ラピスラズリのかけら 4:シェラート 15 ヴィエッダ【1】

 

「―――ちょっと、シェラート! ヴィエッダ、さん……だっけ? 居場所聞いてきてないけど大丈夫なの?」
 後ろから掛けられた声にシェラートは足を止めて、フィシュアの方へと振り返った。
「ああ、ヴィエッダの居場所なら分かる。だから、転移もできる。行きたくはないけどな……」
 気を抜けばまた漏れそうになる嘆息をシェラートは何とか嚥下させた。
「ヴィエッダさんって女の人よね。ジン(魔人)なの? それともジーニー(魔神)?」
「ジーニー(魔神)だな」
そっか、と頷き、咀嚼しているフィシュアの口元に笑みが浮かぶ。それが、どこかで見たものと重なってシェラートは眉をひそめた。
「フィシュア、嬉しそうだな……」
 いや、楽しそうと言った方が的確だったかもしれない。「え?」と呟きながら上げられた顔には、にやにやという意地の悪い笑みに近いものがあった。
「だって、私、ジーニー(魔神)ってまだ会ったことないもの。しかも、女性のジーニー(魔神)なんでしょう? 今まで一度も聞いたことないわ。それに……」
 一度言葉を切ったフィシュアの藍の瞳が好奇心できらりと光ったようにシェラートは見えた。案の定、薄気味の悪い笑みを湛えたまま、フィシュアが口にしたのはこの間と似たような内容だった。
「それに、シェラート、テトの村に居た時も言ってたでしょう? できればもう会いたくないって。それって、今回のヴィエッダさんと同じジーニー(魔神)よね? 一体何があったの? もしかして元恋人?」
「フィシュア……その笑いやめろ。気持ち悪い」
「失礼な!」
 ムッとしながらも、好奇の輝きを失わない藍の瞳に、呑みこんだはずの溜息が零れる。
「何? そんなに嫌いなの?」
「嫌いというか、苦手だな」
「苦手ねー……」
 シェラートは最後に諦めの溜息を洩した。
「まあ、今回は仕方がない。本当にあの馬鹿のせいで……」
「ああ、あれはね……」
 苦笑いを浮かべたフィシュアへとシェラートは手を伸ばした。不意に目の前に差し出された手にフィシュアが首を傾げながらシェラートを見上げる。
「手」
「ああ、そっか。転移ね。転移なら転移っててちゃんと説明してくれないと“手”だけじゃ分からないでしょう?」
 端的な言葉に文句を言いながらもフィシュアは自分の手をシェラートの手の上へと重ねたのだ。
 
 
 
 辿り着いたのは、さわさわと鳴る葉擦れと小鳥のさえずりが曲を奏でるだけの静かな森の中。周りに人が住んでいる様子は微塵もない。わずかな木漏れ日が差す、うっそうと茂る木々の下を通り抜け、斜面にぽっかりと空いた洞窟へとシェラートは迷わずに足を向けた。
 そういえば、ヘダールの住処も洞窟の中に作られた場所だった。そう思ったフィシュアは前を行くシェラートに自分の疑問を投げかけてみることにした。
「ねえ、シェラート。ジン(魔人)やジーニー(魔神)って普通、洞窟に住んでるの?」
 焦げ茶の石でできている洞窟は壁に声が反響する。シェラートは特に振り返ることもせず、奥へと足を進めながら口を開いた。
「いや、別にそういう訳じゃない。どちらかと言うと街に住んでる奴の方が多いんじゃないか?」
「ああ、そういえば前にそんなことも言ってたわね……」
 普通に街を歩いていると聞いて、ひどく驚いたことをフィシュアは思い出した。
「魔法が使えるって言っても街に居た方が色々と便利だしな。食料とかも揃ってるだろう?」
「何か意外と所帯じみてるのね……」
「まあ、だからヴィエッダやヘダールなんかは、かなり変わってるってことだ」
 
「おや、シェラ坊。やっと来たと思ったら随分なこと言ってくれるじゃない」
 
 突然、洞窟の中を進んでいた二人の真横から響いたのは艶のある女の声。
 ただのごつごつとした岩壁だったはずの場所に、いつの間にか降りていた薄い紗のカーテンを真白な手がさらりと上げる。続いて覗いた女の姿にフィシュアは驚きつつも、一つの確信の下、気がつけば彼女への問いが口をついて出ていた。
「ヴィエッダ……さん?」
「そう。初めまして、ね」
 まるで全て計算されつくしているかのように綺麗に上げられた口角。色濃く引かれた朱の紅は常人ならば、けばけばしく見えるほどのものだろう。けれど、ヴィエッダの場合はそれが却って彼女の妖艶さをさらに増させ、引き出していた。ゆるく結い上げられた髪からは幾筋かの亜麻色の線が落ちて流れる。ただ一つ、艶美さの中に、威圧を宿す金の双眸に射られたフィシュアは無意識の内に緊張で体をこわばらせた。
 
「ヴィエッダ……あんまり、威嚇するな」
 腕を引いてフィシュアを自身の後ろに隠し、間に割って入ってきたシェラートへと視線を向けながらヴィエッダはコロコロと笑いだした。
「あら、別に威嚇なんてしてないのに。ただ品定めをしていただけよ。それで? シェラ坊」
 ヴィエッダは、今はシェラートの陰で隠れてしまって、ほんの少ししか見えないフィシュアをちらと見やった。
「その娘がシェラ坊の愛しい娘かい?」
「は!?」
「いいわよ。合格。なかなか可愛いわ。いつ来るか、いつ来るかって思ってたんだけど遅かったからねぇ。これでも一応心配はしていたんだよ。だって、ランジュールが死んでからもう190年ほど経つじゃないか」
 ヴィレッダは形の整った笑みを刻んだまま、つっと目を細めた。
「―――それにしても……シェラ坊はやっぱりランジュールと似てるところがあるようだね。その娘、アジカの面影がある。ねえ、もう一度、よく顔を見せてくれないかい?」
「ちょっと、待て! ―――というか、話を聞けよ!」
 一歩踏み出したヴィエッダの方へとシェラートもまた、歩を進め、ヴィエッダの行く手を遮り、押し留めた。
「―――ああっ! ……と、分かったシェラ坊、ストップ」
 両手を前に掲げて制止させながら、ヴィエッダは元の位置へと一歩下がる。
「シェラ坊に魔法を使われちゃ困るからね。いくら私でも敵わない」
 そう言いながらも、ヴィエッダはなおも名残り惜しそうにシェラートの後ろで揺れる琥珀に近い薄茶の髪へと目を向ける。
 しかし、シェラートの手に構成されかけていた魔法にもう一度目をやると不服そうに口を尖らせた。
「その娘が大切なのは分かるけどさぁ……別にいいじゃないか、見るくらい。なにも、危害を加えるって言ってるわけじゃないんだし」
「だから、話を聞けって言ってるだろう!? 大体フィシュアはそんなんじゃない。……これだから嫌だったんだよ、ヴィエッダの所に来るのは……」
 本題に入る前からどっとした疲れを感じているシェラートに対して、ヴィエッダは懲りた様子もなく続けた。
「あら、だって、花嫁衣装着てるじゃない。結婚の報告にでも来たんじゃないのかい?」
「―――違うって……」
「つまらないわねぇ」
「もう、いいから、話を聞いてくれ……」
 ヴィエッダは「仕方がないわね」と肩を竦めると、シェラートの方を指差した。
「もう、いいと言えば、そっちもそろそろ、いいんじゃないかい? もう慣れた頃だろう? 元々、私は手を出すつもりはないし、何なら誓ってあげてもいい」
「―――ああ、そうだな」
 壁の方へ退いたシェラートの後ろから、ようやく現れたフィシュアにヴィエッダが笑みを向ける。
「フィシュアちゃんか……やっぱり、どことなくアジカに似てるわねぇ……可愛い、可愛い」
 腰を屈めて覗き込んでくるヴィエッダに、なんと返せばいいのか分からず、フィシュアはただ金色に光る双眸を見据えた。その瞳には先程までの威というよりは、懐かしさの方が色濃く滲む。
 ヴィエッダはまるで感慨を振り払うかのように、ふっと笑うと上体を起こし、揺れる紗のカーテンを片手で上げた。
「いらっしゃいな。どうせ、面倒な話なんだろう? お茶の一杯くらいは出してあげるから、中で座って話を聞こうじゃないか」
 
 
 
 

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