目を覚ましたサーシャは辺りを見渡した。
固い灰色の石造りの壁。
装飾のほとんどない簡素な机と椅子。
小さな窓の外に広がるのは、風に揺れる草原、橙色の煉瓦の壁に色とりどりに輝く屋根、そして街の奥、高い尖塔を持つ城。
「ああ、そうか。ここは……」
カーマイル王国だ。
通りで静かだと思った。いつも聞こえるはずの賑やかな声が今は無い。
サーシャは窓の外へと視線を向ける。
生まれ育った国、長く暮した場所のはずなのに、目に映るのは、どこか知らない異国のように思えた。
もう何度こうしているのだろう。
毎日目覚める度、そして自分がどこにいるかを確認する度そう思ってしまうのだ。
短く深い溜息を零す。
サーシャの指に光るのは小さな青い石。
青い石の輝きだけはいつもと変わらない。
「今頃どうしてるかな……」
サーシャはそっと石に触れ、彼方にそびえる城の横に広がる紺碧の海を眺めた。
「―――あれ、サーシャは?」
頭を掻きながら階段を降りてきたガジェンは、すでに起き出し朝食の準備を始めていた子供たちに思いっきり睨まれることとなった。
「母さんは家出中でしょ?」
クィーナがテーブルの上にガチャンと、半ば乱暴に重ねた皿を置く。
その皿が四枚しかないのを見て、ガジェンは寝ぼけていた頭を動かし始めた。
「ああ、そっか。そういえばそうだったな」
「もう! いったい何回繰り返せば気が済むのよ」
「もういい加減謝りに行ったら?」
「もう、目玉焼き飽きたぁ~。卵焼きは?」
「ちょっと、シタン。卵焼きは我慢しなさいよ。まだ作れないんだから」
「炒り卵ならできるんだけどなぁ。纏めるのは、なかなか難しいから。母さんが戻ってくるまでの辛抱だ」
ガジェンは、あーだ、こーだと未だに言い合っている子供たちを尻目に朝食の並び始めている食卓へと腰を下ろした。
こちらもまた、毎朝見られる風景。サーシャがいなくなってから毎日繰返されているものである。
「……なんっか、この頃目覚めが悪いんだよなぁ」
窓の外、空を見上げながら呟かれた彼の言葉は、喧噪の中、誰の耳にも届かない。
こうして空を見上げていると、あの日のようにサーシャが突然降って来るのではないか、と思う。
けれど、いくら見据えていても、そんなこと起きるはずもなくガジェンは溜息を落としたのだった。
サーシャとガジェンによる我慢比べ、もとい、夫婦喧嘩が始まって早くも一週間が経とうとしていた。
だが、事態は一向に進展しない。
当然のことながら付き合わされる彼らの子供達、アズー、クィーナ、シタンの三人は、いい加減辟易し始めていた。
「どうするよ?」
腕を組み、年長者であるアズーが切りだした。
同じようにシタンの部屋に集まった、妹、弟を交互に見る。
「―――って言ってもね、父さんも母さんも動かないんだもん。母さんはカーマイル王国に続く扉、閉めちゃってるし、私はまだ転移はできないからなぁ。こっちから母さんを説得しに行くのは無理」
「夕飯届けに来た時も、話切り出そうとしたらさっさと逃げ帰っちゃうもんな」
「もぉ! どっちかが謝れば済むことなのに。大体父さんも何で気付かないのかな。夕方に母さんが来てるってこと。明らかに私達が食べてるの母さんの料理じゃない! わざとテーブルに残してやってるのに」
「母さんが帰ってくる時って、ほとんど父さん酒場に行っちゃってるからなぁ。酔ってて気付かないんじゃないか? 食べても味分かんないのかも」
「―――父さんって馬鹿なのかなぁ……?」
「…………」
嘆息と共に真面目な顔をして呟かれたクィーナの問いにアズーは絶句した。
それは酷いだろう、と思いつつも、否定することはできない。アズーも全く気付いた様子の無い父に対して少なからずそう思っていたことは事実だった。
「でも、父さんも母さんも寂しそう」
静かな部屋に響き渡った声に、アズーとクィーナは小さな弟を見た。
お気に入りの黄色い鳥のぬいぐるみをギュっと抱きかかえている。
「そうね、シタンの言う通り」
「あれはもう意地の張り合いだからな……」
「だからこそ早く元通りになって欲しいんだけどね」
一体どうしたら良いものか。
両親に限って離婚は無いだろうが、このままでは互いに顔を合わせぬまま平行線を辿るだろう。それを避ける為には自分たちが動かなければならないのだ。何とも世話の掛る両親である。
だが、どう働きかければいいのか。その方法が一向に思いつかなかった。ウンウンと首を捻るが全く持って良い考えが浮かばない。
「頼みこむなら、こっちにいる父さんだな」
「そうよね。父さん、結構きてるみたいだし、もう一押しだと思うのよね」
「でも、いつもみたいに怒って言ったら逆に意地張っちゃうからな、父さんは」
「じゃあ、父さんに泣き落し」
シタンがキョトンとした顔で兄と姉を見て言った。
アズーとクィーナがそろって目を見張る。
数秒の沈黙の後、アズーは顎に手を当てて頷いた。
「いいかもしれない」
「やってみる価値はあるわね」
「あるある」
「―――よし!」
三人はお互いに顔を見合せてニヤリと笑った。
この瞬間、子供達による『押してダメなら、泣き落しでさらに押してみろ!』作戦が決行されることとなったのである。
目指す標的は父であるガジェン。
子供達の作戦など何も知るはずもなく未だ食卓に座ったまま新聞を広げていたガジェンの所へ末の息子、シタンが兄姉によって送り出された。
「―――どうしたんだ、シタン?」
何故かよく分からないがシクシクと顔に手を当てて泣いているシタンに驚き、ガジェンは小さな体を抱え上げた。
「ほら、高い、高いだぞ? お前、好きだろう?」
高く持ち上げて、何とか泣きやまないかとあやしてみるが、一行に泣きやむ気配は無い。
どうしたものか、と途方にくれそうになった時、スイッとクィーナが現れた。
「シタン、母さんがいなくって寂しいんだって。私も母さんに会いたいよぉ……」
そう言いながら、クィーナは顔を手で覆い隠し、しゃがみ込むと、えんえんと泣き出した。
「―――おい、クィーナ、泣くなよ」
ガジェンはシタンを抱えたまま、クィーナの傍にしゃがみ込むと慰める為に妻によく似た黒く艶のある髪を撫でた。
「ねぇ、父さん。もう、そろそろ母さんと仲直りしてよ。父さんだって本当は寂しいんでしょ?」
「アズー……」
ガジェンはいつの間にか目の前に立っていたアズーを見上げる。
必死に訴えてくる青い瞳に、ガジェンは一つ頷く。
そして、立ち上がった。
「アズー、クィーナとシタンを頼むぞ」
そう言うなり、ガジェンは抱えていたシタンをアズーの腕へと預け任せると、外へと続く扉へと向かって歩きだした。
「―――え? ちょっと、待ってよ、父さん! 一体どこに行くんだよ?」
「酒場だ!」
端的なガジェンの言葉と共にバタンと扉が閉まる。
取り残された子供達は閉まった扉を呆然と見つめた。
手で覆いかぶされていたクィーナとシタンの泣き顔には、涙一つ流れていない。
「―――酒場!?」
「何で? え? どうなったの?」
「うーん。失敗……?」
こうして、ガジェンは子供達の中に様々な疑問符を残したまま、ただ一人足早に酒場へと向かったのであった。
(c)aruhi 2008