ラピスラズリのかけら 4:シェラート 11 水初の儀【1】

 

「メイリィ様がお倒れになったらしい」
 畑へと続く道すがら、共に歩く人物の発した言葉に男は驚き、隣を見た。
「何!? 大丈夫なのか? 水初(みそめ)の儀は今日なんだぞ?」
「ああ、でも仕方がないだろう。さすがに御病気のメイリィ様を水神様に嫁がせるわけにはいかないからな。それは水神様に失礼だ」
「それなら儀式は延期されるのかい?」
「いや。ほら、宵の歌姫様がちょうどこの村にいらっしゃってただろう? あの方がメイリィ様の代わりに嫁がれることになったらしい」
「嫁がれることになったって、そりゃあ、無理だろう。水神様が愛しなさってるのはメイリィ様だ。よけいお怒りを買うに決まっている。大神官様は何をお考えになっているんだ!?」
「そりゃあ、そうだろうが……でも、他に方法があるかい? これ以上、日照りが続いちゃあ困る。いつ治るかわからないメイリィ様を、何もしないで待っている訳にはいかないだろう? だから、とりあえず宵の歌姫様に出てもらって、水神様にお伺いを立てるんだそうだ」
「お伺いってどうするんだ?」
「そこまでは、俺も知らない。ただ、その結果お許しが出た場合は宵の歌姫様は水神様にお嫁ぎになる。お許しが出なかった場合は、やはり、メイリィ様の回復を待ってから改めて水初の儀を行うそうだよ」
「大丈夫なのか、それ?」
「さあな。俺達はただ願うしかないだろう。上手くいくようにな」
「そう……だな」
男が空を見上げる。
空に雨をもたらすような雲は無い。ただ白く薄い雲がたなびく青い空の下を一羽の茶の鳥が優雅に舞っていた。
 
水初の儀が行われる朝、村では大変な騒ぎが起こっていた。今朝になって突然、水端(みずはな)の巫女であるメイリィが倒れたのである。その情報は神殿内でメイリィが一向に目を覚まさないことが発覚してから一刻もたたないうちに小さな村の人々全てが知るところとなった。
様々な不安と憶測が村人の間で飛び交う中、メイリィが村長の家へと移された。
今日は水初の儀。神官や巫女達は全て出払わなくてはいけない為、神殿には誰も居なくなってしまうのだ。もちろん村人であり、しかもその中の長でもある村長も儀式に参加しなければならない。だが、村長の家に宵の歌姫と居候していた一人の少年が、儀式の間ひとまず彼女の看病をすることとなったのだ。
ディクレットに抱えられて村長の家へと運ばれて行くメイリィの姿に村人の誰もが息を呑んだ。
彼女の明るく澄んだ空の瞳は固く閉じられている。時折、風や振動で細い金茶の髪が揺れる以外、メイリィはぴくりとも動かなかった。
ただの噂であったことが、今まさに現実として突きつけられたのだ。
ぐったりとした水端の巫女の姿に村人の中には思わず涙する者もいた。閉じてしまった村長の家の扉を、村人はそれぞれ複雑な面持ちで眺めたのだ。
 
 
村長に案内され、巫女である少女を抱えたディクレットは二階の一室へと通された。
ディクレットの手を離れ、メイリィがそっとベッドに寝かされる。昏々と眠り続け、一向に目を覚まそうとしないメイリィは掛布の中、穏やかな微笑みを浮かべている。
その姿にどうやら堪え切れなくなったらしい村長は少女を一瞥した後、目を伏せて足早に部屋を出て行った。
 
彼も他の村人も、神殿に仕えている者でさえも水端の巫女は何か恐ろしい奇病に罹ったのだと思っていた。
声を掛けても、体を揺すってもメイリィは目を覚ますことはない。呼吸は一定であるが、普段よりも浅く、心もとないものだった。
そんな病状など誰も目にしたことは無い。
だからこそ、彼らは水初の儀に対して不安を抱くと同時に幼い水端の巫女に降りかかった災厄を恐れ、嘆き悲しみ、目をそらすことでしか痛みから逃れることはできなかったのだ。
 
 
けれど、それは無理もない。彼らは真実を知らないのだから。
 
 
事態の真実を知るのは、この部屋に集っている四人のみ。
一人の神官と宵の歌姫、ジン(魔人)そして、ただの少年だけなのだ。
 
 
 シェラートがメイリィの額に片手を触れさせる。それと同時にくるんと形の良い金茶の睫毛がニ、三度しばたかれ、その下から空色の瞳が覗いた。
「メイリィ様……」
 ディクレットはほっと安堵の溜息を洩らした。恐らくジン(魔人)の力を目の当たりにするのは初めてだったのだろう。彼もまた不安だったのだ。メイリィがこのまま目覚めないのではないかと。
ここはどこだろう、とまだ完全に覚醒してないらしい頭で、首を動かし辺りを見渡し始めたメイリィにテトが「おはよう」 と笑いかける。もう会うことはないと思っていたテトの姿にメイリィは心底驚いたように目を丸くさせた。
「メイリィ、勝手に寝かしつけちゃってごめんなさいね」
 膝を付き、ベッドの横に座ったフィシュアの言葉に、メイリィは首を傾げる。
 フィシュアが纏っているのは純白の丈の長いドレス。薄く、フィシュアが少し動く度にヒラリと広がるドレスには無数の小さく真白な石が刺繍と共に縫い付けられている。その見事な衣装はメイリィが見たことのないものだった。
「メイリィ、あなたの願いを叶えるわ。あなたは今日一日、ここでテトと遊んでおくの。水初の儀には私が出るわ」
 その瞬間、フィシュアが纏っている衣装の正体に気付いたメイリィは激しく首を横に振った。声の出ない口をパクパクと動かし、必死に訴える。
「大丈夫よ、全くもって問題はないから」
 微笑むフィシュアに、メイリィは尚一層首を振った。どこか怒ったようにフィシュアを真っ向から見据えると、自分の胸を拳で二回打つ。
「“これは、私の役目だから”?」
 まるで全て分かっているとでも言うように覗き込んでくる深い藍の瞳に、メイリィは目を瞠った。淡く輝く金茶の髪をフィシュアが擦る。
「私も昔よく自分に言い聞かせてたわ。“これは、私の役目だから”ってね。だから、あなたが自分の感情を押し殺して我慢してきたのがよく分かる。でもね、だからこそ頑張ってるあなたに、何の意味もないことで死んで欲しくはないのよ」
 けれど、メイリィは頑として意志を曲げようとしなかった。さすがに少し困ったような顔で、フィシュアは後ろに控えていた三人を見渡す。
 その様子に、シェラートは半ば呆れながらフィシュアを見返した。
「フィシュアは説明が足りないんだよ。そんな言葉だけでメイリィが納得できるはずがないだろう?」
「そうは言っても、水初の儀までもうあんまり時間が無いでしょう? あ、でも後ヴェールをかぶるだけだし泉まで転移すれば大丈夫かしら?」
「転移って、村人が全員集まってる前に突然現れる気か?」
「何言ってるの。 そんな馬鹿なことするわけないじゃない。泉の外れに転移するのよ。それなら問題はないでしょう?」
「見られたらどうするんだ、見られたら!?」
「あら、見られたら、その時はその時よ。むしろ神秘性が増すかもしれないわよ?」
 フィシュアはそう言い放つと悠然と笑みを浮かべた。
 
 今にも頭を抱え出しそうなシェラートを尻目に、ディクレットは屈み、メイリィと視線を合わせる。
「メイリィ様」
 呼ばれた名にメイリィは背筋を伸ばした。けれども緊張するメイリィとは対照的にディクレットは穏やかな微笑みを向ける。
「フィシュア様の言う通り、あなたはずっと頑張ってこられました。それを一番近くで見てきたのは私です。そして、メイリィ様に我慢を強いてきたのも私自身です。ですから、あなたが納得のいかない気持ちも充分承知しています。
ですが、私からのお願いを聞いてください。メイリィ様には水初の儀には出て欲しくないのです。水神様の元になど行って欲しくはないのです。あなたには今までと変わらず、この村で笑っていて欲しい。
大丈夫です。メイリィ様が恐れているようなことは決して起きません。だから、彼らを、私たちを信じてここで待っていてください」
ディクレットの言葉に、メイリィは首を傾げた。
 幼い水端の巫女にディクレットは深く頷きを返す。
「良いのです。もちろんですよ、メイリィ様。今日まで随分と不安な思いをさせてしまいました。きっとずっと怖かったのでしょう? 分かっていて何もできなかった私を許してください」
 メイリィはぶんぶんと首を横に振る。空色の両の瞳からは涙がとめどなく溢れ始めていた。
 静かに泣き続けるメイリィの頭を、今度はテトがゆっくりとなでた。
「大丈夫だよ、メイリィ。絶対、全部上手くいくからね。詳しいことは後でちゃんと僕が説明してあげる。そしたら、きっとメイリィも安心できると思うよ? だから、僕と一緒にここでみんなを待ってよう?」
 心配したように覗き込みながらも、しかし、はっきりと「大丈夫だ」と断言したテトに、メイリィは涙を目に溜めながらも笑みを浮かべて、こくりと頷いたのだ。
 
 
 
 フィシュア達が水初の儀が執り行われる泉へと辿り着いた時、そこには既に大半の村人が集まっていた。
 前に来た時と変わらず、水神がおわすとされる泉は水紋さえなくピンと張り、静まり返っている。けれども、その周りに集まっている人の多さと熱気が、先日とは全く異なった泉の雰囲気を醸し出していた。
 
 祭場への道を歩き出そうとしたフィシュアに向かってディクレットは深々と頭(こうべ)を垂れた。
「貴女方には感謝してもしきれません。本当にありがとうございました」
 フィシュアは苦笑しながらも、ディクレットの肩へと手を置き、顔を上げさせた。
「頭を上げてください、ディクレットさん。今回のことは決して私たちだけの力ではないでしょう? 大神官様を説得してくださったのはディクレットさん、あなたです。それは、私達の誰もできないこと。あなたにしかできなかったことです。そして、それが最も重要だった。だから、こちらこそありがとうございました」
 しかし、と反論の言葉を口にしようとするディクレットをフィシュアが促す。
「さあ、行きますよ。儀式はまだ終わっていません。これからが始まりです。まだまだ気は抜けませんよ?」
 悪戯っぽい笑みをつくったフィシュアにディクレットは、「そうですね」と頷きを返した。そのまま二人は並んで神官たちの集う場所へ歩を進める。
 
「フィシュア」
 ふと呼ばれた声にフィシュアは振り返った。
 村人からは離れた木が立ち並ぶ場所、先程と全く同じ場所にシェラートは立っていた。計画通り、シェラートとは一度ここで別れるのだ。
「大丈夫か?」
 少しの心配を含んだシェラートの声音にフィシュアは艶やかな笑みを向けた。
「大丈夫よ。することはいつもと同じ。心を込めて歌うだけ。今日だけは水神様への願いも込めてね。あなたこそ大丈夫? しっかりやるのよ、失敗は許されないんだから」
「それはこっちの台詞だ……」
 心配が呆れに変わったことを感じて、フィシュアは声を立てて笑う。
「それじゃあ、後は任せたわ」
 
 
 
 泉の端、祠の隣に設置された祭壇へとフィシュアは降り立った。
 水神の住む泉へ向けて二度深く礼をし、前を見据える。
 
 
水に おわすは 雲の神
水に おわすは 雨の神
 
溶けた水は 雫となって
大地を潤し 緑を育てる
溶けた水は 雫となって
やがて大河を 創り出す
 
我らは 今 雨を求む
我らは 今 命を求む
 
雲に おわすは 水の神
雨に おわすも 水の神
 
どうか我らに 一粒の情けを
 
 
 雨乞いの歌に耳を澄ませていた村人は、けれど、何も変わらぬ泉の姿に落胆した。
―――やはり、水神様に拒まれたのだ。
この場所に集った誰もがそう思った時、一人の女の頬へと一粒の雫が落ちた。確かに頬に感触を感じた女は天上を見上げる。
けれど、見上げたそこには晴れ渡る青空が広がるばかり。首を傾げた女の横で、しかし、一人の老人が、「あっ」と声を上げ、同じ様に空を見上げた。
それをきっかけに、至る所で村人は顔を天へと向け始めた。
ぽつぽつと落ちてきていた雫はやがて音を立てて大地へと降り立つ。
「雨だ……」
 陽光に照らされた雨の粒は、七色の大きな橋を生み出した。
 現れた虹と、降り続ける雨に村人たちは信じられぬものを見るかのようにしばし口を閉ざした。
しかし、それも一瞬のこと。
溢れだす喜びに村人は次々と口を開き始める。
「お許しだ……! 水神様が宵の歌姫様のお嫁ぎをお許しになられたぞ!!」
 泉を囲む村人の歓喜は、その日、久方ぶりに降った雨の音と共に辺りに響き渡ることとなった。
 
 
 

(c)aruhi 2008