ラピスラズリのかけら 4:シェラート 13 水神【1】

 

「ここ、なの……?」
 眼前に広がるのは何の変哲もない灰の岩壁。フィシュアとシェラートはひどく大きな岩の前、水神の祠のちょうど裏側にあたる部分に立っていた。
村人が去ってしまった後、シェラートは迷いなく祠の外へと回ると、壁のある一部を示した。しかし、そこは別段、周りの壁とはちっとも変わらないようにフィシュアには見えたのだ。
「ここだ。この向こうに水の宮がある」
「だけど、この向こうって特に何もなかったわよ?」
シェラートが手を付いているざらついた岩壁の向こうに何があるのかを祠の中に入ったフィシュアは知っている。あるのは少しばかりの空間と泉だけだ。とても、あの小さな場所が水神の住む場所とは思えないし、第一そこには水神などいなかった。
 しかし、フィシュアの疑問を感じ取ったらしいシェラートは「だろうな」と言って、話を続けた。
「別にここが祠の中と繋がっているわけじゃない。入口がここというだけで、繋がっている場所はまた別の場所にある」
「どういうこと?」
「まあ、簡単に言うと幻術みたいなものだな」
「ますます意味が分からないんだけど……」
「なら説明するより実際に行ってみた方が早いだろう」
 フィシュアは怪訝そうな表情を浮かべた。しかし、それには構わずシェラートはフィシュアの背を押して促す。
「え? ちょっと、何!? どうして押すの?」
「入らないと何も始まらないだろう」
「入らないと、ってここただの壁じゃない!」
「だから、入口があるって言ってるだろう」
「見えない!」
「俺には見える」
「ギャー! ちょっと待って! 壁にぶつかるって!!」
「だからぶつからないって」
 半ば呆れながらもそれでも力を緩めようとしないシェラートに押されたフィシュアの目の前にはすでに灰の岩壁が迫っていた。
 衝撃を避けようと突き出した両手には、しかし、衝撃どころか、壁に触れた感覚さえなかった。いつの間にか景色の変わってしまった場所に呆気を取られながらも、フィシュアが今自分の進んできた方向を振り返ると、青白く光る壁からシェラートの体が上半分だけ出てきているところだった。
「――なんて顔してるんだよ」
「いや、ちょっと今のは不気味だったわ……幽霊ってこんな感じなのかしら……?」
「は!?」
「……何でもないわ。――それよりこれ、一体どうなってるの?」
 フィシュアは青白い壁を触った。すべすべとした壁はどれも鍾乳石からできているようだ。しかし、そこには確かに固い感触がある。
 何度もぺたぺたと場所を変えては触り続けるフィシュアの手をシェラートは取った。
「そっちじゃない、こっちだ」
 新たに示された場所に手を付こうとしたフィシュアはバランスを崩した。だが、倒れそうになったすんでの所でシェラートが腕を引っ張ってくれた為、なんとかその場に踏み留まることはできた。
「危ないだろ」
「え、あ……ごめん」
 怒りよりも呆れの滲む苦言に謝りながらも、フィシュアは再び手を伸ばす。すると、壁に当たる直前で自分の腕の先が消えた。指を動かしてみると、確かに自分の手が存在しているのが分かる。しかし、目で自分の手を確認することはできなかった。腕の半分が壁の中へと入っていて、傍から見ると壁に手を取られて埋まったようなおかしな状態になっている。
「何これ? 壁を通り抜けてるの?」
「だから、そこに出入り口があるんだよ」
「だから、その説明じゃ分からないでしょう!? もう少し分かりやすく説明しなさいよ」
 シェラートは溜息をついた。彼の顔にはありありと面倒臭いと書いてあったが、フィシュアはそれを無視して無言で先を促した。
「フィシュアは祠の中に入ったことがあるだろう。中に比べて、外から見た方が祠の岩が大きく感じなかったか?」
「そう言われてみると、確かにそうかも……」
 岩の中心をくり抜いたような形をしている祠。中は十人入るのがやっとほどの空間しか開いていなかったが、岩自体は確かに大きい。岩全体を取り囲もうとすれば、恐らく両の手をいっぱいに広げた大人が三十人は必要だろう。岩の壁が厚いだけかと思っていたが、理由はそうではなかったらしい。
「つまり、祠のある部分とここは同じ岩の中にあっても別の部分なんだ」
「部屋のように岩の中で空間が二箇所に区切られているってこと?」
「まあ、そんな感じだ。実際は、こっち側……あの岩の大部分は後から付け加えられたものなんだろう。人に煩わされないようにと思ったのかどうか、そこら辺は良く分からないが……。で、こちらの岩の一部分に外へ出る為の出入り口を作った。それも人から見たら周りの岩壁と変わらないから、気付くことは無いだろう」
「危ないわね……誰か岩に寄りかかった瞬間にこっちに来ちゃったらどうするのよ」
 フィシュアの懸念に、しかし、シェラートは「いや」と首を振った。
「それは、まず無い。普通の人間にはここは通れないからな。寄りかかっても問題ないだろう」
「でも、私は通れたじゃない」
 首を傾げるフィシュアの胸元をシェラートは指差した。
「フィシュアはラピスラズリを持ってるだろう。これも魔法だからな。もし、岩壁のままだったらフィシュアがぶつかる……つまり、フィシュアにとって害になる。だから俺がわざわざ岩にかけられた魔法を崩さなくてもフィシュアなら通れると思ったんだ」
「――ちょっと、ぶつかってたらどうするのよ!」
「ぶつからなかったんだからいいじゃないか」
「よくないわよ!!」
 フィシュアは半眼して見せたが、シェラートは肩を竦めただけで、「まあ、行くか」と歩を進め始めた。
 
 
前に続くのは一本の道。外の光はどこからも差し込んでいなかったが、鍾乳石の壁自体が青白く光っているので暗くはない。これも魔法なのだろうか。その光はぼんやりとしたものなのでやはり陽の下と同じという訳にはいかない。だが、それでも歩を進めていく上では特に問題は無かった。
「ねえ、シェラート……祠の場所とは違うって言ってたけど、こっちはこっちで岩の大きさの割には広すぎない?」
 もう既に結構な距離を歩いている。けれど、いっこうに水の宮らしきものは見えてこない。もしも、この中が外で見た岩と同じ大きさならとっくの昔に岩を突き抜けてしまっているはずである。
「恐らく、もう地下に入ってるな。わずかではあるが進むごとに下ってるだろう。道自体が斜めになってる」
「そうなの?」
 全く気が付かなかった。今度は注意して歩いてみたが、フィシュアにはやはり平坦な道と変わらないように思える。首を傾げながら歩を進めていたフィシュアだったが、シェラートが急に立ち止まった為、自身も足を止めた。
「どうしたの?」
「ここが部屋の入口だ」
「この先じゃないの?」
 道はまだずっと先も続いている。この鍾乳洞の中へと入った時と同じように入口があったとして、果たして本当にそこが水の宮なのだろうか? そう思ったからこそフィシュアは尋ねたのだ。
 しかし、シェラートは一つ頷くと断言した。
「ここだ」
「その根拠は?」
「馬鹿みたいに魔力が漏れてる」
 嫌悪も顕わにそう言い捨てたシェラートにフィシュアは苦笑いを浮かべるしかなかった。
「何か本当に厳しすぎない? お願いだから中で暴走しないでよ」
「それはこっちの台詞だ。―――いいか、フィシュア。こっから先は俺より前に出るなよ?」
「どうして?」
「何の為かは知らないが、大河の水を根こそぎ無くすような考え無しだぞ? そんな奴が何するか分かったもんじゃないだろう」
「でも私ラピスラズリ持ってるし、別に大丈夫よ」
 余裕の笑みを浮かべながらフィシュアは首飾りに付いた深い藍の石を振ってみせる。けれど、シェラートは断固として譲らなかった。
「いいから、フィシュアは後ろにいろ。前に出られたら無茶された時に止めるのが遅くなる。頼むから仕事を増やさないでくれ」
「――そっちが本音ね……?」
「事実だろ」
 睨みつけてくる藍の目をシェラートは軽く無視した。
「返事は?」
「――分かったわよ」
 不本意ながらも承知したフィシュアを確認すると、シェラートは青白く光る壁へと手をかざした。そのまま壁の入口へと足を伸ばそうとした時、しかし、フィシュアの姿を振り返ったシェラートはぎょっとして足を止めた。
「――フィシュア……お前、何してるんだ……?」
「え?」
 呑気な声を出して聞き返した当のフィシュアは特に気にした風もなく純白の長い裾を片手で抱えて捲くし上げている。
「一応持っておこうと思って」
 そう言ってフィシュアがドレスの中から取り出したのは見事な装飾が施された宝剣だった。
「そんなの隠し持ってたのか……?」
「だって、自分の身は自分で守らなきゃ。水初(みそめ)の儀の時、殺されてから贄にされたんじゃたまんないでしょう? ディクレットさんはそんなことはないって言ってたけど……まあ、生贄の儀式には、そういう例もあるし念の為に足につけて持って来てたのよ」
 呆れた目で見降ろしてくる二つの翡翠にフィシュアはケラケラと笑った。
「武器を隠し持つ花嫁なんていないだろう……」
「あら、よくあることよ? 暗殺する時には有効な手段」
「どんな世界の花嫁だよ……」
「まあまあ、いいじゃない」
 今度はフィシュアがシェラートの背を押し、壁の入口へと促す。だが、フィシュアに入口が見えるはずもなく、危うく鍾乳石へと激突しそうになった所をシェラートは軌道修正して何とか部屋の中へと踏み込んだ。
 
 
 
 出た場所は人が一人しか通れないほどの細い通路。けれど、それもすぐ近くで終わっているようだ。前をシェラートが塞いでいるせいでフィシュアには部屋の様子を窺い知ることができない。しかし、天井を見て判断する限り、奥はかなり広いようだ。
 それに、この部屋の中には確かに何かの気配を感じる。
フィシュアがそう思った時、恐らくジン(魔人)であろう“何か”の低い声が鍾乳石の壁に反響した。
 
「どうやら、招かれざる客が来たようだな。成り上がりのジン(魔人)が私に何のようだ?」
 
 嘲りを微塵も隠そうとしない低い声。
 それをもって、水の宮の主は客を迎え入れたのだ。
 
 
 
 

(c)aruhi 2008