ラピスラズリのかけら 5:継がる名 2 潮風はひそやかに

 

「アズー」
 いくつもの白い帆が強い海風を受けてはためいて音を立てる。
 帆船がそこかしこに整然と並んでいる港の一端、一艘の雄大な船の前で綱を捌いている男たちの中に見知った顔を見つけたフィシュアは手を挙げた。
「おう、フィシュア姫か!」
「だから、姫はやめてっていつも言ってるでしょう?」
 アズーは作業の手を止めると、仲間に受け渡して、その場から離れた。
駆け寄って来たフィシュアを受け入れ、彼女の頭へ、ぽむと日に焼けた手を置くと、アズーは「悪い、悪い」と言って笑う。
 落ち着いた茶の髪に、海のような鮮やかな青の瞳。アズーの服には海と同じ潮の香りが混じる。
「久しぶり、フィシュア。今帰り?」
「そう。アズーは今から出港なの?」
「いや、こっちも今帰って来たところ」
「今回はどこに行ってたの?」
「ラマルだ」
「東の端の小国か。ずいぶん遠いところまで行ってたのね」
「まあな。ちゃんとお土産もある。えっと、フィシュアの分はいつ会ってもいいように確かここに入れたはず」
 アズーは足首で裾が絞られている以外はゆったりと膨らんでいる麻のズボンの左のポケットに手を入れると、がさごそと漁って、目当てのものを引っ張り出した。
 彼の掌に載せられたのは薄桃の磨りガラスを丸くかたどったものを幾つも組み繋がせた腕飾りだった。
「なんかラマルのお守りらしい。フィシュアはあっちこっち回ってるからな。いつも無事であるように」
 そう願いを込めながらアズーはフィシュアの左手首へと磨りガラスの腕飾りを付けた。
 貰ったばかりの腕飾りを、フィシュアは贈り主に掲げて見せながら微笑む。
「ありがとう。でも、なんだか、この色は私には可愛すぎるかも」
「そんなことないさ。ロシュにも買ってこようと思ったんだけどな。そっちにはさすがに似合わなそうだからやめといた」
「それは正解かも」
 フィシュアはクスクスと可笑しそうに笑いながら、常に朗らかな微笑みを浮かべている彼女の護衛官を思い浮かべる。似合わなくもないかもしれないが、やはり武人然とした彼が薄桃の腕飾りをつけたらどこかちぐはぐした感じが否めないだろう。
「―――で、そのロシュはどうしたんだ? フィシュアが一人でいるのは珍しい」
「今回はちょっと別行動とってたからね。まだ帰って来たばかりでロシュとは会ってないの。今回の連れはあそこに居る二人」
 フィシュアが指し示した方向へとアズーは目を向ける。
 彼の目に映るのは栗色の髪の幼い少年と、黒髪の異国の男だ。
「また、随分と変わった連れだな。黒髪ってことは母さんと同じ東の出か?」
「そう、カーマイル王国。まあ、色々あってね。途中で別れるはずだったんだけど、結局皇都まで連れて来ちゃったのよ」
「そうなのか。まぁ、それも何かのめぐり合わせだろう。フィシュアにとって悪い方に動かないならそれでいい」
「ええ、それは心配しなくても大丈夫」
 藍の瞳に穏やかな光を宿して彼ら二人を見つめるフィシュアに、アズーは頷くと「それにしても」と苦笑しながら続けた。
「なんかあの子、海に落ちそうだな」
 時折、白い波が起つ、真昼の海を一心不乱に見続けている少年。もっとよく見ようと港の縁に体を乗り出そうとする少年の袖を、男が引っ張り、かろうじて押し留めていた。
「ああ、テトは海を見るのが初めてらしいのよ。すっごく感動したみたいでなかなか動きそうになかったから、アズーを見つけた時にシェラートに頼んで、ちょっとだけこっちに来たの。アズーに少し話しておきたいことがあったから。シェラートに任せておけば万が一にもテトが海に落ちることなんてないから安心して?」
「仲がいいんだな」
「ええ。あの二人は傍から見ていても、とても仲がいいわ」
 フィシュアの言葉に、アズーは軽く握った手を口に当てて苦笑する。
「あの二人がじゃなくて、フィシュアと、だ。すごく優しい顔してる。大切なんだな」
 顔を上げたフィシュアに向かって、アズーは青の瞳を細めて柔らかに笑む。
「それで? 話っていうのは?」
「……あ、ええ……」
 言葉を濁したフィシュアは、けれど凪いだ海のように静かに見下ろす青の瞳に促され、次の瞬間にはアズーをしかと見据え、口を開いた。
「もしかしたら、近いうちに家に伺いに行くかもしれない」
「ティア達か?」
「いいえ、サーシャ様の方」
 重々しいフィシュアの口調に、アズーは怪訝気に眉をひそめる。
「なんだ、何かありそうなのか。シュザネのじいちゃんには?」
「老師(せんせい)にはこれから言いに行くけど、義姉様からもう話は通ってると思う」
「そうか……。クィーナにも声かけてた方がいい?」
「できるのならば」
「分かった。任せとけ。俺たちにもできることがあったら言ってくれよ。父さんもまだなんとか使えると思う」
「そんなこと言ったら怒られるわよ。今でこそアズーが追い抜かしちゃってるけど、アズーに剣術を教えてくれたのはガジェン様でしょう?
だけど、警備隊だけで何とか手が打てないものかとは思ってる。アズー達の手を煩わせない為にも。でも、もしもの時は手伝いを頼むかもしれないから。詳細はその時に話す」
「何も無いのが一番いいんだけどな」
「善処します」
 憂いなく元通りの微笑みを浮かべたフィシュアの姿に、アズーはまた苦笑しながら「呼んでる」と彼女の視線を少年と男が佇む方向へと促した。
 見ると、テトがこちらに向かって大きく手を振っている。
「ちゃんと伝えとくから必要になったらすぐに言うんだぞ!」
 連れの二人の方へと駆けだしたフィシュアの背中に、アズーはそう投げかけた。
 一度振り向いてみせたフィシュアは「ありがとう」と笑って、これもね、と薄桃の腕飾りを指し示す。
「本当に何も無いといいんだけどなぁ……」
 嘆願の入り混じるアズーの呟きは強い潮風に煽られ、フィシュアに届くことは無かった。
 
 
「ありがとう。お待たせ」
 戻って来たフィシュアの藍の瞳を、テトはじっと見上げ、次いで首を傾げた。
「え、何? どうしたのテト?」
 帰ってきて早々、「う~ん」と唸りながら自分を見つめているテトに、フィシュアは目線の高さを合わせる為に膝を付いて腰を落とす。
「うん、やっぱりちょっと違うみたい」
「何? 何の話?」
 答えを求めるべく、フィシュアはテトとずっと一緒にいたはずのシェラートを見上げた。不思議そうな彼女の視線を受けたシェラートは、ふと口の端を上げて笑う。
「フィシュアの瞳の色が海の色とは違ってたんだとさ」
「ああ……」
 そういえば、初めて出逢った時、テトはそんなことを言っていたな、とフィシュアは思い出した。なんだか、それも随分と昔のように思える。けれども、実際はまだ一か月ほどしか経っていないのだ。
「どっちも綺麗な青だけど、フィシュアのはやっぱり首飾りの……ラピスラズリの色に似てるよね。ね、シェラートもそう思うでしょう?」
「ああ、そうだな」
「なんかやっぱりシェラートはどうでもよさそうね」
 相変わらず興味なさげなシェラートの言葉をフィシュアはどこか可笑しく感じる。
「まあ、どうでもいいからな。瞳の色が何に似てようが人の本質には関係ないだろう」
「それはそうだけど」
「もお! シェラートは難しいことばっかり。僕はただフィシュアの瞳の色が綺麗って言ってるだけなのに」
 むくれるテトと一緒にフィシュアは非難をこめて、「ねぇ~」と互いに首を傾げてみせる。
「まあ、瞳の色は確かに綺麗だと思うけど」
「悪かったわね、顔は綺麗じゃなくて」
「誰もそこまで言ってないだろう」
 よいしょっという掛け声と共に立ち上がったフィシュアに、シェラートは呆れた口調で言う。
「けど、フィシュアは綺麗っていう部類には入らないだろうな。肌も白くはないし」
「仕方が無いでしょう。ずっと外を歩いてるんだもの。日に当たれば焼けちゃうし、染み付いちゃった荒れはいくら手入れしても治らないんだもの」
「だけど、それがフィシュアだろう」
 シェラートは困ったように苦笑してみせると、一度だけフィシュアの頬を撫ぜて言った。
「別に肌が荒れてても、そういうのが積み重なって今のフィシュアが出来てるんだからな。それはそれでいいんじゃないか?」
 予想もしていなかったシェラートの言葉に、フィシュアは虚を突かれたように押し黙った後、一つ溜息を落として苦笑いを浮かべた。
「ごめん……なんか、シェラートがそういうこと言ったりすると本当に調子狂うんだけど。ちょっと、やめて欲しい」
 不審も顕わに見上げるフィシュアを目にして、シェラートの方はただ面白そうにふっと吹き出して、フィシュアの頭を軽くぽんと叩いた。
「―――ったく、面倒臭い奴だなあ。褒めてやっても文句言うのか。せっかく最大限に褒めてみたのに」
「最大限って、失礼ね! しかも、褒めてみたって、ちっとも褒めてないじゃない!」
 憤然とするフィシュアをよそに、シェラートは「行くぞ」と告げて、テトを抱き上げる。
「ヴィエッダとの約束の品も全部買い終えて送ったし、後、寄る場所は皇都の警備隊の詰所だけなんだろう? なら、早く行こう」
 抱き上げられたテトはシェラートの肩からひょっこりと顔を出すと「大丈夫、フィシュアはちゃんと綺麗だよ!」と立ち止まっているフィシュアに手を振ってみせた。
 
「うぅ……テトの言葉も今は慰めにしか聞こえない」
 フィシュアは項垂れながら、顔を歪める。
「―――だけど、もう、本当にやめて欲しいのよ…………」
 フィシュアは小さく溜息を落として前を進む二人を見据える。彼女は一度、自身の頬を手の甲で拭うと、大分距離の開いてしまったテトとシェラートの後を追い駆けたのだった。
 
 
 
 

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