夜伽話のその先に 8

 

「どうして母さんは詠唱なしで魔法が使えるの?」
 娘であり、東の国の魔女の後継者でもあるクィーナの問いにどう答えようかと、サーシャは少し首を捻り、考えながらダランズール帝国にある我が家へと続く扉を開けた。
 今ではすっかりあらかたの魔法を覚えてしまったクィーナに魔法の応用を教える為には家の庭先だけでは狭すぎる。だから最近では、クィーナへの指導の際に、二人はカーマイル王都近郊にそびえる東の国の魔女の本拠地の砦へと赴き、その周辺の荒野を使うようになっていたのだ。
「うーん。そうねぇ、それは経験と慣れだから、感覚さえ掴んでしまえばクィーナにもできるようになるわ。本来、詠唱は特に必要ないのよ。言の葉は魔力を統御して形を成しやすくする為の媒介……道具にすぎないから」
「それって具体的にどうやって? 母さんはいつだった?」
「私は、ちょうど今のクィーナと同じくらいだった。具体的にって言われると難しいんだけど、ある日突然できたのよ。その時は多分無意識だったんでしょう。後から思い返して、そういえば詠唱してなかったって気付いたくらいだから」
「私と同じくらい……」
 自分の両の掌を見やってクィーナは溜息を落とす。
「何も焦る必要はないでしょう、クィーナ。詠唱無しで魔力を紡ぐよりも、いかに正確に紡げるかの方がよっぽど大切よ。だから今はしっかりできるだけ多くの詠唱を正確に覚えることに専念しなさい」
 覇気はなく、小さい声ではあるものの「はい」と返事をした弟子に、サーシャは「よろしい」と返す。
 
 居間に続く扉をサーシャが開けてクィーナを先に促す。
 けれど、その場所に末の息子と一緒に名を知らない少女を見出して、サーシャは絵を描きあって彼女と遊んでいるシタンに話しかけた。
「あら、シタンお友達?」
 ちょうどシタンと同じくらいの年の少女。
無造作に肩まで伸ばされた栗色の髪。部屋へと入って来たサーシャとクィーナを見上げる彼女の瞳はこの家の誰もが持たない黒であった。
 シタンは今までにも友達を家に連れてきたことがあるが、この少女は初めて見る。隣に立っている娘に視線をやってみるも、やはり同様に知らないらしく、クィーナは首を横に振った。
 それなら新しい友達ができたのか、とサーシャが結論付けようとした時、シタンによって告げられた言葉に、彼の母と姉は驚愕することとなった。
 シタンは紙から顔を上げると、二人に向かって笑顔でこう言ったのだ。
「うん。帰る家がないって言うから今日から一緒に暮らすことにしたの」と。
 
 
「猫じゃないから元あったとこに捨てて来いってわけにもいかないしなぁ……」
 帰って来て早々、突然シタンが家に連れてきたという少女の存在をサーシャから聞いたガジェンは、苦い笑みを漏らした。
 当の少女は久しぶりに口にしたらしい温かな食事と風を避ける為の家があるという安心感からか、シタンと一緒にぐっすりと眠りについていた。
 少し開いたシタンの部屋の戸口に立ち、サーシャとガジェンは一緒に中の様子を見やりながら彼女の処遇について相談していたのだ。
「もう随分長い間一人で暮らしてきたらしい。親の存在を知らないらしいから本当にほんの小さな時に捨てられたんだろう」
 今でもこんなに幼いのに、とサーシャは悲壮を露わにする。
「身勝手な奴もいたもんだ」
「でも、ガジェン。きっと彼女の親の方も子を捨てねばならないほどに窮していたんだろう……一概にそんなことは言えない……」
 魔女であるサーシャはそのことをよく理解している。砦を訪れる相談者の中には少なからずそうした事情を持つ者も含まれているのだ。そんな時、彼女は他の相談者から礼として受け取った物の一部を分けてやる。多大な魔力を持っているといっても、彼らの生活を変えてやることはできない。何もしてやれない現実に悔しさとやるせなさを覚えても、やはり彼女にできることは少ないのだ。
 顔を歪めて俯くサーシャの頭へとガジェンは手をやり、引き寄せた。
「それでも……やっぱり俺は親の身勝手だと思うぞ? 窮しているなら尚更だ。親が子を手放したら、親は少しは楽になるかもしれない。罪悪感はあってもな。
けど、子の方はどうなる? 元々窮していたんだ。なのに、子だけ一人放り出されたらもっと困窮するのは目に見えてるだろう。大人よりもできることだって少ない。辿る道は二つに一つだ」
飢えによる死か、暗く深い闇に墜ちるか。そして、闇に墜ちれば最後。罪に手を染めることさえも彼らにとっては生きる為の手段でしかない。
そのことを暗喩したガジェンは「まあ、海賊やってた俺が言うのもなんだけどな」と笑う。
「だけど、な……? だからこそ言えるんだ。うちのならず者たちは、みんなそういう出の奴らばっかりだったからな」
「ガジェンも?」
 見上げ、静かに問う妻に、ガジェンはただ穏やかに微笑む。
「だから、俺はサーシャに会えて良かった。じゃなかったら今も海賊を続けてただろうな」
 人だけは殺さないと決めていたとしても、かつての海賊たちが行ったのは確かに奪略行為で、刑を与えられるべき犯罪でしかない。
彼らの頭であったガジェンはそのことをよく知っていた。そして、ようやく彼らを止めてくれたのが、たった一人の魔女だったのだ。
 サーシャはガジェンの手を両の手で包み込んだ。自分の手よりも少し小さな彼女の手の温度を感じながら、ガジェンはもう片方の手でサーシャの黒髪を撫でた。
「あの子の名前は?」
「名前は無いって言ってた。ただ、シタンは彼女のことを“スイ”って呼んでる」
「スイ?」
「あの子の瞳の色が黒なの。シタンは“この前お話に出てきた黒水晶みたいだから”って」
「黒水晶の“スイ”か……シタンらしい」
 ガジェンは笑う。それは話に出てくる悪いジーニー(魔神)の持ち物で、しかし、シタンはそのジーニー(魔神)のことを何故か気に入っていたのだ。
「黒水晶が持つ本来の意味は、“邪気を払う”。そして、“未知なる可能性”」
「なら、悪くない。シタンの命名通り“スイ”だな」
「育てるの? それが持つ意味ちゃんと理解してる?」
「金のことならうちはまだ余裕があるだろう」
「そうじゃなくて。私もお金のことは心配してない。多分あと二、三人増えたって問題無いくらいだ。
ただ、もし引き取って育てると言うなら、これからのあの子の将来は全部引き受けて責任を持たなきゃいけない。ガジェンは大丈夫?」
 問い掛けてはいるが、サーシャがスイを外に放りだすつもりはないことは知れていた。
 それでも、彼女は問わなければならないのだ。ガジェンの覚悟がいかほどのものかを見極める為に。
 だから、ガジェンは添えられていたサーシャの手を握り返した。
「サーシャが手伝ってくれるなら」
 じっとガジェンを見据えるエメラルドの瞳は、彼の言葉にふっと和らぐ。
「ガジェンが手伝ってくれるなら」
 サーシャもまた、ガジェンの手を包む両手に力を込めた。
 
「それに、だ」とガジェンは続ける。
「子どもはいつだって幸せを運んで来るものだろう? アズーはサーシャを運んできてくれた」
 今度は何が運ばれてくるのか楽しみだな、と。
 
こうして、彼らの家に新たな女の子、スイが加わることになった。
 黒い瞳をした小さな女の子は、これからサーシャとガジェンが、彼らの家族の一員となるはずの子どもたちを受け入れる最初のきっかけとなる。
 しかし、この時、サーシャとガジェンは後の出会いをまだ知らない。
ただ、微笑みながら眠るシタンとスイが「一体何の夢を見てるのだろう」と想像し合いながら、二人は静かにシタンの部屋の扉を閉めたのだ。
 
 
 
 
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