ラピスラズリのかけら 4:シェラート 12 水初の儀【2】

 

祭壇から降ろされた後、フィシュアは巫女の一人に手を引かれて祠へと足を踏み入れた。中に広がるのは祠と呼ぶには広く、かといって洞窟と呼ぶには狭いぽっかりと開いた空間。人がちょうど十人ほどしか入らないだろうその場所には神官と巫女が三人ずつ立ち並んでいる。その中には大神官であるらしい男の隣にディクレットの姿もあった。
恐らく高位であろう彼らの中から一番左端に居た巫女が前に進み出、ここまで案内をしてきた巫女からフィシュアの手を引き継ぐ。
「どうぞこちらに」
 フィシュアは促されるがままに示された白い台座へと腰掛けた。石でできた台座はひんやりとして冷たい。滑らかな石の感触を少し楽しんでいたフィシュアの前へと大神官が立ち、一礼した。他の者よりも光沢があるゆったりとした純白の衣を纏った大神官は厳格な面立ちをしている。おごそかな雰囲気の中に、けれど、彼はフィシュアに向かって微笑を浮かべた。
「水神様からお許しを頂けて本当にようございました」
 内容とは対照的に、大神官の口調には隠しきれない驚きが滲む。
それは、そうだろう。元より水神に伺いなど立てずに水端(みずはな)の巫女を嫁がせようとしていたのだ。言い方を変えれば、水神の意向など全く気にせず勝手に水端の巫女を捧げ、なんとか気を静めてもらおうとしていただけにすぎない。
フィシュアを水神の嫁として儀式に参加させたのも村人への対応の為だった。一応伺いは立てるということにしていたが水神の答えなど期待してはいなかったのだ。ただ、村人が意を唱えなかった場合にはフィシュアをそのまま水端の巫女に代わる贄として捧げ、村人が意を唱えた場合には水神の許しをもらえなかったからという言い分を元に、儀式を延期させるつもりだった。
「そうすれば村人たちから反感の声は上がらないでしょうし、儀式自体にも不都合が生じることはないでしょう。それに、何より水初(みそめ)の儀を延期する理由ができます」とディクレットが大神官たちに提言し、彼の案が見事採用されたのだ。
 だが、大神官の予想に反して水神からの明確な許しが出た。これは彼にとって喜ぶことであると同時に戸惑いを隠せぬほどの驚愕をもたらすものでもあった。いまや、フィシュアの存在は水初の儀の真の意味を知っている者にとって水端の巫女であるメイリィよりも確実で大きい存在となってしまったのである。それは、前大神官がメイリィを指名した理由とは違い、フィシュアが真に水神に愛されていることを示す証であったからだ。
 
「これで、本当に我が村も安泰でございます。どうぞ水神様によろしくお伝えください」
「ええ」
フィシュアは笑みを浮かべて、大神官へと頷いた。
 それを目に留め深く頷きを返した大神官はすぐ後ろに控えていた神官の一人から水の入った白い陶磁の器を受け取った。彼はその中へ手を入れ、次いでフィシュアの頭上へと掲げた。清めの水の雫がパラパラと降る。冷たい水がフィシュアの頬に触れた。
「おみ足を」
 落ち着いた深みのある声に素直に従いフィシュアは足を伸ばした。ひんやりとした手が足に触れ、続いてカチリ、カチリと音が鳴る。
 足首に加わった異物感と何とも嫌な予感のするその音に、自分の足元を見下ろしたフィシュアは思わず苦笑いを浮かべそうになった。
 足枷が嵌められていたのだ。しかも、ご丁寧なことに石でできた重石までつながっている。元々メイリィに付けられるはずだった黒い足枷はフィシュアの足に付けられたことで隙間なくピタリと肌に密着していた。
 顔を上げると、無表情の中にもディクレットが驚愕しているのが見て取れた。彼もまたこのことを知らなかったのだろう。
「フィシュア様、どうぞお手を」
 伸ばされた大神官の手にフィシュアは手を重ねて台座から立ち上がった。歩き出した大神官の後をフィシュアが続く。重石が付いている為、多少引きずった感じにはなる。けれど、それは仕方のないことだろうとフィシュアは思った。引きずらなければならないほどには、重石はやはり重かったのだ。
 そろり、そろりと奥へと向かう。進むたびに低くなっていく天井の岩壁に、ゆらゆらと揺れる光の網が映し出されたかと思うと、足元のすぐ近くにたっぷりと豊かに蓄えられた水が姿を現した。
「外の泉とつながっているのです。ここが水の宮への入り口となります」
 大神官の指し示す通り、水の中には泉へと降りる為の階段が続く。まるで自らが光を放っているかのように泉は青く輝いていた。時折水底から浮き上がってくる泡(あぶく)が銀色にキラリと光る。
 大神官の無言の首肯に促されてフィシュアは泉の中の階段へと足を差し入れた。ぽちゃんという小さな音と共に足元から円を描くように波紋が広がっていく。冷たいと思われた水は考えていたよりも温かい。純白のドレスがふわりと広がり、水面をただよう。水を含み、重くなり始めたドレスをフィシュアは手で泉の中へと押し込んで沈めた。水圧に押されて時折バランスを失いそうになるが、重石の付けられた足だけは確実に階段の固い面へと下ろされる。
とうとう顎の下まで水が迫って来た時、フィシュアは静かに、しかし、大きく息を吸った。意を決して、もう一段階段を下る。
静かに響いた軽い水の音と共に完全に泉へと姿を消した歌姫へ、祠に居た神官たちはおごそかに頭を垂れたのだ。
 
 
 目の前に広がるのは青いだけの世界。澄み渡った水の中には魚すら一匹も泳いではいなかった。たゆたう自身の琥珀に近い薄茶の髪を片手で後ろへと流す。
フィシュアは一歩一歩踏みしめるようにさらに階段を下って行った。
だが、ある程度進んだところで、伸ばした足が宙をさまよい、体がカクリと崩れた。階段が終わったのだ。
けれど、階段が下まで続いているものと思い込んでいたフィシュアは途中で急になくなってしまった階段に驚いた。思いもよらなかった事態に思わず開いてしまった口から泡が立ちあがる。
それとは対照的に、重石のせいでフィシュアはどんどん水底へと引きずり込まれていった。
 意に反して自分の体が暗い水底に落ちていくのを感じながら、フィシュアは息苦しさに顔を歪めた。
失った空気は戻ってなど来ない。頭ではそう理解しているのに、空気を求め、勝手に口が開く。同時に、ゴボリという大きな音を立てて生まれた新たな泡が次々に水面へと浮上して行く。銀色に輝く泡はくるくると回りながら、ついにフィシュアの視界から姿を消した。
 
 
 
 
「――ゴホッ……ゴホゴホッ……!」
 手に感じるのは柔らかな草の感触。肌に感じるのは暖かな日の光。
「おい、大丈夫か?」
 掛けられた言葉にすぐに答えることなどできるはずもない。
激しく咳き込み続けた後、なんとか呼吸を整えることのできたフィシュアは深く息をついた。ぽたぽたと雫を落とし続ける長い髪を耳に掛けながら、フィシュアはシェラートを睨み上げる。
「お、遅い……!」
けれど、苦しさの為かうっすらと涙が浮かんでいる藍の目にはいつものような威力は無かった。
「仕方がないだろう。こっちからじゃ祠の中の様子は見えないんだから。ディクレットに聞いた大体の時間でやったんだ。早く転移するよりはましだろう」
 文句を言いながらもシェラートはフィシュアに向かって手をかざす。途端、フィシュアの体の周りを暖かなものが包みこんだ。ぽかぽかとした陽だまりのような暖かさは濡れた体や服を乾かしていく。
「そうだけど……危なかった。すっごく焦った」
「何でそんなに焦るんだ。予定通りのはずだろう」
「まあ、ちょっと予想外のことがあって。水の宮に続くっていう階段は途中で途切れるし。重石付けられたから、どんどん体は沈んでいくし……」
 疲れた、とフィシュアは体を起こすと今度は地面に後ろ手でつき、体を支えた。乾き始めた髪を心地よい風がさらう。
「重石?」
 怪訝に眉を寄せたシェラートにフィシュアは頷く。
「ディクレットさんも知らなかったみたい。あれはちょっと、いくらなんでも徹底的すぎるわよね。ほんっとメイリィと代わってて良かったわ。あれじゃ絶対に逃げられない」
 フィシュアの示した足枷に灰の石でできた丸い重石が付いているのをシェラートは認めた。カチリと音を立てて二つの足枷が外れる。
「ありがとう。これすっごく重かったのよ」
 ケラケラと笑い始めたフィシュアに、シェラートは溜息を落とすと、自身も地面の上へと腰を下ろした。
「やっぱり、メイリィを眠らせるだけでよかったんじゃないか? メイリィが目覚めるまで無期延期になれば、いったん祠の周りの奴らも引いただろう。その間にジン(魔人)の所へ行けば良かった話だ。フィシュアがここまでする必要は無かっただろう」
「それは駄目よ。だって、もしかしたら村の娘が選ばれる可能性だってあるでしょう? もし、無期延期になったとしても、今度また同じようなことが起こったら、またメイリィが同じ目にあっちゃうじゃない。それなら、とりあえず私が儀式に出て、後で村に帰った時に水神の言葉として“嫁は必要ない”って言った方がいいでしょう?」
 けれど、シェラートはその問いには頷かなかった。顔を歪めたままのシェラートに向かって、フィシュアは少しからかいを含んだ笑みを浮かべる。
「シェラートも大概心配性よね。今のところロシュとどっこいどっこいかも」
「そのロシュってのも大変だよな。こんな無茶ばっかりする奴とずっと一緒に居て」
「大丈夫よ。ロシュはもう諦めてるし。その代り、もれなく説教が付いて来るけど」
「それのどこが大丈夫なんだよ」
「いいのっ! 結果良ければ全て良し!」
「まだ終わってないだろう……」
 まるで、シェラートが漏らした溜息をかき消すように、「わぁ!」という歓声が泉の近くから上がった。先程、フィシュアが歌っていた祭壇へと神官と巫女が立ち並ぶ。
「終わったわね」
 フィシュアがにやりと笑った。全てが終わった訳では無い。だが、とりあえず水初の儀は終わったのだ。
儀式の終わりを告げた大神官を村人たちは喜びに溢れた歓呼の声で迎える。これから人々は村に戻り宴が始まるのだ。
 ディクレットの話によると村総出の宴は一日中続く。その間は儀式の片付けも行われない。つまり、泉の傍にある祠に近寄る者は神官たちを含め誰一人としていないのだ。めでたく結ばれた水神と歌姫の初めての日をそっとしておこう、という配慮によるものらしい。
そして、その事実はフィシュアとシェラートにとって好都合なものだった。
次々と村へと引き返して行く村人たちを見送る。がやがやと騒々しい村人たちの歓喜は次第に遠くなり、ついには消えて完全に聞こえなくなった。
 
すっかり誰も居なくなってしまった泉には静けさだけが残る。
しばらく空を映した青の泉を見つめた後、フィシュアは勢いよく立ちあがった。
 
「それじゃあ、まあ、行きますかね。愛しき我が水神様の元へ」
 
言葉とは裏腹に濃く深い藍の目には鋭さが宿る。
純白の花嫁は一度ドレスをひるがえすと、ジン(魔人)と共に水神の待つ水の宮へと向かったのだった。
 
 
 

(c)aruhi 2008