ラピスラズリのかけら 4:シェラート 16 ヴィエッダ【2】

 

 フィシュアとシェラートを部屋へと通したヴィエッダは早速茶を淹れ始めた。コポコポという小さな音と共に、豪奢な部屋の中、ふわりと湯気が立ち上る。
 固すぎず、かといって柔らかすぎるわけでもない適度な硬さの長椅子に腰かけながら、フィシュアは広い部屋の中を見渡した。調度品が多く並んでいるというわけではない。だが、ヴィエッダの部屋にある物はどれも煌びやかだった。しかし、それも彼女と同様、度が過ぎてはいず、しっくりと馴染んでいる。
 差し出された茶を手に取ったフィシュアは、ヴィエッダの瞳と同じ金に輝く液体に目を落とした。
「大丈夫だ、毒は入ってない」
「……そんな失礼なこと思ってないわよ」
 ただ珍しい色だと思っただけだ。フィシュアが隣に座るジン(魔人)を見るとシェラートは「そうか」とだけ呟いて茶を一口飲んだ。フィシュアもシェラートにならって茶を口にする。
 炒ったような香ばしさが口の中でふわりと広がる。見た目同様フィシュアにとっては初めて口にする味だった。
カップを置き、一息ついたところで、シェラートに注視されていることに気付いたフィシュアは怪訝さに眉を寄せた。
「別に何ともないか?」
 シェラートの言葉にフィシュアはギョッとして、もう一度カップの中で煌く金色の茶を覗き込んだ。
「―――何か入ってたの?」
「いや、何でもないならいいんだ」
「ちょっと、気になるじゃない!」
 一体何が入っているのだ、とフィシュアが思いっきり眉を寄せたのを見て、向かいに座っていたヴィエッダがコロコロと笑いだした。
「何と言うか……シェラ坊は相変わらずだねぇ。大丈夫よ、フィシュアちゃん。別に何も入ってなんかいないから」
 けれど、ヴィエッダの妖艶な笑みに“何も入っていない”という確信を見出す事の出来なかったフィシュアは苦笑いを浮かべながら、これ以上茶を口にするのをやめておくことにしたのだ。
 
「それで、話っていうのは?」
 自身のカップにも茶を注いでから、ヴィエッダはゆったりと背にもたれて足を組んだ。ただ、くつろぐように腰掛けているだけにもかかわらずヴィエッダは堂々とした存在感を放つ。その存在の大きさは、彼女を始点に部屋が構成されているかのような錯覚さえおこさせた。
朱の引かれた唇に弧を描きながら、この部屋の女主人はカップを上げて話を促した。
「ヘダールってジン(魔人)に浴場を貰ったんだろう? その水を返してほしいんだ」
「ああ、あの子ねぇ。でも、私はあの浴場を結構気に入ってるんだよ。手放すのは惜しいわ」
「けれど、そのせいでペルソワーム河の水が消えて、雨も降らないんです。だから―――」
「知ってるわ」
 ヴィエッダは大して気にした風でもなく、あっさりとそう言い放つと持っていた茶を口にした。
「知ってたわよ? 浴場の湯となる水がペルソワーム河と雨雲から集められた水だってことはね。それに、常に湧き出ている浴場の湯がどこへ流れて行くのかも知ってる。下流のペルソワーム河に別段変化はないだろう? だって、ペルソワーム河の水はいつもと違う場所を経由して流れているにすぎないんだからね」
 なぜ皇都から河の水量が減ったという報告が入らなかったのか。元より、消えた水はペルソワーム河に戻されていたのだ。それなら、皇都に流れ込むペルソワーム河の水量が変わるはずもない。ようやく解決した怪奇に、けれども、フィシュアは手放しで喜べるはずも無かった。
 知っててなぜ、何もしなかったのか? そのせいで引き起こされる問題は容易に想像できたはずである。
しかし、フィシュアの頭に掠めた疑問を読み取ったらしいヴィエッダはなんとも面白そうな笑みをその口に刻んだ。
「だけど、人間が困っていたとしても、私には関係のないことだろう?」
 ヴィエッダの手を離れ、テーブルの上に置かれたカップがカチャリと音を立てた。
「ひどい、と思ったかい?」
 黙り込んでしまったフィシュアに対して、ヴィエッダは続ける。
「そう思ってなかったとしても不愉快には感じているのだろう? でもね、フィシュアちゃん。もし、道で蟻の群れが右往左往してるからって、その原因となっている巣の上の石をわざわざどけてあげようとは思わないだろう? 違うかい?」
 フィシュアは自然と眉間に皺を寄せてしまう。ヴィエッダの言葉に対して無意識に湧き上がってきた不快感は、意識してでしか拭い去ることのできないものだった。
 相対するフィシュアの様子に気付いたヴィエッダは、ただ、肩を竦める。
「まぁ、これは極論だけど。……そうねぇ、もっと良く言うとするなら、名も知らないジーニー(魔神)が困ってるって聞いたからってフィシュアちゃんは助けに行こうなんてこと思わないだろう? もし、それがシェラ坊のことだったら気に掛けるかもしれないけれど、他のジン(魔人)やジーニー(魔神)だった場合なんかは気にも掛けないはずだよ。私の場合もそれと同じこと。親しい人間がいたなら助けようと思ったかもしれないけれど、今回の場合は興味の対象ですらないわね」
 ヴィエッダの言っていることは正しいのだろう。それに、フィシュア自身もテトの母の死に対して確かに同じようなことを思ってしまったことがあったのだ。
だからこそ、フィシュアはヴィエッダに反論することなどできるはずも無かった。
 ヴィエッダは己の太腿に立て肘をつき、手の上に自分の顎を載せると、まるで見極めるかのように金の双眸でフィシュアを見据えた。時間にしては数秒のことだったに違いない。けれど、フィシュアにとってはその時間が何倍にも感じられた。初めてヴィエッダと対した時のように、再び緊張しだし、自分の体が固まり始めたことにフィシュアは気付いていた。
 
「ヴィエッダ……」
 シェラートに諌められたヴィエッダは「分かってるって」と言いながら、両手を挙げた。だが、視線だけはフィシュアからそらさぬまま、形よく口の端を上げる。
「そうねぇ、私フィシュアちゃんのこと割と好きだから要求を聞いてあげてもいいわよ? でも、そのかわり、ちゃんと対価は払ってもらうからね」
「私にできることなら何でも」
 揺らがぬ意志を秘めた藍の瞳。一瞬の迷いも見せず、すぐに返って来たフィシュアの答えに、ヴィエッダは満足そうに笑うと立ち上がった。
「それなら、フィシュアちゃん、行きましょうか?」
 首を傾げるヴィエッダに促されて、フィシュアは無言で席を立つ。
「おっと、シェラ坊は来ちゃだめだからね。フィシュアちゃんで着せかえして遊ぶんだから」
 しかめられたシェラートの顔に向かってヴィエッダは手を振った。
「大丈夫だって、何もしないから。ただ、フィシュアちゃんは可愛いから、きっとアジカの服がよく似合うと思うのよねぇ。実は、さっきから着せてみたくってうずうずしてたんだよ。残念だけど私にはどうしても似合わないからねぇ。
 それにねぇ、これは代価なんだよ? フィシュアちゃん貸してくれないって言うなら、水を返してあげたりはしないからね」
「うん、大丈夫よ、シェラート。ヴィエッダさんに何かするつもりがあったのなら、もう、されてただろうし。いまだに何もされてないってことは大丈夫ってことでしょう?」
「お前なぁ……」
 ヴィエッダと同様に笑いながら、ひらひらと手を振ってきたフィシュアに向かって、シェラートは諦めの溜息を落とす。どうせ止めても無駄なのだ。
「まあ、シェラ坊はここでゆっくりくつろいでおきなさい。自由にしてくれてかまわないからね。はい、じゃあ行くわよ、フィシュアちゃん!」
 上機嫌にフィシュアの背を押して奥の扉へと向かうヴィエッダの言い分に納得したわけではないが、シェラートは黙って彼女たちを見送った。
そして、二人が入っていった扉が完全に閉じられた時、シェラートもまた、席を立ったのだった。
 
 
「フィシュアちゃん、どれにするかい? ほら、そんな所に立っていないで、こちらへいらっしゃいな」
 振り返ったヴィエッダは問いと同時に微笑みを浮かべたが、扉の前に立ち尽くしていたフィシュアは目の前に広がる光景にただ唖然としていた。
「すごい数ですね……」
「だろう?」
 部屋の中には色とりどりの衣服や装飾具が所狭しと並んでいる。飾りこそあまり付いてはいないものの、布に触れた瞬間に明らかに違いを感じるほどには質の高いものばかりだ。
「ランジュールはあまりにもアジカに惚れこんでいたからねぇ。どれがいいか分からないと言っては片っぱしから買って来てたんだよ。アジカもそれにはさすがに困ってたねぇ。これは全部、あまりにも多すぎるからってアジカから貰ったものなんだよ」
「そのランジュールとアジカというのは?」
 先程から何度もヴィエッダが口にしていた名前。その名を口にする度にヴィエッダの目には懐かしさが宿る。
「そういえば言ってなかったっけねぇ……でも、フィシュアちゃんは伝え聞いているはずだろう? ジーニー(魔神)とトゥッシトリア(三番目の姫)の話を」
「じゃあ……」
「そう、ランジュールがそのジーニー(魔神)でアジカがトゥッシトリア(三番目の姫)だよ。私にしたらついこの間の話だけど、フィシュアちゃんにしたら遠い昔話だろうね
 ―――ああ、フィシュアちゃん、これは? これなんかどうだい? 綺麗な色だろう?」
 ヴィエッダは淡い緑のドレスを一つ選びだすとフィシュアの服の上からピタリと合わせた。
「……ヴィエッダさん、何か私に話があるのでしょう?」
「おや、案外鋭いねぇ」
ヴィエッダは目を細めてクスリと笑う。
「そう。シェラ坊のいないところでフィシュアちゃんに聞きたいことがあったんだよ」
「聞きたいことですか?」
「そう。実際のところフィシュアちゃんはどうなの?」
 意味が分からずフィシュアが首を傾げると、ヴィエッダは「やあねぇ」と笑いながら手をパタパタと振った。
「シェラ坊のことだよ。フィシュアちゃんはちょっとはシェラ坊のこと好きかい?」
「……話ってそれですか?」
「それ以外の何があるって言うんだい?」
 一体どんな話をされるのだろうと気負っていたフィシュアは一気に脱力した。
「シェラートのことは人としては好きの部類に入ると思いますが、そっち方面の好きではないですね。第一、シェラートからしてみれば私はテト……まだ幼い少年と大して変わらないって言ってましたよ? どちらかというとシェラートはヴィエッダさんみたいなジーニー(魔神)やジン(魔人)の女性の方が好きなんじゃないでしょうか?」
「ああ、ないない。だってシェラ坊は人間だったからねぇ。今でもやっぱり人間が好きなんでしょう。だから街で暮らしてるんだろうし」
 あっさりとした否定の言葉と共に告げられた事実に、フィシュアは耳を疑った。
「人間……だった……? シェラートが……?」
 驚愕して、目を見開いているフィシュアを見ながら、ヴィエッダはコロコロと笑いながら続ける。
「あら、そんなに驚いて。もしかして、フィシュアちゃんはシェラートが人間だったって知らなかったのかい? シェラートは自分の愛しい女の命を助ける為にランジュールの所へ頼みに行ったんだよ? 馬鹿だよねぇ。いくら精霊しかいないカーマイル王国の出で、何も知らないからって王の位に着くジーニー(魔神)の所へ行っちゃうんだからさ。まぁ、ランジュールの居場所が当時、割と有名だったってのもあったんだろうけどね」
 ヴィエッダは衣服の並べてあるテーブルの上に腰かけると、足を組んだ。
「ランジュールの方もねぇ、アジカと出会ってからずっと人間になる道を探していたんだよ。まぁ、方法はすぐに思いついたらしいんだけどね、一人じゃ実行に移せやしなかったから。
シェラ坊がランジュールの前に現れたのはちょうどその時だね。ランジュールはシェラ坊の望みを叶える代償としてランジュール自身の望みを叶させたんだ。自分の力をシェラ坊に与えることでランジュールは人間になれた。反対にシェラ坊はランジュールの力を受け継いでジン(魔人)になったんだ。シェラ坊はジン(魔人)になってまだ500年は経ってないからジーニー(魔神)ではないけど、最高位のジーニー(魔神)の力をそっくりそのまま受け継いでいるんだよ。
だから、そこらのジーニー(魔神)たちじゃ全く歯が立たないだろうね。私もそうだし、ほら、フィシュアちゃんはここに来る前にヘダールのおぼっちゃんにも会って来たんだろう?」
「―――でも、シェラートはヘダールが弱すぎるだけだって……」
「フィシュアちゃん、初めからヘダールのおぼっちゃんと相対してたわけじゃないだろう。私に会った時と同じようにシェラ坊がフィシュアちゃんのことを隠していたんじゃないかい?」
 確かにフィシュアは最初、シェラートの体に阻まれていたのでヘダールと対してはいない。あの時は声しか聞こえなかったのだ。そして、初めて目にした時にはヘダールはすでにシェラートによって床に打ち伏されていた後だった。
「あのおぼっちゃんもねぇ、あんなだけどすでにジーニー(魔神)になりかけているジン(魔神)なんだよ? 齢450は超えてるって言ってたからね。ジーニー(魔神)になる500年まであと少しだ。だからその分、力も強いはずなんだよ。……まぁ、それでもシェラ坊に敵うはずはないんだけどね。
 ほら、私達は人に交じって街に住んでいないだろう? 確かに、人とかかわるのがあまり好きじゃないっていうのもあるんだけどね、それ以外にも理由があるんだよ」
「理由、ですか?」
「そう。街の中に居ると私達はどうしても浮いちゃうんだよ。フィシュアちゃん、私に会った瞬間は緊張していただろう? 人間はね私達の威にあてられると、無意識のうちに恐れを抱いて畏縮するんだよ。こちらが意図していなくてもね。精神を乱された人間が均衡を取り戻す為には、時間が必要なんだ。まあ、簡単に言ってしまえばジーニー(魔神)に慣れるのにある程度の時間をおかなきゃ駄目ってこと。その為の一番いい方法が、慣れるまでジーニー(魔神)を視界に入れないことなのさ。
 だから、シェラ坊はすぐに私とフィシュアちゃんの間に割って入ったんだよ。時間が経ってしまった後に顔を合わせた時は特に何も感じなかっただろう? 今も私が意識して圧したりしなければ平気なはずだよ。多分、ヘダールのおぼっちゃんの時もそうだったんじゃないかい? まあ、フィシュアちゃんに危害が及ばないようにってのもあったんだろうけどね」
「それなら、ヘダールがシェラートのことを“成り上がりのジン(魔人)”って言ってたのは……」
「あのおぼっちゃんはそんなことを言ってたのかい? 呆れたもんだねぇ。力量の差が分からないところがまだまだ子供ってとこか。けど、そうだねぇ。その言葉が指すのはシェラ坊が人間からジン(魔人)になったってことだろう。シェラ坊の存在は私達の中では異例中の異例。その分、シェラ坊は有名なんだよ」
 ヴィエッダは肩を竦めてみせた。
 しかし、すぐに新たな服を手にすると、すっかり口を閉ざしてしまったフィシュアへと合わせ始めた。
「まあ、シェラ坊がフィシュアちゃんに話さなかったことを私が勝手に話しちゃっただけだからね。もちろん聞き流してくれてもいいんだよ? だけど、もし気になるならシェラ坊に直接聞いてみるといい。話そうにも私はこれ以上詳しいことは知らないからね。別にシェラ坊も隠してるわけじゃないだろうからね。
それよりも、せっかくだから今は楽しまないかい? シェラ坊のことをどう思ってるのかを聞きたかっただけじゃなくて、フィシュアちゃんと着せ替えをして遊びたいと思ったのも本当なんだよ? ほら、まだこんなにたくさんあるのだから。気に入ったものがあればフィシュアちゃんにあげるからね。私よりかはフィシュアちゃんの方がふさわしいと思うしね。そうだ、ブローチなんかもいいのがあるんだよ?」
嬉々として今度は装飾具を選びだしたヴィレッダは、だが、次の瞬間、形のよい眉をぴくりと動かした。
 険しい表情のまま足早に扉へと向かい、勢いよく開ける。
「シェラ坊! 今、魔法を使っただろう? 一体、私の家に何したんだい?」
 声を荒げているヴィエッダとは対照的に、シェラートはフィシュア達が部屋を出る前と変らず、長椅子に腰かけ、くつろいでいた。
「別に。ただ水を返してもらっただけだ」
「―――な!? 勝手に私の浴場に入ったのかい?」
「自由にしていいと言ったのはヴィエッダの方だろう」
「だからってねぇ……」
「こっちはそんなに暇じゃないんだ。もう一回ヘダールの所に行かないといけないしな。どうせするはずだった仕事を代わりにやってやったんだからいいだろう?」
「そりゃそうだけど。でも、まだフィシュアちゃんと遊び足りないのに…………」
 恨めしそうに睨んでくるヴィレッダを無視して、シェラートは立ち上がるとフィシュアの方へと向かった。
「そういうわけだから、長居は無用だ。さっさと行って終わらせよう。テトが待ってる」
「―――え、あ……うん」
 シェラートに手を取られたフィシュアは、結局、ヴィエッダに聞かされたばかりの話を事実として自分の中で消化することもできずに、とりあえず今は水の宮へと再び向かうことになったのだった。
 
 
 
 
 

(c)aruhi 2008