煩わしいと思っていたはずの声を心地良く感じるようになったいつからだったか。
彼女の声が聞こえてくることが当たり前になっていたのは一体いつからだったのだろうか。
『ガーレリデス様』と彼女は呼ぶ。
もう敬称などつけなくてもいい、と言ったのに、いつまでも彼女は俺のことをそう呼んだ。
彼女にしか出すことの叶わないだろう小さく光る澄んだ響きを持って―――――
*****
『 ガーレリデス様へ
この手紙を貴方が読んでいらっしゃるということは、私は民に認められはしなかったのでしょう。
それはとても悲しいこと。
貴方はこんな選択をした私のことを怒っているかもしれませんね。
私は一つの賭けをしました。
民が許してくれるか、あるいは、許してはくれないか、というとても単純な賭け。
けれど、私にとってはそれが全てです。
もし、民が許してくれるのならば、私は貴方とラルシュベルグと共に幸せに生きていくことを許されたということ。
もし、民が許してはくれないのならば、私にはやはりそれは許されない。
貴方のおかげで民の暮らしが以前よりも豊かなものになったとはいえ、ルメンディアという名の彼らの故郷を奪ったのは私。
いくら豊かになったとしても、拭えることのない虚無と悲嘆。
それは決して変えることのできない事実。
そして、そのことを恨んでいたからこそ彼らは私の元へ来たのでしょう。
今回起こったことは、いずれは起こったであろうこと。
これは私が残した禍根。
その為に、いつか貴方とラルシュベルグにまで害が及ぶかもしれぬことは私には耐えられません。
それならば、今。ラルシュベルグが幼いうちに。
私はそう考えました。
私は肉親を亡くす苦しみと悲しみを知っています。
ラルシュベルグには私と同じような思いはさせたくありません。
きっと、今ならラルシュベルグが悲しむようなことはないでしょう。
私という母の存在を覚えていることもないでしょう。
だからこそ、今、私は自分自身を試しました。
どうか、ルメンディアの民を咎めることのないように。
彼らを利用して試したのは紛れもなく私自身。
彼らに罪はありません。
ただ、貴方の隣に立っていても良いのだと、私自身が認めたかったのです。
彼らに認められることで、それを証明したかったのです。
せっかくの貴方の御厚意をこんな形で返してしまってごめんなさい。
ですが、私はずっと幸せでした。
貴方の傍に居られて。ラルシュベルグの傍に居られて。
きっと、私は微笑んでいたでしょう?
だって、本当に幸せだったから。
ラルシュベルグのことは全てメレディに任せました。
彼女が居れば大丈夫。それは、私自身が一番分かっています。
彼女が傍に付いていてくれたから、きっと私はここまで来れました。
あの日、貴方に会いに来ることができました。
だから、ラルシュベルグのことに関して、私に憂いはありません。
メレディならばきっと私よりも遥かに立派にラルシュベルグのことを育て上げてくれるでしょう。
だけど、一つ。もし叶えることができるのならば、
これから先もずっと貴方の傍に居たかった。
けれど、もう、それは許されないから。
せめて貴方に心からの愛を
貴方がいつまでも幸せであるように
トゥーアナ 』
「ガーレリデス様」
呼ばれた名に、顔を上げる。
「―――ああ、バロフか……」
「“ああ”、じゃありませんよ。これでも何度も戸を叩いたのですよ? あまりにも返事がないので勝手に入らせていただきましたが」
「ああ……悪かったな」
バロフはただ、俺の方を見やって、溜息をつく。
「時間です。もう、これ以上は引き延ばせませんよ」
「分かってるさ」
腕の中にあるのは静かなトゥーアナ。
硬直して固まりきっていた彼女の体が時を経た今、再び弛緩し始めた。
約束の時。
彼女を棺の中へと眠りに落とす。
力なく崩れた笑みは、もはや彼女のものではないのに、どうしても手放すことはできなかった。
自分でも何とも馬鹿なことをしているものだと、自嘲することすら今は叶わない。
「その手紙は……?」
バロフの視線の先。机の上に置かれたままになっている手紙。
「ああ……それはトゥーアナが書き残したものだ」
「―――それでは、トゥーアナ様はこうなることを予期されていたのですか?」
「らしいな」
城に帰った日に手渡された手紙。
変わり果てたトゥーアナの姿にとり乱し、泣き伏しながらも彼女の老侍女は震える手で俺に一通の手紙を差し出した。
差し出された瞬間、信じられぬ思いに、ただ瞠目する。
トゥーアナは知っていたのだ。自分が死するであろうことを。
そして、彼女から手紙を預かっていた老侍女もまた、このことを知っていた。
知っていて、尚、俺に告げはしなかったのだ。
問いただされたメレディは、嗚咽を漏らしながらも切れ切れに語った。
「それが、トゥーアナ様の……我が君の最期の望みだったのです」と。
蝋で封をされた封筒の中に入っていたのは四つ折りにされた一枚の紙切れ。
開いた紙に書かれてあったのは紛れもなく彼女の筆跡。
「なあ、俺が言わなかったからだと思うか?」
トゥーアナを抱えたまま立ち上がる。彼女の葬儀が行われるケーアンリーブの聖堂へ向かう為に。
先を歩き、扉を開いたバロフはただ首を傾げた。
「俺はトゥーアナに何も伝えていなかったんだ。だから彼女には分からなかったのだろうか?」
好きだとも、愛しているとも、
傍に居て欲しいのだとさえ、彼女に伝えてはいなかった。
トゥーアナが俺に伝えてくれたようには、言の葉にのせて伝えてなどいなかった。
そして、もう、彼女に届くことは永遠になくなってしまった。
「だから、トゥーアナはこんな道を選んでしまったのだろうか?」
他にもきっと道はあったはずなのに。
彼女が危惧したこと。
俺に及ぶ害など、大したことではなかったのに。
なぜなら、それは多々ある不安要素の一つにしか成り得ないのだから。
バロフはただ押し黙る。
誰にも答えられはしない問い。
今ではもう意味の無い問い。
分かっているのに、出口のない問いばかりが、頭の中で何度も繰り返し、巡る。
「―――バロフ。お前、泣いたのか?」
少しばかり、目の端が赤いバロフはバツが悪そうに廊下の壁へと視線をそらす。
「貴方は泣かないのですね……」
「そうだな。それは俺も疑問だ。何故泣けないのだろう? トゥーアナを嫌っていたお前ですら泣けるのにな」
「それは陛下も同じでしょう……」
歩を進めながら、バロフは溜息を洩らす。まるで、何かを押し殺すかのように。
「そうですね……少なくとも私はトゥーアナ様の傍に居る貴方が嫌いではありませんでしたから」
「そうか」
静かにそう返すと、バロフが苦い笑みを浮かべる。
俺よりもよほど、その表情に悲しみを刻んで。
「―――陛下……トゥーアナ様を」
「ああ」
聖堂へと入る前に、神官に言われてトゥーアナを手放す。
何度も重鎮たちに苦言を呈されてはいたのだ。「外聞が悪い」と。
けれど、渋面をつくりながらも、彼らが許してくれていたのはひとえに横に立つバロフのおかげなのだろう。だが、それも今日で終わり。
バロフが告げた通り、これ以上引き延ばせはしない。
何よりも記憶の中にあるトゥーアナの笑みをこれ以上崩す訳にはいかないのだ。
それなのに、哀しい冷たささえ、失くなってしまうのが今は酷く悲しかった。
弔いの儀式は先日の儀式とは対照的に何の問題もなく、淡々と進む。
朗々と響き渡る神官の声は、この儀においては、いつも酷く重苦しい。
厳かな雰囲気など無きに等しく、ただ虚無だけが静かに落ちる。
設けられた別れの時、皆が退出していく中、残った一人の姿があった。
いつの間にか背後に立っていた幼さを残す侍女は、振り返った俺に向かって、静かに頭を垂れた。
「お二人の時間をお邪魔してしまい、申し訳ありません、陛下。トゥーアナ様付きの侍女アシュレイにございます。どうか、御無礼をお許し下さい」
ただ一つ、アシュレイに頷きを返すと彼女は深く息を吸った。
「差し出がましいとは思ったのですが……どうしてもこれだけは陛下に申し上げておきたくて」
侍女が柩の中のトゥーアナへと目線を向ける。泣きはらしたのであろう真っ赤な目の淵に、涙が盛り上がり、揺れて、溢れる。アシュレイは一度、手で雫を拭うと、言葉を続けた。
「―――私、がっ……陛下はトゥーアナ様のことをとても大切に思われていると申し上げた時……、あの方はすごく……とても、幸せそうな笑みを浮かべて……確かに、頷かれたんです……」
侍女が紡いだ言葉に目を瞠る。
「それが、どうしても忘れられなくて……どうしても、陛下にお伝えたかったのです……」
アシュレイは拭い続けた。溢れ、止まらなくなったらしい涙を。
「そうか……」
「―――はいっ……!」
「有難う」
しゃくりあげる声を聞きながら、俺は棺の中に綺麗に納まってしまったトゥーアナへと目を移す。
彼女の微笑みは伝えていたのだ。確かに俺の想いが伝わっていたのだと。
だからこそ、彼女は『幸せだ』と微笑んでいたのだ。
冷たい彼女の片頬を己の手で包み、そっと擦る。かつての時と同じように。
「―――本当に貴女は馬鹿だ、トゥーアナ……」
涙が一つ、彼女の頬を伝って消えた。
(c)aruhi 2008