ラピスラズリのかけら 夜伽話のその先に 7

 

 サーシャは住み慣れた我が家へと足を踏み入れた。
窓の外に見えるのは見慣れた光景。昼間の都は大勢の人々が行き交う。
流れる空気もやはりカーマイル王国の香りとは違う。香辛料を含んだ鼻にツンとくる独特の匂いだ。
せっかく帰ってきたのだから、すぐにでも皆に会いたいと思う。そして、ガジェンに早く謝ってしまおうと。
 けれど、やはり気恥かしいもので、サーシャは足音を立てないよう宙に浮かび上がり、そろりそろりと居間へと向かった。
 取手をひねり、半分だけ顔を出す。
「あれ……?」
 サーシャは勢いよく扉を全開にした。居間に入ってもう一度よく確かめる。
 けれど、やはり先程と変らず、そこには誰もいなかった。
 二階から響く声もなければ、足音すらない。
「今日って学校だったけ?」
 首を傾げたサーシャは、しかし、すぐに自分の考えに首を振った。
 それはない。今日は週末で、休日。学校も休みだ。
第一、アズーとクィーナは学校に通っているが、シタンはまだ通えない。家にいるはずだった。
「昼寝でもしてるのかな?」
 階段を上がり、アズー、クィーナの部屋を順に叩いて開いて見るが、やはり部屋の主はいない。三人は最近よくシタンの部屋に集まっている。最後の望みをかけてサーシャは末の息子の扉を叩いた。けれど、いつも響く少し高めの声がしない。開けてみてもそこには玩具で少し散らばった部屋が静かに横たわるだけだった。
 一体自分がいない間に何があったのか? 嫌な予感が頭をかすめ、サーシャはギュッと目を閉じた。
些細なことで出ていくのではなかった。後悔が胸に押し寄せ、思わず涙が零れそうになるが、慰めてくれるはずの温かな手もここにはない。
 途方に暮れたサーシャがシタンの部屋で立ち尽くしている時、階下で扉を開く大きな音がした。
 サーシャは階段を降りるのももどかしく、玄関へと転移する。
 だが、そこには誰もいない。
 サーシャが訝しさに眉を寄せた時、後方の居間に続く扉が開かれた。
「あ、サーシャここに居たのね」
「師匠!?」
 先程まで共に茶を飲み、けれども、絶対にダランズール帝国には行かないと宣言していたばかりのソラリアの登場にサーシャは驚いて目を瞠った。
「どうしてここに?」
 ソラリアは多少の困惑を浮かべて苦笑する。
「いや、来るつもりなんてなかったんだけどね……ちょっとまあ、事情があって……」
 そう言って、退いたソラリアの後ろには小奇麗な服に身を包んだ一人の男が立っていた。
 なんだか、見覚えのあるその姿にサーシャの顔が引きつる。
「また、お前らか……」
「すみません。魔女殿がお忙しいのは充分承知しているのですが、何分こちらも急用なもので……」
 サーシャが溜息をつくと、何とも間の悪いカーマイル王城からの使者はビクリと体を震わせた。
「それで、用件は?」
「―――そ、それが、沖に海賊たちが現れたのです。城の軍隊では全く歯が立たず、どうしようもなくなりまして魔女殿に討伐のお願いに参りました」
 王まで砦に押し掛け、泣きついてきた日々を思い出す。何度断っても毎朝やって来ては、扉を叩く音で起こされていたのだ。また同じことをされたらたまらない。なによりも、今はガジェン達を探しに行くという他にやるべきことがあるのだ。さっさと終わらせてしまって、早くそちらに取り掛かりたい。
「分かった」
 サーシャは使者を一睨みしつつも頷くと、次の瞬間にはカーマイル王国の海上へと向かった。
 
 
 
 
「――――って、こっちもか!!」
 紺碧の海に浮かぶのは一艘の船。
 乗っているのはどこかガラの悪い男たち。
 そして、求めていた二つの青の瞳の持ち主。
 ガジェンはニヤリと笑ってサーシャへと手を上げた。
「久しぶりだな、サーシャ。迎えに来たぞ?」
「迎えに来たって……わざわざカーマイル王国軍を壊滅させるな!」
「いやぁ、だってなんか向かってきたから、久しぶりに腕鳴らしでもするかと思って」
 悪びれもなく周りの男たちへと同意を求めたガジェンに、サーシャは脱力しすぎて危うく海へと落ちそうになった。
「おい、大丈夫か?」
「一体誰のせいだと思って、って――――――!?」
 言い終わらない内にサーシャの体がぐらりと傾き落下し始めた。
 見事、東の国の魔女を己の手中に収めた男は嬉しそうに笑う。
「ガジェン……お前、またラピスラズリ使っただろう……?」
 呆れた声を出したサーシャに、ガジェンは声を立てて笑う。
「やっぱり、いいな。この感覚」
「良くない! いちいち網で絡め捕られるこっちの身にもなってみろ!」
「最新作だぞ?」
「全然嬉しくない!」
 網に絡まったままガジェンに抱きしめられているサーシャを見ながら回りの男たちも満足そうに頷いた。
「いやあ、ホント久しぶりだよな」
「あの網がサーシャさんに掛かるか掛からないかってとこが、落ちるか落ちないかってとこがいいんだよな。腕がなる」
「ああ、まだまだ俺らの腕は落ちてないとみた」
「網で人を落とす腕があっても意味がないだろうが!!」
 怒鳴りつけてくるサーシャに男たちはニタニタと笑みを浮かべる。
「あー! もうっ、て――――ガジェンこんなことをしてる場合じゃないんだ!」
 サーシャは未だに離してくれそうにないガジェンの襟首を掴むとそのままガクガクと揺らした。
 血相を変えて必死にしがみつくサーシャに、さすがのガジェンも眉根を寄せる。
「―――何があった?」
「アズー達が家のどこにもいない……」
 サーシャは今にも泣き出しそうな表情でガジェンを見上げた。しかし、それとは対照的にガジェンはむしろいとおしむように目を細めるとなお一層サーシャの体を抱きしめた。ふわりと香る豊かな黒髪を撫でながらくつくつと笑う。
「サーシャ、家まで来るとは、そんなに寂しかったのか?」
「だーーーーー! 今はそんな話してる場合じゃないだろ!!」
「大丈夫だ。みんなここに居る」
 緩められた腕に、サーシャは驚いてガジェンを見た。海よりも鮮やかな青がサーシャを促す。
 サーシャが目を向けた方向、甲板の後方には確かに三人の子供たちが並んでいた。
「アズー! クィーナ! シタン!」
 母に呼びかけられた子供たちは揃って手を振った。
「良かった、無事だったのね」
 安堵の溜息をつくサーシャに子供たち三人は走り寄ると口を開いた。
「もう、母さん。本当に大変だったんだからな。父さんは酒場に行ったかと思ったら、おじさん達を大勢引き連れて帰ってきて、よく説明もしないうちにカーマイル王国に行くとか言いだすし」
「夜になれば母さんは帰ってくるからって聞いても全く聞かないんだよ!? ほんっと信じられない! しかも、そのまますぐ行くとか言うから、何にも用意しないで慌ててついて来たのよ?」
「卵焼きも作ってくれないしー」
「おい……!」
 サーシャの姿を見るなり父への文句を並び立て始めた子供たちにガジェンは顔をしかめた。
「―――というか、サーシャが夜戻るなんてこと言ってたか、クィーナ?」
「言ってたわよ! 本当に何にも聞いてないんだから!」
 呆れた声を出す娘に、サーシャはケラケラと笑う。
 サーシャを下ろし、網を外してやったガジェンは愛しい妻の頬へと口付けた。
「悪かったな……けど、あんなに怒ることないだろう」
「ずっと思ってたのに遠慮して何も言わなかったことに腹が立ったんだ。だってもう八年も一緒に居るんだぞ? 出会ってからは十年だ」
 苦笑しながら言ったサーシャにガジェンは溜息を付いた。
「別に遠慮してたわけじゃないんだがな。でも、まあ、今度からは気を付ける」
 肩を竦めたガジェンの耳元へとふわりと浮かびあがると、サーシャもまた「ごめん」と謝ったのだった。
 
 こうして、サーシャとガジェンによる一週間にも渡る夫婦喧嘩はようやく幕を閉じたのだ。
 
 
 翌朝の朝食にはシタンの希望でやはり卵焼きも含まれていた。
「あれ?」
 卵焼きを一つ口にしたガジェンは首を傾げる。
「なんか、これしょっぱいぞ?」
 ガジェンの不思議そうな視線を受け、サーシャは満足そうに頷いた。
「そう、ガジェンのだけ塩辛くしてみたんだ」
「俺のだけ砂糖じゃなく塩にしたのか?」
 驚くガジェンに、しかし、サーシャはあっさりと首を横に振った。
「いや、入ってるのは他のと同じ砂糖だ。ただガジェンのだけ魔法で塩辛くしてみた」
「何だそれ、あんまり嬉しくないな……」
「いいじゃない、要望通り塩辛いんだから」
 そう言って平然とスープを口に運びだしたサーシャの前にある皿へ、ガジェンは手を伸ばすと一つ摘まんでパクリと食べた。
「ちょっと……人の卵焼きを食べるなよ」
 呆れたような声を出したサーシャをよそに、ガジェンは自身の指をぺろりと舐めると言った。
「やっぱり、甘い方がいい。何かそっちの方が朝が来たって感じがするからな」
 カラカラと笑う父に、「それじゃあ今までの苦労は一体何だったのだ」と子供たち三人が朝から深い溜息をつくはめになったのは、言うまでもないだろう。
 
 
 
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