遠くに見える小さな家々。陽光に照らされた屋根はガラス細工のようにきらきらと輝く。
「懐かしいか?」
隣で同じように眼下を見渡している現在のこの国の王へと一度目を向け、再び街に視線を戻す。
ここから見える景色は今も昔も変わらない。
「ええ。でも、やはり変わったところもあります。ルメンディアも大分豊かになったようです。これもガーレリデス様、貴方のおかげですね」
ルメンディアの城へと向かう途中、馬車の中から垣間見た街の姿。
店の軒前にはランプや鉄で作られた生活用品が当り前のように並んでいた。安価に手に入れることができるようになったからこそのそれらの姿は、数年前のルメンディアでは見られなかった光景だった。
「ここの春は本当に綺麗だな。まるで雪のようだ」
くるくると舞う純白の花びらに向かって彼は片手を掲げた。気まぐれに踊るネイドラフージュの花びらは王の手に乗ると見せかけて、その直前でひらりと身を翻し、地面へと舞い落ちる。
「ええ。ルメンディアは春が一番綺麗なのですよ?」
彼の肩に付いていた一枚の白い花びらを指で摘まみ、握りしめる。
「雪舞花を掴んだ者は幸福を得られる」
そっと手を開いた途端、風に攫われた薄い花びらは晴れ渡った空へと舞い上がった。
「ルメンディアの迷信か?」
ガーレリデス様の問い掛けに、私は笑みをもって答えを返した。
「はい。古くから伝わるおまじないのようなものです。ただし、花びらが地面に到達する前に掴まなければなりません。難しいのですよ。私は一度も成功したことがありません」
春になる度に、咲き誇るネイドラフージュの花の下、手を伸ばした。
絶え間なく降り続ける無数の雪の花びら。
酷く簡単に掴めそうなのに、手にすることは酷く難しい。
地面に落ちた白の花びらは、純白の絨毯となり、いつの間にか皆に踏まれて、痛み、茶に色を濁す。
「そうか? トゥーアナはたくさんの花びらを掴んでいるじゃないか」
彼は笑いながら、首を傾げた私へと手を伸ばす。
「髪にたくさん花びらが付いている。トゥーアナがネイドラフージュの花みたいだな」
ふわりふわりと髪を梳かれる度に、風を受けたように花びらが舞い落ちてゆく。
「綺麗だな」
「ええ、とても幸せです」
「何だ、その返しは」
王が吹き出す。彼は可笑しそうに笑いながら私の体を抱き上げた。
「そんなに可笑しいでしょうか……?」
尚もくつくつと笑い続けるガーレリデス様の頬へと触れ、首を傾げる。
「本当に幸せなのですよ? ネイドラフージュの花びらを掴むことよりも、貴方の傍に居られることの方が」
「分かってる、分かってる。ただ、トゥーアナはいつも唐突だからな」
空よりも美しい空を映した湖水の瞳。
「分かって下さっているのなら結構です」
私を見上げる二つの瞳へと順に口付けを落とす。
何よりも美しく暖かな光を宿す湖水の双眸。
何にも換え難いただ一つの光。
「ガーレリデス様? 貴方の髪にもたくさんの花びらが付いてますよ?」
「なら、払ってくれ」
「はい」
陽の光を受けて、今は黄金に輝く少し硬い王の髪。
白の花びらが彼の髪色をいっそう映えさせていた。
ひらひらと花びらが舞い落ちる視線の先、近づいてきた神官の姿へと私達は揃って顔を向ける。
「トゥーアナ様、御時間でございます。神殿の方へ」
「ええ」
王が聞き入れてくれた、ルメンディアに古から伝わる儀式。
妃の披露目の前、妃となる者は一人聖堂へと入り、神と先祖に許しを請う。
「早く戻ってこいよ?」
私はただ、笑みを浮かべて返事の代わりに深く彼へ口付ける。
一度強く抱きしめて、王は私の手を神官へと預けた。
私と同じく白い衣に身を包んだ神官に手を引かれ、荘厳な白亜の聖堂の前へと立つ。
「ここから先は、トゥーアナ様、御一人で」
重い扉を押し開き、儀礼通りに頭を垂れて、神官は私を聖堂の中へと促す。
私はただ一つ頷きを返して、神聖なる真白な聖堂の内に足を踏み入れた。
左右に立ち並ぶのは木製の茶の長椅子。
椅子の間、中央に延びる道の先、聖堂の最奥に設けられた祭壇と女神の像。
そして、祭壇のちょうど真横に当たる部分。左右の壁に設けられた二つの扉。
ここは、何もかもが数年前と変わらない。
静かに佇む豊穣の女神ルメティアの微笑みも、肌に感じるひんやりとした聖堂独特の空気も、白さが作り出す神聖なる光さえも、何一つ違うものなど無かった。
中央に引かれた祭壇へと続く道を真っ直ぐに進む。
他に誰も居ない深閑とした聖堂の中、ただ己の足音と白いドレスの衣擦れの音だけが響いて、こだまする。
辿り着いた祭壇の前。白亜の女神が微笑みと共に私を迎え入れた。
膝を付き、礼をとった後、再び立ち上がり、また跪く。
硬く冷たい純白の床の上、私は静かに瞳を閉じる。
自分の両手を組み合わせ、ただじっと許しを待つ為に。
そして、左右の扉は開かれた。
目を閉じていても感じる今までとは違う光。
私はゆっくりと瞼を上げ、立ち上がった。
ただ、口元に浮かべた笑みが、確かに微笑みであることを願って―――――
(c)aruhi 2008