ラピスラズリのかけら 5:継がる名 3 蜜月の破片【1】

 

「うわぁ! これってさっき遠くから見たのとおんなじ建物だよね!?」
人混みに巻き込まれないようにとシェラートの肩に乗せられていたテトは、それでも遮られていた視界の先、ようやく開けた人の垣根よりも広く、崇高にそびえ立っていた皇宮の姿に圧倒されていた。
小さな口を際限まで開いたまま、先程荒れ野から見たばかりの皇宮の屋根の天頂を見極めようと、テトは必死に首を空へと反らす。そんなテトの姿に微笑みながら、フィシュアは「ええ」と首肯した。
「さっきの場所から見た時も大きく見えたけど、間近だともっと大きいでしょう? 中はもっと広いのよ。後で入ったらテトきっとびっくりするから」
だけど今からはこっちね、とフィシュアは皇宮の門のすぐ手前に位置する石造りの建物を目で示した。
都全体の建物と比べてみれば、こちらの砦も随所に飾りが施され、豪華と言える。
しかし、微妙に違う様々な青い石と、それらを引き立てるように埋め込まれた他の色の石によって、緻密に計算し尽くされ、かたどられた花と蔦(つた)、鳥といった皇宮の壁面の紋様――――人々は先に目に飛び込んでくる皇宮の絢爛さに目を奪われ感嘆の溜息を漏らす。だからこそ、彼らは次に目についているはずの自分たちの横に佇んでいた砦の豪奢さには何の感慨も抱かないのだ。皇宮の鮮やかな青に対し、同等に切り出された灰の石を積み重ねた造りも堅固な印象を与えると同時にどこか質素な印象を与える要因の一つであろう。
とにかく、そんな建物こそが、各地に詰所を張り巡らされ、各々の地で民の治安を守るダランズール帝国警備隊の本部であった。
 
 
 直立不動で立っていた警備隊本部の四人の門番はフィシュアの姿を目の端に捉えると、もともと直線だった背をさらに伸ばし、最高敬礼をとった。
 フィシュアは至極当然のこととして彼らの礼を受け止め、「御苦労」とただ一言だけ返して門をくぐった。シェラートに肩車をされたままのテトは、門番達に向かってぺこりと頭を下げた。
 宵闇の姫の後に続いた少年と黒髪の男にも、門番達は少し笑みを浮かべはしたが、誰一人として訝しげな表情を浮かべはしなかった。
「ここって誰でも入れるのか?」
 咎められるどころか、一つの問答も無しにすんなりと砦の中に入れたことに対し、シェラートは問う。
「ええ、大体はね。警備隊を訪ねてくるのはほとんど一般の民の方だし、一応皇帝の管轄と言っても皇宮に置かれてる軍とは違って皇帝直轄ではないから、機密事項もそんなに多くはないのよ。まあ、だからと言って機密が無いって訳じゃないんだけど、警備隊はあくまで民の治安を維持するためにつくられた部署だからね。民に対しての門扉は常に開かれてるわ」
「―――皇宮、か……。さっきの話に戻るが俺たちが行く必要はあるのか?」
 フィシュアは先程、テトに後で皇宮に連れて行くというようなことを告げていた。だが、皇宮へと赴くのはフィシュアの報告の為であって、テトとシェラートには実質的には関係ない。一般の民にも開放されているという警備隊の砦なら入ることには何の問題もないだろうが、皇宮に入るとなると色々と面倒な規約も手続きも多いだろう。フィシュアが皇都での便宜を取りはからってくれるというのなら、それは有り難いことではあるが、だからと言って、シェラートはわざわざ皇宮に行く意義を見い出せはしなかったのだ。フィシュアが報告に行っている間、テトと共に外で待っておけば良いだけの話である。
 けれど、一体何の為に皇宮について行くのだ、と訝しがるシェラートに向かって、フィシュアの方は一体何を言っているのだ、と首を傾げた。
「“皇宮に行く必要があるのか”って、なら、これからどこで暮らすのよ? 行く当てないんでしょう?」
「確かに行く当てはないが……まさか、皇宮に行って、そのまま寝泊まりさせるつもりだったのか?」
「え? ええ。そのつもりだけど……何かおかしい?」
 それは無理だろう、と口を開こうとしたシェラートよりも先に、フィシュアは重ねて続ける。
「だって、家が見つかるまでわざわざ宿で暮らすなんて宿代が勿体無いでしょう? それなら、皇宮に住んだ方がいいんじゃない? 部屋だって有り余ってるから、すぐに用意できるだろうし。心配しなくても私がテトとシェラートを皇都まで連れて来ちゃったんだから、衣食住の面倒くらい見るわよ。それに、ほら、テトの皇立学校の手続きもちゃちゃっと終わらせちゃうから。皇宮からだったら学校も近いわよ?」
「学校かぁ……。僕、初めてだから緊張するな」
 シェラートの黒髪に顎を埋めて、まだ見ぬ学校へと思いを馳せ始めたテトに、フィシュアは微笑む。
「きっといろんなことを学べると思うわ。テトならすぐに学校に馴れて友達だってたくさんできるでしょうし」
「うん、頑張る!」
 張り切ってみせるテトを、床に下ろしつつ、どうやら今一つ噛み合っていないらしい会話にシェラートは軌道修正を試みることにした。
「そうじゃなくてだな……。いろいろ問題があるだろう」
「問題? 別にないけど」
 キョトンとした顔でフィシュアは見上げてくる。本当に分かってないらしいと知れる彼女の仕種を見て、シェラートは頭を掻きながら言った。
「自分で言うのもなんだけどな、身元が割れてないような奴を皇宮が受け入れてくれるのか?」
「身元? 見元なら割れてるじゃない。ミシュマール地方、エルーカ村出身の少年、テト。そして、カーマイル王国出身のジン(魔人)、シェラート」
 フィシュアはテトとシェラートを交互に指さしながら確かめる。「合ってるわよね?」と尋ねるフィシュアの問いにはテトの元気良い頷きが返った。
「ほら、大丈夫」
「“ほら、大丈夫”……じゃないだろう。テトはまだしも、それじゃ俺は明らかに怪しすぎないか?」
「そう? でも、皇宮って言ったって、何も皇族だけが住んでるわけじゃないのよ? 貴族だっているし、兵舎もあるから皇軍兵も住んでるでしょう? ……あとは侍医とか侍従とか侍女とか、皇立学校の為に地方から呼んだ教授だっているし……それから―――」
「―――分かった。もういい」
 際限なく続きそうなフィシュアの説明をシェラートは溜息と共に遮った。これ以上続けても、どうやら通じそうにないとシェラートは悟ってしまったのだ。
「そう?」と首を傾げるフィシュアに対して、「お前は一体何者なんだ」とシェラートは半ば呆れたように零す。
いくら皇帝から重要な任を与えられているとはいえ、皇宮滞在の采配を決めることができるのだろうか、という思考から零れたシェラートの呟き。しかし、それを額面通り受け取ったフィシュアは眉をひそめた。
 
文句を言おうと開かれた口は、けれども、フィシュアが彼女の護衛官の姿を目の端に捉えた為に、反論の言葉が零れ出る直前で笑みへと変わった。
「ロシュ! 本当に無事だったんだな」
喜色を露わに駆け寄ってきたフィシュアの右手を取り、茶の髪に澄んだ空色の瞳を併せ持つ武官は腰を曲げて彼女の甲へと敬愛の礼を落とした。
「そんなに簡単にはやられはしませんよ。そのことに関してはフィシュア様が一番信をおいていらっしゃるはずでしょう?」
「それでもさすがに今回は心配した」
ふと藍の瞳を細め、フィシュアはロシュの右頬に労いを与える。
「―――アエルナのことは後で、な」
彼女の後ろに佇んだままの二人には分からぬよう囁かれた命。顔を上げた次の瞬間には、綺麗に悠然とした笑みを刻んでいた主にロシュは「ご無事で何よりです、我が君」と深く頷きを返したのだ。
 
「……なんだか外国の御伽話みたいだね」
シェラートへ感想の相槌を求めるテトにロシュもフィシュアも揃って苦笑を零す。
「ラルー以来ですかね」
 朗らかに笑むロシュはフィシュアの手を取ったまま、テトとシェラートに向き直った。
 しかし、ロシュと会った記憶のない彼らはそれぞれ、テトは不思議そうな表情を、シェラートは怪訝気な表情を浮かべる。それも当然のこと。皇都からは遠く離れた、砂漠の始まりであり、終わりの街であるラルー。その地において、ロシュの方はフィシュアの命を受けて路頭に迷っているだろうテトとシェラートを捜したが、彼ら二人はそのことを知らない。
「―――ロシュ……」
 フィシュアに睨まれたロシュは一度肩を竦めてみせ、テトとシェラートの疑問には答えず、ただ二人に対して礼をするにとどめた。
「お初にお目にかかります、シェラート殿、テト殿。私はフィシュア様の護衛の任を仰せつかっておりますロシュと申します。フィシュア様の便りから噂はかねがね。ご迷惑をおかけしました。大変でしたでしょう?」
 さらりと口に乗せられたロシュの謝罪に、フィシュアは半眼した。それを受けたロシュはただ主の手を取る自身の手に力を込める。
「フィシュア様。また、御無理をなさいましたね?」
「何で―――!?」
 報告書には上げてないのに、と続く言葉を呑みこんだフィシュアは顔を引きつらせながら後ずさった。けれど、それもロシュに手をがっちりと掴まれている為、彼から二人分ほど離れるのが限度だ。
「ああ、大変だった。無茶ばっかりして」
「毒とか病気でフィシュアが倒れちゃった時は本当にびっくりしたんだから!」
「自ら進んで贄になろうとするしな」
「テト! シェラート!」
 叫ぶフィシュアの横で「ほう」と呟いたロシュはようやく彼女から手を離した。
「後で詳しい話を伺ってもよろしいでしょうか、シェラート殿、テト殿」
「分かった」
「いいよ」
 同時に首肯してロシュの申し出を請け負った連れの二人を、フィシュアは恨めしそうに見やる。
「もう、いい。仕事する……」
「残念。逃げようったって仕事はありませんよ。フィシュア様なら先に砦にお立ち寄りになるだろうと思って今ある仕事は全て片付けておきましたから」
「……なら、ホークに会いに―――」
「それも無理です。オギハ様の命を受けて今朝出て行きましたから。フィシュア様が数日中にお帰りになることを知っていた手前、至極不本意そうでしたが」
「兄様が? だけど、兄様なら他にもファイをたくさんお持ちだろう」
 フィシュアは顔を上げ、眉をひそめた。
 強靭な茶の翼で空を行く早文用の鳥であるファイ。フィシュアが所有しているのはホーク一羽のみだが、彼女の兄は少なくとも二十羽は所有している。
 それにもかかわらずホークまで駆り出されたということは、飛ばす文に対してファイの数が足りなかったということだ。
 そこまで結論付けたフィシュアは、軽く息をつき、「それなら」と彼女の護衛官に目をやった。
「仕事もないし、ホークも居ないなら大人しく皇宮へ向かうか」
「その後、フィシュア様の方からもじっくり話を伺いましょうか」
 にっこりと笑みを浮かべたロシュに、心底嫌そうな視線を向けたフィシュアは口をつぐみ、門へと続く回廊を戻り始める。振り返った場所に立っていたテトへと微笑んで、フィシュアはテトの手を取った。
「さあ、テト。今から皇宮の中に入れるからね」
「こら、フィシュア。逃げるな」
「逃げてない! 大体シェラートがあんなことロシュに言うから」
「事実だろう」
「でも、ロシュはしつこいんだからね」
「酷い言われようですね。フィシュア様が無理ばかりなさるのが一番悪いと思うのですが。何度進言しても聞き耳を持ってくれませんし」
「同感だ。自分からもうしないとか誓っときながら、結局すぐに破るしな」
「そうなんですよね。もう、常について見張っておくしか法はないのですよ」
 なぜか結託し始めたロシュとシェラートの二人を睨みつけると、フィシュアはそそくさと逃げることにして足を速めた。
「だめだよ、フィシュア。僕にも砂漠でちゃんと怒ってくれたでしょう? フィシュアも心配掛けるような悪いことしたならちゃんとロシュさんに怒られないと」
「うぅ……テトまで……」
 じっと見上げてくる黒い瞳には勝てるはずもないフィシュアは、素直に諦めて、小さく嘆息した。
「分かった。後でね」
 フィシュアを見事に諭してみせた少年の姿に、ロシュはただひたすら感心する。
「すごいですね。私よりもテト殿に叱っていただいた方がフィシュア様には効果があるやもしれません」
「だろうな。誰もテトには敵わないから」
 そのことを何度も経験してきているシェラートは苦笑しながら、テトを再び抱え上げ、自身の肩へと乗せた。項垂れたままのフィシュアの頭をポンポンと撫でて、歩くよう促す。
「諦めたか?」
「……諦めざるを得ないでしょう」
「まあ、せいぜいしっかりと怒られるんだな」
 フィシュアは共に歩を進めているシェラートをちらりと見上げ、再び前を向くと組んだ両手を上に伸ばして背伸びをした。
「まあ、いいや。シェラートのカルレシアの解毒剤よりかはロシュの説教の方が幾分かましよね」
 フィシュアの呟きに、シェラートは背伸びし続けているフィシュアを見やって、ふっと口の端を上げた。
「フィシュア、お前自分から墓穴掘ってどうする」
「へ!?……あ、ああぁっ!」
 シェラートの言葉の意味を察したフィシュアは上に伸ばしていた両手を、ストンと下に落とした。
「先ほどテト殿が毒と仰っていたのはカルレシアのことだったのですか」
 後ろから聞こえてきた怒りを含んだ低い声に、フィシュアは己の失態を悟った。それでも怒鳴りはしない静かな声音に、フィシュアは後ろを振り返る。そこにあったのは苦虫を噛み潰したような表情のロシュの姿で、だからこそ、フィシュアは口にしてしまった失態をなお一層後悔した。
「―――体に影響は?」
「大丈夫だ。今はもう何ともない。すぐにシェラートが処方してくれた解毒薬を飲んだ。ミシュマールの病に対する処方薬をつくったのもシェラートだ。腕は確かだと分かるだろう? 安心していい」
 だが、なおも疑わしげな目を崩そうとしないロシュの視線を受け、フィシュアは困ったようにシェラートへと助けを求めた。
「カルレシアにやられたと言っても、意識はちゃんとあったしな。フィシュアの体にはもともと抗体ができてたようだから、実際には三分の一も毒に関しての効能は無かったみたいだ。それでもまあ、熱とかは出たけどな、だから、治りも早かったし、後遺症もないだろう」
「……じゃあ、毒に体を慣らしてたのも結構効果があったのね」
 初めて聞いた事実に頷きつつ、フィシュアが漏らした呟きはどこか満足げでもあった。しかし、それを耳聡く聞いていたシェラートは思いっきり顔をしかめた。
「フィシュア」
 厳しい翡翠の双眸に睨まれたフィシュアは、気まずそうに目線を床へと落として、溜息を付いた。
「ごめん。悪かったわよ」
「―――っ前は、本当に分かってるのかよ?」
 呆れたように頭上へと落ちた問いに、フィシュアは頷く。
「ええ、ごめんなさい。―――ロシュにも悪かった」
 申し訳なさそうに吐かれた謝罪に、ロシュはようやく安堵したように長く息を吐いた。
「もう終わったことですし、フィシュア様が無事なら今は良しとしましょう。ですが、カルレシアの件に関してはオギハ様に報告を上げさせてもらいますよ」
「兄様に報告する必要はない。今回のは刺客の類じゃないからな。兄様の手を煩わせるまでもないだろう」
「それでも、です。今回の件に関してはオギハ様から直接お叱りを受けて下さい」
「うう、余計嫌だ」
 フィシュアは呻いてみたが、ロシュからは「フィシュア様が悪いのです」という冷ややかな答えが返って来たのみだった。
 まさに彼の言う通りで、返す言葉もないフィシュアにロシュは続ける。
「どちらにしろ皇宮へ向かわねばならないのですから、そのついでにしっかりと怒られて下さいね」
 フィシュアは「分かってる」とひらひらと力なく手を振って、ロシュの言葉を請け負う。
「それから……馬はどうしましょうか?」
「ああ。この人数だからな。うち二人は顔を知られてないし、面倒だから馬車を用意させようと思ったのもあってここに寄ったんだ。まあ、一緒に居れば見咎められることもないだろうが、一つの馬車に乗って身内であることを証明した方が何かと早いからな」
フィシュアの言葉を受け、ロシュは「そうですね」と首肯する。
「ねぇ、フィシュア。皇宮ってここのすぐ隣なのに、どうして馬車がいるの?」
 シェラートの肩に乗っかっているテトは不思議そうに尋ねた。警備隊の砦から皇宮の入り口までは目と鼻の先。もっともであるテトの問いに、フィシュアは微笑む。
「あのね、テト。確かに皇宮はここからすごく近いけど、それは門が近いだけなのよ。さっき見た建物も皇宮の一部ではあるけど、その実質の役割は門で、見張りの兵や仕入れの商人しか出入りしてないの。ほら、野から見えた皇宮の丸屋根はさっきいくら見上げても見えなかったでしょう? 三つの丸屋根が付いている建物からなる本宮は門をくぐって、前庭を越えてずっと奥まで進んだところにあるの。普通に歩いて行ったら一時間はかかるのよ。だから、馬車に乗って行くの、疲れちゃうからね」
「そんなに広いの?」と目を丸くさせたテトに対して、「そう、そのくらい広いのよ」とフィシュアは笑う。
「それでは、私は一足先に行きます。馬車の用意をいたしますから、砦の門で待っていて下さい」
「ああ。任せた。
―――っと、シェラート、私達も馬を返しに行かないとね。ここに転移させるのは無理だから、一度庭に出ましょうか」
「ああ、それなら私と共に来て下さいますか、シェラート殿。どうせ厩に向かうのならば私が一緒に馬を返しておきます」
 フィシュアがシェラートを見ると、ちょうどロシュの提案にシェラートが同意しているところだった。
「なら、シェラート、私はテトと先に行っておくからよろしくね。
ロシュも、後は頼んだ」
「ええ」とフィシュアに頷きを返しつつ、ロシュは「それにしても」と苦笑する。
「なんだか、ややこしいですね、フィシュア様。口調を分けるのは疲れませんか? いっそのこと私に対してもシェラート殿たちと同じ口調で構いませんよ。事実以前はそうしていたのですから」
「ロシュ……一体いつの話をしてるんだ」
「そんなに昔のことではないでしょう」
「随分と昔だろう。それにテトとシェラートには裏の仕事もこの口調のこともすでに知られてるから、いい。なによりも、もう癖で意識して直しながら話す方が疲れる」
「それならよろしいのですが」
「じゃあ、後で」
 片手を上げたフィシュアに倣って、テトも佇んだままの二人へとぶんぶんと手を振った。
 
 
 フィシュアとテトを見送ったロシュは「行きましょうか」とシェラートを促して厩に向かった。
 辿り着いた厩の端、初めて転移の技を目にしたロシュは息を呑んで、目を瞠る。
「聞いてはいたものの、実際に目にするとやはり驚いてしまいますね」
 影も形もなかったはずの二頭の馬は、厩へと入れられ、今は大人しく干し草を食んでいる。そのうちの一頭のすっきりとした鼻梁を撫でながら、ロシュは馬番に馬車の用意を言付けた。
「なあ、聞いてもいいか?」
 シェラートの問いに、ロシュは馬から顔を上げると、翡翠の瞳の持ち主へと目を向ける。
「先程の話ですか?」
 核心を問い返されたシェラートは虚を突かれて一瞬押し黙り、けれど、すぐに「察しがいいな」と苦笑した。
「察しが良くないとフィシュア様の傍には仕えられません。あの方はすぐに隠そうとするから」
「顔に出るけどな」
「そうですね。分かりやすいのが、唯一の救いです」
 ロシュは苦笑しながら、嘆息する。
「昔……というか、私にとっては本当につい最近のように感じるのですが、それでも、やはりフィシュア様の中では遠い昔の話なのでしょうね。フィシュア様が公と私を完全に分けられるようになったのは十歳の時からですよ。それよりも以前は私に対しても、警備隊に対してもシェラート殿達と話されてるような口調でした」
「護衛官……お前が瀕死になったから」
「ああ、聞いたのですね」
「カルレシアの毒で臥せってた時にな。多分、あの時はフィシュア自身が弱ってたから口を突いて出たんだろう」
「そうですか」とロシュは呟き、彼の瞳と同じ色の空を見上げる。高く、青く澄んだ空には、筋状の雲が伸びるのみ。
「そうです。その護衛官は、私です。明らかに私の失態であって、フィシュア様が気にするようなことではないと何度も申し上げているんですがね。やはり、まだ気に病まれていたのですか……
 ですが、フィシュア様が居るのは甘さが命取りの世界ですからね、結果的には私は彼女の悔恨を利用したのですよ。しかしそんな世界だったからこそ、最初は大変だったのです。私もフィシュア様も幼かったですから。特に、フィシュア様は泣いて、いつも自分の役目を嫌がられていました」
 あの頃はさすがに胸が痛みましたとロシュはしみじみと語る。
「宵の歌姫としてのフィシュア様に出会ったのは私が十五の時ですから、ええと……フィシュア様が御年七歳になられた時ですね。
―――ああ、ということは、今考えると三年しか泣いてはおられなかったのか。あれでも短かったのですね……」
最後のロシュの独白めいた呟きは、シェラートの耳にはほとんど届かなかった。ただ、フィシュアと、目の前にいる男の旅路が始まった時の幼さに、彼は眉をひそめる。
「十五に七か。七歳なら、今のテトよりもまだ小さいな」
 十の時にはもうすでに、宵の歌姫としての任に就いていたことは知っていた。それよりも以前に彼女の役割は始まっていたのだろうと漠然と思ってはいたが、実際にその年齢を聞かされるとただひたすら幼なすぎると感じる。
「先代の宵の歌姫様が早くに亡くなられてしまいましたからね。けれどもそれも、珍しいことではないのですよ。最年少では五歳の時に宵の歌姫になられた方がいらっしゃると記録には残っています」
「けど、フィシュアの場合は他にも四人の姉がいるんだろう?」
 自分は五番目に生まれた女の子だからフィシュアなのだと、彼女は言っていた。なのに、なぜ選ばれたのだろうと、シェラートは疑問に思う。もしも、フィシュアが宵の歌姫を代々つとめる家に生まれつき、その中でも特に歌が上手かったのだとしても、旅を強制するには何かと不都合が生じる年齢だ。
 しかし、ロシュはシェラートの疑問に苦い笑みをつくった。
「……だから、ですよ。フィシュア様が五番目の女児としてお生まれになったこそフィシュア様は宵の歌姫になられました。私の場合は代々宵の歌姫の護衛官を多く排出する家柄ではありますが、絶対に彼女の護衛官になるとは決まってはいませんでした。護衛官というよりは、もともと武術に長ける家々の子の中で最も才があったからこそ見込まれて、任を与えられたのです。私自身も進んで命を受けました。けれど、フィシュア様の場合は、五番目の女児として生まれついた瞬間から、すでに宵の歌姫となることを定められていたのですよ」
 そこまで告げてしまうと、ロシュは微笑の裏に感情を排して、「あまり待たせてはいけませんので」と話を打ち切ったのだった。
 
 
 
 パカパカと一定の間隔で鳴る拍子に引かれて、馬車につけられた車輪はくるくると回る。
 ゆっくりと流れ行く庭の景色を眺めていたテトが、どこまでも続くかに見えた綺麗に刈り取られ配された植物の群れに飽き始めた頃、馬車に繋がれた六頭の馬はようやくその歩みを止めた。
 左右に開け放たれた馬車の扉、先に降りたロシュに手を取られて、フィシュアは地へと降り立った。馬車と地面には決して低いとは言えない程の高さがある。テトが転落してこけないようにと、小さな体を抱え上げたシェラートは先に降りたフィシュアとロシュの後に続いた。
 
「そちらの方は?」
 問うたのは白髪の入り混じる初老の男。彼は紐で固定された眼鏡の奥にある水色の瞳を細めて、今しがた馬車から降りてきたばかりの二人を頭のてっぺんからつま先までまじまじと眺め、見極めようとしていた。
「そう警戒しなくてもいい、ファッテ。テトとシェラート、彼らは私の客人です。それよりも、ここで待っているということは何か急ぎの用件があるのでしょう?」
 ファッテと呼ばれた男はフィシュアの言葉に「はい」と頷きを返す。
「皇都に到着されたとの連絡を受け、ここでお待ちしておりました。けれども、まずは無事に帰還為されたことに対する祝いの言葉を。お帰りなさいませ、フィストリア様」
「ええ、ありがとう。―――それで?」
すぐに先を促してくるフィシュアに対して「老いぼれをあまり急かさないで下さい」とファッテは苦笑を浮かべる。
「皇太子妃様が謁見の間にてお待ちです。着替えは必要ないので、到着したならすぐに顔を出して欲しいとのこと」
「何かあったの?」
 顔を険しくしたフィシュアとは対照的に、ファッテはクスリと笑みを零し、片手で眼鏡を上げた。
「そうではなくて、きっと寂しかったのでしょう。今回はフィストリア様が皇宮を開けておられる期間が長かったですから」
「そう」
 フィシュアはほっと安堵の溜息を落とす。頷きを返したフィシュアは、今度は艶やかに笑んでみせた。
「伝言確かに承りました。ちょうどテトとシェラートの滞在についてお伝えしたいこともあったし、今から直接向かうと、先触れをよろしくお願いします」
「はい、かしこまりました。
―――それよりも、フィストリア様……後ろのお客人が揃って固まれておられるようなのですが?」
「へ?」
 ファッテの言葉に従って、フィシュアは後ろを振り返った。彼が告げた内容通り、テトとシェラートはどちらも固まって立ちつくしたまま、目だけをフィシュアに向けて瞬き一つもせず、彼女を凝視していた。テトなどは、さらにぽかんと口を開き、フィシュアに向かって指差している始末だ。
「え? ええっ? 何? どうしたの!?」
 一向に言葉を発しない彼ら二人の後ろに控えていたロシュは呆れたように自分の主を見やった。
「フィシュア様……皇宮に連れてくると決めていたのに、彼らにちゃんと話をしていなかったのですか?」
「―――そういえば話して無かった、けど…………でも、そんなに驚くこと?」
「しかし、実際に言葉を無くすほど驚いているではありませんか」
 フィシュアは口を開いたままのテトを見やる。それによってようやく戒めを解かれたらしいテトは、フィシュアをじっと見据えたまま固まっていた口を動かした。
「……フィス(五)、トリア(姫)……?」
 掠れ、途切れながらも何とか紡がれたテトの声に、ロシュは肯定の頷きを返してやる。
 
 
「そうです。フィシュア様はフィストリア(五番目の姫)―――つまり、ダランズール帝国第五皇女にあらせられます」
 
 
 
 
 
 

(c)aruhi 2008