テトは二階にいるわ。村長さんに声を掛けてもらえれば、すぐに下りてくると思うから」
『ありがとう』
メイリィは書き終えるやいなや、棒きれを持ったまま扉へと向かって走り出した。
「―――待って、メイリィ!」
フィシュアに呼び止められ、メイリィが不思議そうに振り向いた。
だが、フィシュアの方へと振り返ったのと同時に、走っていた勢いを削ぐことができなかったらしいメイリィの体が傾き出してしまった。
「―――危ない!」
地を蹴ったフィシュアは慌ててメイリィへと手を伸ばした。
トスリ、という音と共に腕に確かに重さを感じた。完全に助けられたわけではないが、とりあえずメイリィが頭を打つことは避けられたようだ。
「大丈夫?」
メイリィをきちんと立たせて、怪我がないか確認する。膝が少しすりむけてしまっていたが、血は出ていなかった。
「よかった、大した怪我は無いみたいね」
しかし、安堵したフィシュアが顔を上げると、メイリィがすごく驚いた様子で目を見開きながらフィシュアをじっと見ていた。
あまりにものメイリィの驚愕の仕方にフィシュアは自分がしてしまったことに、ハッとして彼女の体に触れていた手を離した。水端(みずはな)の巫女であるメイリィは見初の儀に向けて潔斎中だ。触れてはならなかったのだ。咄嗟のことにフィシュアは、そのことをすっかり失念していた。
「ごめんなさい」
謝っても今更仕方のないことだとは分かってはいたが口をついて出た謝罪の言葉。
けれど、フィシュアの謝罪に我に返ったらしいメイリィは、ゆっくりと首を振った。
メイリィがパクパクと口を開く。しかし、フィシュアが首を傾げたのを見て、すぐにしゃがみ込むと再び地面に文字を書きだした。
『大丈夫。本当は私、何の力も無いの。だから、触られても力が減ることは無いし、黙っておけば分からない。だから、これは二人だけの秘密ね』
そう書き終えると、メイリィはフィシュアに向かって微笑み、口に人差し指を当てて微笑んだ。
だが、そんなメイリィに今度はフィシュアの方が驚いて目を見張った。
「―――メイリィ……あなた、自分に力が無いって知っていたの?」
メイリィがコクリと頷く。
「じゃあ、もしかして……水初の儀が本当はどういうものかってことも……?」
フィシュアの問いに、メイリィは頷かなかった。その代りに、笑顔が少し陰ったのがフィシュアには分かってしまった。
「どうして……」
―――逃げないの?
答えの続きは知っている。かつての自分もやはりそうだったから。
『それが私の役目だから』
メイリィはその言葉を地面には書きつけなかった。ただ口が音もなく動いただけ。
けれども、フィシュアにはその言葉が容易に読みとれてしまった。
それは、昔、何度も自分に言い聞かせた言葉。
ある日突然平穏だった日々から引き離され、“宵の歌姫”としての役目を与えられた。
今は納得している。確かにこの仕事は必要だと。誰かが請け負うべき重要な仕事であると。
だけど、昔はそうではなかった。何度、諭されても納得できなかった。
どうして他の人ではないのか、と。どうして自分なのか、と。
なぜ他の兄弟姉妹たちは暖かな家の中で暮らしているのに、私は絶えず空の下を歩き続けなければならないのか、と。
命を狙われていることに恐怖しながら旅を続けた日々。辛く、苦しかった日々。
逃れたかった役目。だが、決して逃れられなかった役目。
 
メイリィも……この少女も同じなのだ。
かつて、自分が“宵の歌姫”から逃れられなかったのと同じように、この少女も“水端の巫女”から逃れることはできない。
 
「ねぇ、メイリィ。もし、できるなら水端の巫女をやめたい?」
意味の無い問い。
だが、切望する願い。
メイリィは頷かない。静かに微笑んだだけ。
けれど、木の棒を握り直すと、地面に小さく書き記した。
『できるなら、明日も明後日もずっとテトと遊びたい』 
 きっと、他の人にしてみれば大した価値の無い程の小さな望みに違いない。けれど、短い言葉の中には少女の切なる願いが込められていた。
 叶わないと知りながらも、願わずにはいられない。メイリィの気持ちがフィシュアには痛いほど伝わってきた。
 この子はきっと泣かない。いつでも静かに笑うのだ。ほんの少しの哀しみと共に。
「―――あなたに頼みがあるの」
フィシュアの言葉にメイリィが首を傾げる。
「私、今からちょっと出かけてくるから、中にいる二人に帰るのが少し遅くなるって伝えててくれる?」
もちろん、とメイリィが自分の胸を拳で打って見せた。
「ありがとう」
フィシュアはメイリィに向かって微笑むと、メイリィが向かった村長の家とは反対方向、夕暮れの中を目指す場所へと駆けだしたのだった。
 
 
 

(c)aruhi 2008