「―――遅いな」
目の前では静かにネイドラフージュの花びらが舞う。ゆったりと風に揺られて散っていく純白の花びらは時間の流れを感じさせない。
だが、それにしてもトゥーアナは遅かった。
隣に立つ侍従が「はあ……」と小さく相槌を打つ。
「久しぶりの御帰還ですから、きっと御父上様方に積もる話もございますのでしょう」
「……そうか」
頷きを返しながらも、頭の隅では『おかしい』と何かが警告する。
彼女が聖堂へ入ってすでに半刻が経つ。予定よりも倍の時間が経過しているのだ。
「―――陛下、どちらへ?」
「少し、様子を見てくる」
「ああ、お待ち下さい! 私も参ります!」
侍従が慌てて後に続く。
―――おかしい。
確かに何かが、おかしかった。
焦燥が足を速めていく。かろうじて駆け出したりしなかったのは、侍従がついて来ていたからだろう。
聖堂の正面の扉を侍従が押し開く。
薄暗く、ひんやりとした聖堂の中には誰の姿も無い。
見えるのは立ち並ぶ長椅子と奥にある祭壇、そして、微笑みを浮かべる白亜の女神。
しかし、ふと訝しさに目を留める。
「あそこの扉は何だ? 何故開いている?」
聖堂奥、祭壇横の両壁にある二つの扉。そのどちらもが開け放たれ、外からの光が差し込んでいた。
「ああ、あれは民用の扉です。ルメンディア王家があった頃から、この聖堂は一般の民にも開放していたそうですよ。確か今日もトゥーアナ様、御自らの御希望で普段と変わらず民が自由に出入りできるようになっていたはずです」
侍従の説明も耳半分に、聖堂の中へと足を進める。
静まり返った聖堂の中でただ足音だけが反響した。
「これは、何だ……?」
ちょうど祭壇に差し掛かるというところ、目に映ったのは長椅子の陰に広がる鮮やかな色。
「―――トゥーアナ様!!」
耳をつんざかんばかりの不快音に顔を顰める。
「トゥーアナ、なのか?」
純白の床に広がる長い金の髪。淡く輝いているはずのその髪は血にまみれて鈍く光る。
開かれた紫の瞳は宝石のようにどこまでも透明だった。
ただ、音も立てず流れ出る血が鮮やかに白い衣装を染めてゆく。
「―――っ陛下! すぐに他の者をっ……! 他の者を呼んでまいります!」
「ああ……」
侍従が駆けて行く音をどこか遠くで感じる。
「そういえば、どこかの国の花嫁衣装は赤だと聞いたことがあったな」
一体どこの国だったか。
確か、ここからは遠い国だったはず。
硬い床へと膝をつく。
「トゥーアナ、か?」
指の腹でなぞった紅い唇は温かい。
目の前の現状が理解できなかった。
全てを否定しようと思考が停止を始める。
だが無情にも、花のように微笑む、幸せそうな笑みこそが、彼女が“彼女”であることを俺に告げていたのだ。
清められ、真白な衣に包まれた彼女は本当に美しかった。
「……トゥーアナは本当に死んでいるのか?」
「―――陛下……」
寝台に横たわるのはいつもと変わらぬ彼女の姿。口元にも未だ笑みさえ浮かべて、彼女は綺麗に横たわる。
今は閉じられた紫の瞳。けれど、ただ眠っているのと何が変わらないというのだ。
そっと手を伸ばし、触れた頬にぞっとした。
先程よりも明らかに冷たくなっている体。
窓辺に佇んでいた時でさえあった彼女の体温が今はもう失われつつあった。
眠ったままのトゥーアナを抱き上げる。
金の髪がさらりと手の間を擦り抜け、流れて落ちた。
「トゥーアナ、起きないのか?」
光の覗かない瞼へと、朱が入れられた頬へと、ふっくらと形のよい彼女の唇へと、順に口付けを落としていく。
「陛下……」
「何だ?」
彼女の重さは変わらないのに、そこには温かさが欠けていた。
「そろそろ、トゥーアナ様を横にして差し上げないと……」
目の前に立つ男が何を告げようとしているのか――――頭では疾うに理解しているのだ。
「けれど、トゥーアナはまだ柔らかい」
トゥーアナを抱く腕に力を込める。
「―――しかし、このままでは、トゥーアナ様を棺に入れることは不可能となってしまいます……」
男は告げる。硬直が始まるのだと。彼女が確かに死したという証が始まってしまうのだと。
「いいのだ。柩には入れない」
「しかし……!」
「トゥーアナは俺の所へ来たんだ。ここには残さない。ケーアンリーブへ連れて帰る」
「…………」
落ちてきた静けさに、自嘲を浮かべる。
「―――悪い。どうかしてる。詮の無いことだというのは分かっているんだ」
トゥーアナは死んだ。
かつての彼女の民によって殺された。
それは変えようの無い事実。
現に彼女に害を為した者たちはすでに捕らえられて牢へと繋がれているのだ。
分かっている。
理解してはいるのだ。
「城に帰って棺に入れる頃には硬直も解け始めているだろう。少なくともそれまで二日は要するからな」
だが、だからと言って、すぐに受け入れられるほど俺は強くはなかったようだ。
理解しても納得などできるはずもない。
無残に奪われてしまった命。
容易く壊れてしまった命を、
認めることは容易ではない。
彼女の死を認める。俺にとってそれは、今では酷く難しいこと。
「だから、せめてそれまでは傍に居させろ」
―――――だから、せめてそれまでは……
扉は静かに閉じられた。
「何故幸せそうに笑う?」
額に掛かった金の髪を撫でて、そっと彼女に口付ける。
目の前にある彼女も、記憶の中にある彼女も、いつも花のように笑う。
酷く無垢で小さな花は強く、そして儚かった。
トゥーアナはふわりと笑いながらよく言った。俺は『優しい』のだと。
それならば、優しくなどしなければ良かったのだ。
そうしたら、彼女は一人で聖堂に入ることなど叶わなかった。
そうしたら、彼女はルメンディアに帰ってなど来れなかった。
そうしたら、彼女は俺の元には来なかったのだ。
「俺はどうしたら良かったのだ?」
トゥーアナの傍から離れなければ良かったのか?
トゥーアナを受け入れなければ良かったのか?
だけど、あの日トゥーアナは俺の元に来たのだ。
俺が願った訳ではない。
トゥーアナは望んだ。ただ、俺の傍に居たいのだと。
俺が望んだ訳ではなかったのだ。
だが、たったそれだけの望み。
酷く簡単に叶えることのできたはずの望み。
なのに、何故、トゥーアナはそんな些細な望みさえ叶えることが許されない?
少なくとも俺はトゥーアナの望みを叶えてやることを望んでいた。
いつも幸せそうに微笑む彼女がこれから先もずっと幸せであるようにと望んでいたのだ。
彼女が傍に居たいと願うなら、ずっと傍に居ようと決めていたのだ。
それなのに、何故――――?
「何故トゥーアナばかりがこんな目に遭う?」
呼び掛けは、もう、返らない。
返って来たのはただの静けさだけ。
ただ俺の腕の中で、冷たくなったトゥーアナは、静かに微笑みを浮かべていた。
いつもと変わらぬ、花のような彼女の笑みを。
(c)aruhi 2008