ラピスラズリのかけら 4:シェラート 18 涼やかなる昔日

 

雨が降り続ける夕暮れの中にフィシュアは立っていた。
夕暮れといっても厚い雨雲に覆われた空は暗い。
 宴の賑やかな音を遥か彼方に聞きながら、フィシュアは雨を落とす空へと片手を掲げる。
「ホーク。雨の中ずっと待たせて悪かったな」
 空中で羽ばたき停滞していた茶の鳥は、主人にそっと触れられ、気持ちよさそうに一度目を閉じた。
 雨を受けた彼の羽は、濡れてもなお、なめらかに滑る。
「明日には皇都に戻れることになった」
 ぬかるみのできた地面へとホークは舞い降りると、フィシュアを見上げ、首を傾げた。
「ヴィエッダさん……今日会ったジーニー(魔神)に送ってもらうことになったんだ。心配しなくてもいい。害を加えられはしないだろう。その代り、用意しなくてはならないものはあるのだが」
 ヴィエッダが挙げた品の数々。
 どれもが高級品であるが、フィシュアにとっては決して用意できないと言う訳ではない。あと二日はかかるはずだった行程を考えれば充分安いほどだ。
「だから、ホークは先に帰ってロシュに伝えていてくれないか?」
 しかし、ちっとも反応を返さないホークに、フィシュアは肩を竦めた。
「分かった。義姉様でもいいから」
今度は頷きを返したホークに向かって、フィシュアは苦笑を投げかける。
「早く行きなさい。これ以上ここに居ると羽が重くなる。雨に濡れていいことはないだろう?」
 フィシュアの言葉と同時にホークは翼を広げて天空へと舞い上がる。彼は一度上空で旋回した後、雨の降り続ける夕闇の中を真っ直ぐ皇都の方に向かって消えた。
 
 
「フィシュアも早く中には入れ」
 突如掛けられた声にフィシュアは振り返った。村長の家の前。いつの間にか開かれていた玄関の扉の横にシェラートが立っていた。
「居たの?」
「居た。突かれそうだから中に居たけどな」
「ああ、ホークね」
肩を竦めてみせたシェラートに、フィシュアは苦笑する。雨が視界を遮る空の向こう、一羽の鳥は最早見える位置には居ない。
「もう、用事は済んだんだろう?」
「だけど、雨に当たるのも悪くわないわ。ようやく降った恵みの雨だもの」
 例え、それが皮肉を含む雨だとしても、自己満足の終わりを告げる雨だとしても、この結果は素直に喜ぶべきものだとフィシュアは思う。
「これでようやくすっきりしたか?」
「そうね、満足してる。手伝ってくれてありがとう」
「別にいいさ。フィシュアの為だけって訳じゃなかったからな」
「怒ってたくせに」
「あの時はただ身代りになるつもりだと思ってたからな。そうだとしたら怒るだろう、普通。フィシュアだったら方法が見つからなければ無理矢理身代りになって押し通そうだしな」
「―――しないわよ、さすがに」
 多分、とフィシュアは心の中で付け加える。だが、片眉を上げたシェラートに見咎められたような気がして、フィシュアは大人しく村長の家の中へ入ることにした。
 
「テト達は、上?」
 暖かな風が頬を撫でていく。それと同時に雨に濡れた髪や服が乾いていくのをフィシュアは感じた。泉から出た時と同じ陽だまりの中にいるような感覚が心地よくて目を細める。
「ああ。メイリィと遊んでる。ディクレットも宴の方に少し顔を出すって言ってたから、一緒に部屋から出て来たんだ」
 シェラートの翡翠の双眸が穏やかに和らいだのを見て、フィシュアは微笑んだ。
「そんなにテト達、楽しそうだったの?」
「ああ」
「それは、良かったわ」
 メイリィの願いを叶えることができたということよりも、今、彼女自身がテトと何を気にするでもなく過ごしているという事実の方がフィシュアにとっては嬉しかった。
「宴の方はどうだった?」
「なんか、もう本当にすごかったわ。あまりにも村の人達の歓声がすごかったから、ヘダールが偉大な水神かと思えたくらい」
 ヘダールは自分の役目を終えた後すぐに姿を消した。その為、村人たちの感謝の念は全て花嫁であったフィシュアへと注がれたのである。村人たちから次々と声を掛けられ、フィシュアは抜け出してくるのになかなか苦労したのだ。
 
「そうか、ならこれで本当に終わりだな」
 そう言ったシェラートが自らの手に転移させたもの。コップを満たしている緑の液体にフィシュアは顔を引きつらせた。
「テトの村とここで二回も無茶してるだろう? 約束の品だ」
「―――冗談でしょう……?」
 この世のものとは思えない苦みを思い出し、フィシュアは一歩後ろに下がった。
口の端を上げてシェラートはにやりと笑う。
「冗談だ」
「……ごめん、それ笑えないわ」
 そう言いながらもフィシュアは「ははは……」と乾いた笑みを漏らした。
「ただの果実ジュースだ。テト達に作ってやったものの余り。飲むか?」
「いや、遠慮しとくわ。もう、緑の液体は口にしたくないもの」
「なら、今度こそ約束は守るんだな。まぁ、期待はしてないけど」
 コップを消したシェラートをフィシュアは見上げた。
 見られていることに気付いたらしいシェラートは、訝しげに首を傾げる。
「―――あのね……シェラート。このまま黙っておこうかと思ったんだけど、やっぱり、謝っとくわ」
「何をだ?」
 すぐには返ってこない答えに、シェラートは眉を寄せた。
フィシュアは一つ息を吐き出すと、再び口を開く。
「聞いたの。シェラートが昔、人間だったってこと」
「……ヴィエッダか?」
 フィシュアが困ったように苦笑する。それを見てとったシェラートは「それなら、フィシュアが謝る必要はないだろう」と言いながら、近くの椅子を引くと腰を下ろした。
 フィシュアも長テーブルへと向かい、シェラートと向き合う形で、一つの椅子に座る。
「でも、前にその話になりかけた時シェラートは話を切り上げたでしょう?」
「聞いて楽しいような話でもないからな。けど別に隠してたわけじゃないから聞いたことを気に病まなくてもいい。……どこまで聞いた? どうせなら全部話す。中途半端じゃ気持ち悪いだろう?」
 シェラートに促されて、フィシュアは素直に頷きを返した。悪いとは思っていたが、気になっていたのが正直なところだったのだ。人間がジン(魔人)に成ったという話などフィシュアは一度も聞いたことが無かった。
「―――ヴィエッダさんに聞いたのは、シェラートが好きな女性(ひと)の命を助ける為にジン(魔神)の所に行って願いを叶えてもらったってところまで」
「そこまで聞いたなら、ほとんど全部だな」
 シェラートは手にティーポットを転移させると手近なコップを引き寄せて金の液体を注いだ。
「それ……」
 カップの中で黄金に輝く茶。湯気と共に立ち上がった、煎ったような香ばしい香り。フィシュアは差し出された茶に見覚えがあった。
 フィシュアの予測を肯定するかのように、シェラートがふっと笑う。
「ヴィエッダのだ。入ってるのは香草とか穀物だからな、体にはいいんだ」
「いいの? 勝手に盗ってきて」
「いいだろう、これくらい。ヴィエッダは勝手に喋ったんだからな、勝手に盗られても文句は言えないだろう」
 差し出されたカップをフィシュアは受け取り、包み込んだ。触れる掌からはじんわりとした温かさが沁みる。
「どうしても助けたかった人ってシェラートが前に言ってたのがその女性(ひと)なのよね?」
「そうだな」
「その女性(ひと)ってシェラートの恋人だったの?」
 真剣な顔をして問うフィシュアに、シェラートは笑う。
「なんだ、今日は面白そうにニヤニヤ笑わないんだな」
「そんな顔してないわよ!」
 ムッとした顔のフィシュアを見ながら、シェラートもまた自身の方にカップを引き寄せた。
「リーアは幼馴染みで、親友の婚約者だった」
 返って来た意外な答えにフィシュアは戸惑う。海を越えて願いを叶えに来たほどだ。彼女は絶対にシェラートの恋人だったのだろうと思っていた。
「親友の婚約者なのにシェラートが助けてあげたの?」
「それでも、好きだったし、大切だった。二人には幸せになって笑っていて欲しかったんだ。けど、リーアが病に罹った」
「……病」
「そう。人には感染しない病だ。ただし、一度発症すれば治る見込みはない。だから、どうしても治さなければならないと思った。俺の中であの二人は常に幸福の象徴的な存在でないといけなかったんだ。俺が敵わないと思うくらいに。そうじゃないと諦めがつかなかったからな」
 シェラートは苦笑した。まるで半分を目の前にいるフィシュアに、そして、もう半分を彼の記憶の中にいるのだろう二人に向けているかのように。
「カーマイル王国には東の国の魔女がいるでしょう? 彼女の所には行かなかったの?」
「行った。けど、魔女にもあの病を治すのは無理だった。でも魔女の所に行ったからこそ、こっちにいるジン(魔人)やジーニー(魔神)のことを詳しく知ることができたんだ。あのジジイ………ランジュールに会えたのはほとんど奇跡だな。あっちにとってもそうだったんだろうけど」
「―――ジーニー(魔神)はトゥッシトリア(三番目の姫)と生きる為に人間に成りたがっていたから」
「そう。だからこそランジュールは俺の願いを聞き入れる条件として、己の願いも聞き入れさせた。それが、ランジュール自身が持っていた力を全て俺に注ぎ、譲り渡すこと。そのことでランジュールは人間に成れた。反対に俺は力を受け継いだことでジン(魔人)に成った。他のジーニー(魔神)達にはそんなことをするのは無理な話だが、ジーニー(魔神)の中で最も力を持っていたランジュールにはできないことでは無かったんだ。
実際、人間をジン(魔人)にするだけならジジイにとっては簡単だったらしい。ただ、私欲の為だけにジン(魔人)に成りたがる人間を選ぶのはいろいろ危険だからな。そうでない人間を探すのは難しかったんだそうだ。ランジュールはジーニー(魔神)だったから、ジン(魔人)しか願いを叶えてくれないと知っているこっちの大陸の人間はわざわざ奴の所へは行かない。その辺の事情を知らなかった俺があのジジイの所に行ったことで、ようやくランジュールは自身が人間に成る方法を実行に移すことができたんだ」
「それがジーニー(魔神)とトゥッシトリア(三番目の姫)の御伽話の真実……」
「そういうことだな。まぁ、実際のところはジジイでも、いっぺんに魔力を譲り渡すことはできなかった。だから、まず半分、俺はランジュールの魔力を与えられたわけだ。今までは無かった力を体になじませる期間を置く為にもな。で、その間に魔法やらなんやらをいろいろ詰め込まれた。
一番初めに教えてもらったのは転移とリーアの病を治す方法。ジジイ自身はリーアを治すことはできないから、自分で治して来いって言われた。カーマイルがある大陸には精霊しか住まないって前に教えたことがあっただろう? あっちの大陸はジン(魔人)やジーニー(魔神)には合わないらしいんだ。だから、奴らは東の大陸には渡れない。けど、俺はカーマイルの出で精霊の名を受けている。つまり、少なからず守護を受けてるんだ。だから、少しの間なら行って戻って来れることぐらいできるだろうって、な」
「……なんだか、トゥッシトリア(三番目の姫)のジーニー(魔神)って横暴だったのね。それって確実に大陸に渡ることができて、助けられるかどうかは保障がなかったってことでしょう? 推測の域を出てないのにシェラートをジン(魔人)にしたってこと?」
 シェラートが願った通り、リーアという女性を助けられたから良かったものの、シェラートをジン(魔人)にした時点では絶対だとは言えなかったのだ。もし、ジン(魔人)に変えられた後、助けられなかったのだとしたら、たまったものではない。
「だから言っただろう? あの御伽話のジーニー(魔神)は捻じ曲げられてる。良く書かれすぎだ。実際の奴はかなり性格が悪かった」
 心底憎々しげにシェラートは顔を歪める。
けれども、ヴィエッダが彼らを語った時と同じように、シェラートの翡翠の双眸に多少の懐かしさが宿って見えるのは、彼らがもうここには存在していないからなのかもしれない。
「けど、ジジイには感謝もしてる。おかげでリーアの病を治せた。あの二人が予定通り式を挙げるのを見届けることもできた」
「リーアさん達には何も言わなかったの?」
「別に言うことでもないだろう」
「そうね、きっとそれが正解」
 もしも真実を語ってしまったのならば、彼らはシェラートに負い目を感じてしまっただろう。シェラートが彼らのことを想ったように、彼らもまたシェラートのことを大切に想っていたのなら尚更である。知ってしまったのなら、シェラートが望んだ二人の幸福には少なからず翳が落ちてしまう。
 シェラートはふと微笑する。
「正解だったかどうかは分からないけど、俺自身はそれで良かったと思ってるんだ。後悔はしてない」
 シェラートの笑みには少しの翳りもなかった。そのことが彼の過去が、すでに過去でしかないことを示す。例え、傍目から見たら少しばかり哀しい話でも、彼の中ではとうの昔に折り合いの付いているものなのだろう。
「―――で、最終的にランジュールから残りの魔力を引き渡されて、俺は完全にジン(魔人)になったんだ。ランジュールが持っていた力と知識を全て受け継いでな。そして今日に至る。
…………まあ、こんな感じか? 何か質問は?」
「質問、ねぇ……」
 何の含みもなく問われ、フィシュアは苦笑しながら、手の中にある黄金の茶に視線を落とした。温かなカップを両手で少しもてあそび、再びシェラートの二つの翡翠の瞳と真っ直ぐに相対する。
「後悔はしてないって言ったけど……ね? シェラートは人間に戻りたいと思ったことはないの?」
 今更、人間に戻れたとしても、シェラートが大切な人たちの為に手放した多くのものは戻ってきたりはしないだろう。それでも、もし自分が同じ状況に立たされたらどうするだろう、と考えると人間に戻りたくなるのではないかとフィシュアは思う。ジン(魔人)やジーニー(魔神)にとっては短いはずの時の流れも、人間であったシェラートには想像を絶する程の長い時間であったはずなのだ。
「そうだな……そう思ったことはもちろんある。この生活に慣れた今でも、もしできるのなら人間に戻るのもいいかもしれないとも思う。このまま生きていくことにもちょっと飽きてきたところだ」
「死に、たいの……?」
「――――なんて顔してんだよ、フィシュア」
 シェラートが吹き出す。「失礼ね」と返しながらも、フィシュアは今自分が恐らく情けない顔をしていただろうことにちゃんと気付いていた。
 シェラートの言葉を耳にした瞬間、フィシュアは心臓が掴まれたような錯覚に襲われたのだ。
 “死”はいたるところに存在する。それは当り前のこと。けれど、身近な人がその言葉を連想させるようなことを口にした時、それは冷たく重く彼女にのしかかる。酷く胸に突き刺さるのだ。できれば、そんなことは聞きたくはない。常に“死”が身近に存在するからこそ、フィシュアは昔からそれが苦手だった。ほとんど知りもしない他人の死は割り切れる。けれど、少しでも知っている人の死は嫌なのだ。
 自分こそが人の命を容易く奪える立場にいるにもかかわらず、しかも、実際に奪ったことがあるにもかかわらず、そう思ってしまうのは酷くおかしいと思う。それでも、“死”という言葉を嫌悪してしまう気持ちは、フィシュアにとって拭い去ることのできるものではなかった。
 黙り込んでしまったフィシュアに向かって、シェラートは少し困ったように苦笑する。
「悪い。死にたいとか、そう意味じゃ無くてな、ただ、何て言うか……例えばテトがな、このまま成長したら、いつか俺を追い抜かすだろう? そして、そのうち老いて、俺よりも早く死ぬ。そういうのはもう、あまり見たくはないんだ。人と交わらなければ、そんなこと気に懸けなくてもよくなるんだろうけど、俺にはそれは無理だったからな。やっぱり、どうしても人といたかったから、ずっと街に住んでたんだと思う」
「―――そっか……」
「まあ、そういうことだ。な、あんまり楽しい話じゃなかっただろう?」
「……そうね」
 フィシュアは微笑する。さっきよりも、幾らかは安堵しながら。
 そして、彼女はもう一度、翡翠の双眸を見据えたのだ。今度はいつも通りの艶やかな笑みをその口に刻んで。
「ねぇ、シェラート? 一緒に探してあげましょうか、元に戻る方法を」
 フィシュアの提案に多少驚きながらも、シェラートはひらひらと手を振った。
「いや、別にいいさ。あのランジュールでも人間に成るのに苦労したんだぞ? ジジイと同じ方法で戻れないことはないと思うが、それは俺が嫌だからな。別にフィシュアが気に病む必要は無いって言っただろう?」
「でも、シェラートは元からジン(魔人)だった訳じゃないんだから、もっと他に方法があるかもしれないじゃない。皇都にさえ戻れば一応、私には伝手だってあるのよ? 私の老師(せんせい)はジン(魔人)とジーニー(魔神)についての第一人者なの。もしかしたら何か知ってるかもしれない。
 それに、そろそろシェラートに借りを返さなきゃいけないと思ってたのよ。なんだかんだで、結構お世話になってるからね。丁度いいわ」
「いいって言ってるのに」
 
 シェラートは苦笑した。
だけど、フィシュアが一度決めたら無茶してでもその意思を変えることはないことも、彼はもう嫌と言う程、充分に知ってしまっていたのだ。
だから、シェラートはもう一度フィシュアにひらひらと手を振った。
「それじゃあ、まぁ、一応、期待しとく。俺にはまだまだ時間があるからな」と言いながら。
 
 
 
 
 

(c)aruhi 2008