シェラートの前に立つのは一人のジン(魔人)。
まるで星の光を落としたかのような白銀の髪は腰元までさらさらと流れる。同じく銀で、しかし、冴えわたる泉のような蒼をも宿した双眸は今、冷ややかなる侮蔑を持ってシェラートへと向けられていた。
一方、シェラートの方も水神と崇められるジン(魔人)に対しての嫌悪感を拭い去ることなどできなかった。目の前に居るのは紛れもなくテトを苦しませた原因をつくった張本人なのだ。渦巻き、溢れ出しそうになる怒りをシェラートは目を細めて睨むにとどめ、何とか押し込めた。
「話がある。雨を降らせないようにしたり、ペルソワーム河の水を消したのはお前だろう。それを元通りして欲しいんだ」
だが、シェラートの要求に、水神は「はっ」と一笑すると嘲りを浮かべた。
「なぜお前ごときの望みを私が叶えてやらねばならん? さっさと出て行くがよい、汚らわしいものよ」
シェラートは肩を竦めた。侮蔑の言葉に対しては別段不快感はないが、シェラートにとっても水神との会話は楽しいものではないのだ。できれば早く終わらせてしまいたいというのが本音だった。
「元通りにしてくれればこんな場所喜んで出て行く。さっさとしろ。こっちだって暇じゃない」
溜息と共にシェラートはそう吐き出した。
「ちょっと、シェラート」
急に服を引っ張られて、シェラートは後ろを振り返った。見ると、今立っている道が狭いせいで前へと出ることの叶わないフィシュアは半ば呆れたように眉を寄せていた。
「あのジン(魔人)が失礼なのは私だって充分承知してるけど、頼んでる身でその言い方はいくら何でもひどいんじゃない?」
「けどなー……」
シェラートは嘆息をしながら億劫そうにジン(魔人)の方を見やった。
「あれじゃ埒が明かないだろ……聞く耳を持つつもりは全くないようだし。―――それに、もう遅い」
「!?」
やはりシェラートの後ろに居るフィシュアには見えなかったが、水神は目に見えて怒り始めていたのだ。銀糸の髪は怒りで溢れ出た魔力によって宙に浮かんで揺らめいている。綺麗に整っていたはずの顔は見事に歪んでいた。
「ジン(魔人)になったばかりの小僧の分際で私にたてつく気か!」
「別にたてついているつもりはないが……要求を呑む意思が無いなら、無理矢理にでも呑んでもらおうか」
シェラートは口の端を上げる。
「お前は知っているんだろう? 俺がどうやってジン(魔人)になったのか。それなら、俺の力が誰から与えられたものかも知っているはずだよな?」
翡翠の双眸に射竦められた水神は思わず一歩下がった。しかし、怯んでしまったという事実に水神は忌々しげに舌打ちをするとすぐに両の手に魔力を込め始めた。作り出される魔力はみるみるうちに水神の手の中で渦を巻きながら威力を増し、膨張していく。
「成り上がりのジン(魔人)ごときが私に敵うものか!!」
その言葉と共に放たれた魔力の籠った渦は真っ直ぐにシェラートの方へ向かった。
大木に青々と生い茂る枝葉と同じくらいの大きさとなった魔力の渦にシェラートはぴくりと眉を動かす。
しかし、シェラートが何とも煩わしげに片手で軽く払った次の瞬間、向かって来ていた強大な渦は跡形もなく消えた。
「終わりか?」
何が起きたのか、まるで信じられないといった様子で呆然と立ち尽くしている水神をシェラートは一瞥する。けれども、何も答えようとしない水神の無言を肯定と取ると、シェラートは上げていた片手をそのまま下へと下ろした。途端、ベタンという派手な音を立てて水神は床へと張り付いた。
「―――な、何をする!?」
屈辱で顔を赤くしている水神に向かってシェラートは面倒だとでも言うように溜息を落とした。
「おとなしく聞いてくれそうにはないからな。だが、これで、お前は逃げられもしないだろう」
自分の方へと歩み寄ってくるシェラートに、水神は今度こそ恐怖で顔を青くさせた。
水神の前に立ったシェラートは腕を組んで、床に張り付いている水の宮の主を見下ろす。
「こちらの要件を聞いてもらおうか」
有無を許さぬ声に、水神は唇を噛み締めながらもただ頷くしかなかったのだ。
ようやく部屋の様子を見ることができるようになったフィシュアが初めに目にしたのは顔を赤と青でまだらに染め上げ、床に這いつくばっている一人のジン(魔人)の姿だった。
「シェラートって強かったのね……」
半ば感心したように呟かれたフィシュアの言葉に対し、けれど、シェラートは首を振った。
「いや、ただこいつが弱すぎるだけだろう」
「何だと!? 大体私にはヘダールというれっきとした名前が―――」
だが、言葉を繋げようとした水神は奇妙な声を上げて、再びビタンと床へと張り付いた。
確かにシェラートが手を動かしていたのを見てしまったフィシュアは苦笑いを浮かべる。
「いくらなんでもやりすぎでしょう……テトのことで怒ってるのは分かってるけど」
フィシュアは水神に近寄ると、膝をついて腰を下ろした。
「大丈夫ですか? えっと……ヘダールさん」
「そんなのに敬称をつけなくてもいいだろう」
なおも不機嫌そうな声を出すシェラートをフィシュアは見上げる。
「とりあえず、起こしてあげたら? これだけ力の差があれば逃げ出したりはしないでしょう。大体これじゃちゃんと話もできないじゃない」
シェラートが片手を上げる。と、同時にヘダールはまるで糸で引っ張られた操り人形のように不自然に体を起こした。
「―――シェラート……」
シェラートが溜息を付く。
「分かったよ」
ようやく戒めを解かれたヘダールは息を付いた。冴えた泉の瞳でシェラートを睨み上げてみるも、結局反対に翡翠の双眸に一蹴されて慌てて床へと目をそらした。
「あの、ヘダールさん、別に私達何もしませんから。話を聞いてもらいたくて来たんです」
頭上から降って来た声にヘダールは顔を上げた。まるで、初めてフィシュアの存在に気付いたとでもいうようにヘダールは目の前の女を凝視する。
「お主、さっき泉で歌っていた者か?」
「ええ、そうだけど……」
ヘダールはフィシュアの答えに満足したように頷いた。フィシュアの姿を上から下へと眺める。
「純白の衣。お主は花嫁だな?」
「まあ、そういうことになってるわね……」
フィシュアは曖昧な笑みを浮かべた。だが、ヘダールはそんなことには気が付かなかったようだ。フィシュアの琥珀に近い薄茶の髪を一房手に取るとサラリと流した。
「髪も美しい。声も綺麗だ。良い。私の妻として迎え入れてやろう」
「は!?」
水神は秀麗な顔に笑みを刻んだ。
絶句しているフィシュアの顎へと手を掛ける。
「―――そいつも体外物好きだな……」
溜息と共に零された言葉にフィシュアはキッとシェラートを睨んだ。
「ちょっと、シェラート! 反応が間違ってるでしょう、反応が! 呆れてないで少しは助けようとしなさいよね!!」
「助けるとしたらフィシュアの方じゃなくてヘダールの方だろう。いい加減切っ先をどけてやれよ。固まってる」
フィシュアはいまだシェラートを睨み上げながらも、ヘダールの首にピタリと付けていた切っ先を外した。カチリという音と共に宝剣を鞘へと戻す。
次いで、ヘダールの方へと向き直ったフィシュアは彼に、にこりと微笑んでみせた。
けれど、皮肉を込めた笑みはヘダールには全く通じなかったようだ。強張っていた体をほどいたヘダールは嬉しそうに一つ頷くとフィシュアの腕を掴んで自分の元へと引き寄せたのだ。
「愛い奴じゃ。照れておったのか」
フィシュアの髪の中へと顔を埋める水神にシェラートは嘆息した。
「――――だから、前に出るなって言っただろう」
「悪かったわよ……」
シェラートによってヘダールの腕の中から転移させられたフィシュアは呆れた目で水神を見下ろす。
ヘダールの方も急に消えた花嫁がシェラートの後ろに立っていることに気付いてこちらを睨み見据えていた。
「小僧、何をするのだ! その娘は私の花嫁だぞ!」
まだ的外れなことを言っているヘダールへとフィシュアはもはや憐れみに近い目を送り、隣に立つシェラートを見た。
「こいつ……馬鹿なの?」
「だから馬鹿だとも言っておいただろう」
「何だと!? 成り上がりのジン(魔人)め―――ぐぇっ……!」
再度、蛙が潰れたような奇妙な声を上げて床へと張り付いた水神を今度はフィシュアも助けようとは思わなかった。
「じゃあ、まず消したペルソワーム河の水を戻して、ガンジアル地方に元のように雨が降るようにしてもらいましょうか?」
フィシュアは部屋の中にあった椅子に腰掛けるとそう問うた。問われたヘダールはというとやはりこちらも椅子に座っていた。しかしそれはシェラートによって不可視の糸に拘束されている状態はあったのだが。
抵抗しても無駄であるとようやく理解したらしいヘダールは渋々ながらも口を開いた。
「……それは無理だ」
「無理なわけないだろう?」
シェラートとフィシュアに同時に睨まれたヘダールはもう一度「無理だ」と繰り返すと、眉尻を下げながらぽつりと零した。
「そんなことしたら彼女に嫌われてしまう……」
「は!?」
「彼女が大きくて豪華な浴場が欲しいと言っていたんだ。だから、河の水や地上に降る前の雨を集めて大浴場を作って贈ったんだよ。そうしたら彼女は喜んでくれるだろう? これで少しは私の方へ振り向いてくれると思ったんだ。それなのに水を元に戻してしまったら大浴場が無くなってしまうではないか。せっかく喜んでもらえていたのに私は彼女に嫌われてしまうではないか!」
何とも阿呆らしい理由をまくしたてたヘダールにフィシュアは文字通り頭を抱えた。たったそれだけの為に迷惑をした人間がどれほどいると思っているのだ。
「それだけ大量の水を使うのなら、どうして泉の水だけは使わなかったのよ?」
呆れを含んだフィシュアの問いに、ヘダールはポッと頬を赤らめた。
「あの泉は……彼女が綺麗だと言ってくれた場所なんだ。私が彼女に初めて出逢った場所なんだよ」
フィシュアはもう二の句を継ぐことなどできなかった。横で腕を組んで立っているシェラートの方も怒りよりも呆れの方が凌駕してしまったようだ。
「で? その彼女っていうのは一体誰なんだ?」
「彼女に何をする気だ!?」
「――別に何もしない。水を戻してくれるように頼むだけだ。いいから、名前を教えろ」
抵抗するかのように固く口を閉ざしたヘダールだったが、結局シェラートによって無理矢理こじ開けられることになった。
「あががががが―――――!!」
口を大きく開いたまま変な声を出し続けているヘダールに対して、もはや同情の余地などなかったが、フィシュアは嘆息すると仕方なく彼に助け船を出してやることにした。
「シェラート……それじゃ話せないでしょう……?」
実際このままだとヘダールが名を口にしていたとしても、それを聞き取ることは不可能なのだ。シェラートもそのことに気付いたらしく、手を振って魔法を止めた。
涙目のヘダールは痛む顎を擦りながら呟いた。
「――ヴィエッダ……様です……」
しかし、ようやく告げられた名にシェラートは眉根に深く皺を刻んだ。
「ヴィエッダ?」
ヘダールが何とも情けない顔でこくりと頷く。
「よりによってあいつか……」
呻くように吐き出された言葉にフィシュアは首を傾げた。
「知ってるの?」
「知ってるも何も……できるなら絶対に会いたくない……」
そう言ったシェラートの顔には何とも嫌そうな表情が浮かぶ。深く深く諦めの溜息を吐き出すと、シェラートは出口へと向かうことにした。当然フィシュアもその後を追う。
残されたのはただ一人。
「ちょっと待て! これをほどいてから、私も連れて行け!!」
椅子に縛り付けられたまま放置されてしまったヘダールの叫びは、水の宮の中ひどく哀れにこだますることとなった。
(c)aruhi 2008