ラピスラズリのかけら 4:シェラート 10 水端の巫女【8】

 

 静寂が辺りを占める建物の中へとフィシュアは足を踏み入れた。
 空を映す丸い天窓は、薄い青から橙、桃、紫、そして藍へと順に連なる。すでに夜を彩り始めた最奥の窓からは、早くも明星が光を放ち輝き始めていた。
陽が落ちてしまった今、ここにはフィシュアを除いて誰もいない。頭上の色調とは対照的な、薄い暗がりの中、フィシュアは歩を進めた。
 
 
「一体ここで何をしているのです?」
 背後から掛けられた声に、フィシュアは振り返ると、その声の主を見据えた。
「今晩は、ディクレットさん。大神官様への御目通りをお願いしに来ました」
 悠然と笑みを浮かべるフィシュアを前に、ディクレットは、しかし、いつもと変わらぬ憮然とした表情で答えた。
「生憎、大神官様は明日の水初(みそめ)の儀に備える為、もうお休みになられています。他の者も準備の為出払っているので、ここに残っているのは勤めの者と私だけです。もうまもなく神殿を閉めますから貴女も早くお帰り下さい」
「そうですか」
「ええ」
フィシュアは何か吟味するかのように藍の目をつっと細めた。だが、一つ頷くと再びディクレットへとその視線を向け、微笑んだ。
「大神官様ではなく、あなただけがここにいるのは、こちらにとって都合の良いことなのかもしれませんね」
 訝しげな顔をして首を傾げたディクレットに、フィシュアは続けた。
「率直に言います。メイリィを水初の儀をから外して下さい」
 何とも唐突な物言いにディクレットは一瞬瞠目したが、次いで口の端を少し上げるとフィシュアへと心底呆れたような視線を投げかけた。
「貴女は何を馬鹿なことを仰っているのです?」
「ええ。私も自分で随分馬鹿なことを言っていると分かってますよ。でも、もう決めたんです。どうせ、どちらにしろ動かせる可能性が少ないなら、一応自分自身で動いてみようと。結果的に動くかどうかは一か八。だけど、この賭けは絶対に諦められない。勝たなければならないんです」
「私には貴女の仰っている意味が分からないのですが」
「いいえ、あなたは分かっているはず。それに、あなたなら気付いているはずです。メイリィは知っていました。自分に特別な力が無いことも、水初の儀の本当の意味も。彼女の傍に常に寄り添っているあなたが知らないはずがありません。メイリィがそのことに気付いていたことさえも分かっていたはず。そうでしょう、ディクレットさん?」
「だから何だと言うのです?」
 溜息と共に漏れたディクレットの言葉には疲労が色濃く滲んでいた。
「大神官様の決定はこの村では絶対です。水端(みずはな)の巫女と定められたメイリィ様を水初の儀から外す? そんなことができるわけないでしょう。大体、貴女が仰っているのは大神官様がお告げを読み間違ったと言っているようなものですよ」
「そうです。私はメイリィが水端の巫女として水初の儀に出ても何の意味も無いと思っています。尊い犠牲が出るだけで何の解決にもならない。メイリィが贄(にえ)になったからといって現状は全く変わらない。だからこそ、私はこうして頼みに来たのです」
「頼まれても困りますね。儀式はもう明日です。今さら取り止めなどできません」
「中止にしろとは言ってません。私はメイリィを外して下さいと言ったのです」
「どういうことですか?」
「メイリィの代わりに私が儀式に出ます」
 フィシュアの藍の瞳は真剣そのものだった。強い意志の宿った、揺らぎの無い深い瞳。だが、ディクレットはそれを一瞥しただけで、壁へと目を逸らした。
「話になりませんね」
 長い溜息と共に、ディクレットはそう言い放つと、フィシュアの横を通り過ぎ、祭壇の方へと歩き出した。
「待って下さい!」
 ディクレットはフィシュアの呼びかけにゆっくりと振り返った。
「まだ何か?」
 その表情からは、いい加減煩わしいと彼が思っていることが、ありありと読み取れた。
けれど、ディクレットは、まだ相対してくれる気があるらしい。元々、一縷の望みは彼にしか掛けられないと思ったからこそフィシュアは神殿にやって来たのだ。ここで引き下がるわけにはいかなかった。
自分の願いが、彼の願いでもあって欲しいと思いながらフィシュアは言葉を口にする。
「……あなたも本当はメイリィが水初の儀に出て欲しくはないと願っているのではないのですか?」
「―――大神官様の決定は絶対だと先ほど申し上げたはずです」
「答えになってません。それは、あなたの本心ではないのでしょう? だって、あなたはメイリィのことを大切に思ってる。そうじゃなければ、メイリィが何を話しているかなんて口を見ただけで読み取れるはずがありません。読み取ろうと注意して、見ているからこそできることです。違いますか?」
 ディクレットは肩を竦めると、フィシュアを睨んだ。
「そうです。当り前でしょう。私はメイリィ様のことをずっと大切に思ってきました。メイリィ様と初めて出会ったあの日から、パドマ様と私であの子のことをずっと育ててきたのです。私達にとってメイリィ様は自分の子供のような存在。大事に思わないはずがありません」
「―――それなら!」
「だからこそ部外者である貴女に邪魔されると困るのです!!」
 先程までの彼からは想像できないほど、ディクレットは声を荒げていた。自分でも気付いているのだろう。彼は一度目を閉じると、今度は努めて淡々と語りだした。
「どうやら、簡単には引き下がりそうにありませんね。この際だから、貴女には、はっきりと申し上げておきましょう。ただし、ここで聞いたことは絶対にこの村の者には他言しないと誓ってください」
 ディクレットはフィシュアが頷いたのを認めると壁へと目を移した。彼の目線の先にあるのは壁上部一面に彫られた見事な装飾の一つ。二対の魚の間に挟まれた一際大きな魚だった。
「―――私はメイリィ様を水神様に捧げる気などさらさらありません。あの子の犠牲の上に成り立つくらいなら、この村など滅びてしまった方がましです。元々パドマ様……前大神官様は母親に殺されかけていたメイリィ様を助ける為に、あの子を水端の巫女として定められたのです」
「母親に殺されかけた……?」
「ええ。産声すら上げなかった赤子を気味悪く思ったのでしょう。ちょうど母親が子を手に掛けようとしていたその時、子が生まれたと聞いて神殿からの祝いを述べる為に訪れたのが私とパドマ様だったのです。自分の産んだ子を、化け物だ、と言って半ば狂乱していた母親からパドマ様は赤子を取り上げ、神殿に保護しました。
 けれど、その子が声を発せないと言うことはすぐに知れたのです。このままではこの子が奇異の目にさらされるだろうとパドマ様は考えました。私たちの村はあまりにも小さい。皆が寄り添って暮らしている分、一度、異質と認識されればあの子に居場所はありません。パドマ様はそれを恐れたのです。
 だからこそ、パドマ様は、声が発せないのは水神様に愛されている証拠だと告げ、まだ生まれたばかりの赤子を水端の巫女として指名したのです。そうすれば、村人からつまはじきに遭うこともない上、何の患いもなく神殿で育てる理由ができます。
“水端の巫女”の名は、本来あの子を守るためにパドマ様がお定めになったもの。だからこそ、“水端の巫女”の名の下にあの子が犠牲になることだけはあってはならないのです」
「そのことを今の大神官様は……」
「もちろんご存知です。パドマ様はお亡くなりになる間際まで、あの子のことをお気にかけていらっしゃいました。現大神官様にもメイリィ様のことをきちんと事付けられたのです。
 けれども、メイリィ様は両親のいない身。雨が降らなくなり、水初の儀を執り行うことが決められた時、贄の名として真っ先に挙げられたのがメイリィ様でした。村人から娘は出さなくて済む。それに、メイリィ様は水神様に愛されていると村人誰もがそう固く信じているのです。反対が起こるはずもないだろうと。
 もちろん憤りを感じました。大神官様は間違っていると。パドマ様の意志はどうなるのだと。けれど、相手は仮にも大神官様です。何度も繰り返すようですが、この村では大神官様の決定は絶対です。一神官である私には口を出すことさえ許されません。どんなに大神官様の言葉が正しくないと思っていたとしても、宣託をしたのが大神官様である限り、逆らうことなどできないのです。
 だから、水初の儀を止めることはできない。メイリィ様を水初の儀から外すことなど以てのほかです。その上で私は、儀の途中にメイリィ様を連れて村から逃げ出そうと思っているのです。要は村人にメイリィ様が水の宮にお上がりになられたのを認めさせればいいのです。村の者は水神様の祠には近づけません。泉の周りで遠くから眺めるだけです。祠へ辿り着けばそこに居るのは神官と巫女のみ。時期を見れば逃げ出せないことはないでしょう。
 貴女が心配せずとも初めからそうするつもりでした。だからこそ、手を出さないでいただきたい。失敗することなどできないのです」
「ですが、あなたの考えは甘すぎる。それでは神官と巫女に相対しなければならない。彼らだけでも数十人です。その中をかいくぐるのは難しいはず」
「考えが甘いことは充分承知しています。しかし、だからと言って、貴女を儀式に出したところでどうなると言うのです? メイリィ様を差し置いてなど、まず、村人が認めないでしょう。神官達の警戒も無駄に強くするだけです」
「ええ。確かに、あなたの言う通りだと思う。でも、私にも考えがあるのよ。あなたさえ協力してくれれば、こちらの方が成功する確率は上がるはず。私が水端の巫女の代わりとして水初の儀に出さえすれば―――」
 
「―――お前、ふざけるなよ!?」
「シェラート!?」 
 突然響いた低く怒りを孕んだ声にフィシュアが振り返ると、神殿の入口にはシェラートがこちらを睨んで立っていた。戸惑っているフィシュアを見据えたまま、シェラートはずかずかと大股で歩を進める。
「どうしてここに?」
「メイリィから聞いた。フィシュアのことだからどうせ神殿だと思って来てみたら案の定だ。帰るぞ」 
「え!? ちょっと待ってよ! い、痛い! 痛いって!!」
 フィシュアとディクレットの元に辿り着くなり、掴まれたシェラートの手をフィシュアは振り払おうとしたが、それは叶わなかった。強く握りしめられた腕は痛く、だからこそ、シェラートがどれほど怒っているのかが伝わって来た。
 再び踵を返し、神殿の出口へと歩き出したシェラートに引き摺られながら、それでもなんとか踏みとどまろうとフィシュアは足を精一杯踏み締めた。
「ねぇ! ちょっと待ってってば! 話を聞いてよ! 私が水初の儀に出さえすれば、いろいろ解決するのよ!!」
 フィシュアの訴えが届いたのか、シェラートは歩みを止めると深い嘆息と共にフィシュアの方へと向き直った。かち合った翡翠の双眸が細められる。
「フィシュア、お前、本気で言ってるのか?」
「こんなこと、本気じゃなかったら言わないわよ!」
「―――あのなぁ、フィシュアはメイリィじゃないんだ」
「分かってるわよ、そんなこと」
「分かってないから言ってるんだ! メイリィのことまでお前が痛みに感じる必要はない。この村のことにフィシュアがかかわる必要はないんだ!」
「じゃあ、このまま知らない振りしてほっとけって言うの!? 初めは私もそうしようと思ってた。どうしようもないことだって。だけど、やっぱりできなかった。だって、私はあの子をほっとけない。助けられる可能性があるのなら、それを諦めたくない!」
「だからって、代わりにフィシュアが生贄になって死ぬって言うのか!? それなら、メイリィがなった場合となんら変わりはないだろう!?」
「違う。違うわよ! 私だってまだ死にたくないもの。やらなきゃならないことだってたくさんある。自分の命だって簡単に手放せるものじゃないし、諦めるつもりもない!」
 フィシュアの言葉に、シェラートは眉間の皺を深めた。どうやら困惑しているらしいシェラートの表情にフィシュアは苦笑する。
「私は一言も自分が贄になるとは言ったつもりはないわよ。メイリィの代わりに水初の儀に出ると言っただけ。だから、話を聞いて、とさっき言ったでしょう? 
―――ディクレットさんも一度、私の話を聞いてから判断して下さい。これはメイリィを水初の儀に出さないためにどうすればいいかと考えた時に真っ先に頭に浮かんだ方法。けれど、神殿の中に協力者がいなければ最も成功する可能性が低い方法。でも、ディクレットさん、あなたが協力してくれるのならきっと上手くいくはず」
 ディクレットに向かってそう言い終えると、フィシュアは次いで自分の腕を掴んだまま耳を傾けてくれていた人物へと艶やかなる笑みを投げかけた。
 
 
「ねぇ、シェラート。前に少しくらいなら協力してやるって言ってくれたのは、まだ有効?」
 
 
 

(c)aruhi 2008