ラピスラズリのかけら 5:継がる名 4 蜜月の破片【2】

 

「じゃあ、フィシュアってのは偽名なのか?」
 シェラートが問うと、フィシュアは首を横に振った。ファッテと呼ばれた侍従を先に行かせて、フィシュアはテトとシェラートの方へと再び向き直る。
「いいえ、フィシュアはれっきとした私の本名よ。前に言った通り兄姉が多すぎて、もう名前が思いつかなかったらしいのよ。フィストリアの方は五番目に生まれた姫の総称ね。もう、名もフィストリアでいいんじゃないかって言った母様を周りのみんながややこしくなるからやめてくれって止めたらしいわ」
「それならフィシュアは本当の本当の本当の本当の、本当にっ、この国のお姫様なの!?」
「そんなに疑わなくても……」
 テトの勢いのある、そして、どこまでも念入りな確認にフィシュアは至極複雑そうな表情を浮かべた。
「だけど、どう考えたって姫って柄じゃないだろう」
 やはりテトと同様に目の前の人物がダランズール帝国の第五皇女であるとは信じきれないシェラートは、フィシュアの姿を上から下まで眺めてみた。
腰の部分で紐を使って縛っただけの丈の長い白の衣は薄汚れて黄味がかり、その下に履いている同色のズボンは明らかに動きやすさを重視したもの。装飾具といったら、宵の歌姫の証であるラピスラズリの首飾りと先程知り合いの船乗りから貰ったという薄桃の磨りガラスの腕飾りだけ。どちらかというと先程までフィシュアの横に立っていた侍従の男の方が小奇麗な格好をしていたくらいだ。
「失礼な! ほら、“宵の歌姫”も“宵闇の姫”にも“姫”がついてたでしょう? どちらも“姫”がその役割を担ってたから“姫”がついてるのよ」
「そんな訳あるか。なら、警備隊の奴らもみんなフィシュアが姫だって知ってるのか?」
「いや、それは、皇都所属の一部しか知らないけど……」
「ほらみろ。適当なことばっかり言うなよ。大体、どうしてこの国の姫が普通に外を旅してるんだ。姫が歌姫なんておかしいだろう」
 呆れの混じった言葉に、けれど、フィシュアの藍の双眸がひたとシェラートを見据えた。
「逆よ。フィストリア(五番目の姫)だから宵の歌姫なの。宵の歌姫が初めにできたものなんじゃなくて、フィストリア(五番目の姫)に付随するのが宵の歌姫なのよ。宵の歌姫は代々のフィストリア(五番目の姫)によって継がれるの。
 第一皇子であるアーネトゥス(一番目の皇子)が、皇太子となってゆくゆくは皇帝となるのと同じようなものって言ったら分かりやすい?」
 このことこそが、先刻ロシュが濁そうとした言葉の答えなのだろう。シェラートがフィシュアの後ろに控えているロシュを見やると、やはり彼は曖昧な笑みを浮かべて、肯定を示した。
「―――ってことで、信じていただけたかしら?」
「別に信じてなかったわけじゃないが、ややこしいな」
「思いっきり疑ってたじゃない」
フィシュアが不服そうにぶつくさと呟く。
「だってなあ、テト?」
「うん。フィシュアとはずっと一緒に旅してたもんね。お姫様だったなんて急に言われたらびっくりするよ!」
「菓子店じゃ、少しでも多くまけてもらおうとするしな。どう考えたって一国の姫がすることじゃないだろう」
 テトとシェラートの申告に、ロシュは己の主人に呆れた目線を向けた。
「フィシュア様……。そんな事なさってたんですか」
「だってオクリアの菓子だぞ?」
「まあ、確かにあそこの菓子は美味しいですが、そんな事をなさらなくても、お望みならいくらでも取り寄せますよ」
「いい。財が勿体ないだろう。それなら、他のものに使った方が有意義だからな。オクリアの菓子はたまに口にするくらいで充分だ」
「ほら、けちくさい」
「フィシュア様が、そんなだから姫らしくないなどと思われるのですよ」
「うるさい!」
「でも、それがフィシュアのいいところだよね」
 テトはフィシュアを見上げて、にっこりと笑った。
「やっぱり、わかってくれるのはテトだけね! 大好きよ!」
フィシュアは両手を広げると、ガバッとテトに抱きついた。けれど、テトの方は嬉しそうな笑みを浮かべてはいるものの、どこか苦しそうで、見かねたシェラートはフィシュアの腕の中からテトを取り上げ、救出することにしたのだ。
やはり、まともに息ができてなかったらしいテトは、ぷはあと大きく息を吐き出す。
「絞めすぎだ」
「ああっと、ごめんね、テト!」
 慌てて詫びるフィシュアに「大丈夫」と返しながらも、テトは息を整えてから言った。
「でも、そうしたら、フィシュアはこないだ話してくれた御伽話のトゥッシトリア(三番目の姫)と遠い親戚ってことだよね?」
「そうか、そういうことになるのか」
 シェラートは自分の顔のすぐ近くで首を傾げているテトの疑問に同調し、フィシュアを見やった。
「ええ、そうね。ジーニー(魔神)に見初められたトゥッシトリア(三番目の姫)は私達の五代前のトゥッシトリア(三番目の姫)と同一人物よ」
「あのアジカと親戚か……」
 シェラートの呟きに、フィシュアは思いっきり眉を寄せた。
「ちょっと、シェラート! 絶世の美女って言われてたジーニー(魔神)のトゥッシトリア(三番目の姫)と比べるのはやめてよね。どうせ似てないわよ」
「まあ…………本当に似てないけどな」
「その間の妙な間が余計に腹立つわね……」
 なおも睨み上げてくるフィシュアに、シェラートは苦笑した。
「強いて言うなら瞳の色だけは似てる気もしなくはないが……いや、でも、やっぱりなんか違うか」
 恐らくそれは指摘できさえすれば些細な差なのだ。けれども、その分からぬ微妙な差こそが二人の人物の違いを決定的なものにしているのだろう。
 ロシュは自分の主であるフィシュアに一度目をやり、それから、彼女が連れてきた二人へと目を向け肩を竦めた。
「これでも現皇宮内では、フィシュア様が一番あなた方の言う“お姫様”に近い愛らしさを持っていらっしゃるのですがね」
「これでか……!?」
「ちょっと!」
 憤然とシェラートとロシュを睨みつけたフィシュアは「もう、いいわよ」と言い捨てて、皇宮の回廊を大股で歩き始めた。
「なら、中はどうなってるんだ」
 フィシュアと同じか、それ以上の人物がいると思うだけで気が滅入る。
嘆息のようなシェラートの呟きを聞いてしまったロシュは「実際にご覧になってみれば分かりますよ」と答えると、フィシュアの後を追ったのだ。
 
 
 
 フィシュアが立ち止まったのは、一つの大きな扉の前だった。皇宮の入口が見えぬほどまで歩いて来てようやく辿り着いたその場所。しかし、それよりもさらに奥、まだ続いているらしい回廊の先は未だ知れない。
両の方向に開かれた背の高い戸の右端には、先程会ったばかりの眼鏡を掛けた侍従の男も立って待っていた。
近くにある扉には、外で見た門よりも細やかな花の紋様が描かれている。部屋の中に配された丸柱にも、天井にも、何らしかの装飾が施され、唯一、足元に広がる大理石の床だけが真白であり、磨かれたその床に自分たちの姿が映し出されていた。
何とも場違いな雰囲気に気圧されて、シェラートは思わず立ち止まった。けれども、連れであったはずのフィシュアと、彼女の護衛官の姿は同じ場所に立っているにも関わらず堂々としたものだった。
彼らにはこの場所に立ち慣れた者だけが持ちうるのであろう空気が漂い、何の違和感すら感じられはしなかったのだ。
「フィシュアって本当にお姫様だったんだね……」
 テトの感嘆は様々な色が含まれていた。フィシュアが皇女であるという事実は信じられぬようなことであったはずなのに、実際にこの場に立つ彼女を目にすると、今では信じぬ方が難しかった。
「ああっと……、テトとシェラートはどうしよっか。一応、滞在許可は取らなきゃだけど、私が話しつけちゃえばいいだけだしね」
 慌てたように振り返って尋ねてきたフィシュアに、テトとシェラートは互いを見合せて苦笑した。
「……何、二人とも?」
 フィシュアは不可解そうに眉をひそめる。
「別に何でもないさ」
「うん。フィシュアはフィシュアだねってこと」
 向けられた表情も、掛けられた言葉も、彼ら二人にとってはこれまでと何ら変わらぬフィシュアのものだったのだ。そのことに二人はどこか安堵し、もう一方の相手もそう思っていたことに気付いて彼らは苦笑する。
「けど、こうなると、やっぱり姫には見えなくなるな」
「そうだね、シェラート。フィシュアはフィシュアでしかないからね」
「だから一体何なのよ……」
 一人訳の分からぬフィシュアは肩を落として、溜息をついた。
 
「フィシュア。構わぬから、そこの客人も連れて来るといい」
 凛とした声が奥から響いて来たのは、フィシュアが嘆息を零したまさにその時だった。
 フィシュアはその声に従い、テトとシェラートに目をやって彼らを促す。一緒に付いて来ていたロシュはすでに端に控え、膝を付いていた。
 フィシュアもすでに踏み入れていた足をさらに部屋の最奥へと向け、二つの椅子が立ち並ぶ手前、一人の人物の正面で膝を付き、腰を下ろした。
「仰せにより、フィストリア、ただ今仕りました、皇太子妃殿下様」
 フィシュアの型通りの礼に、椅子に座っていた人物は面白くなさげに秀麗な眉を寄せた。
「フィシュア。そんなに堅苦しい挨拶はいい。せっかく煩い奴らは追い出したんだから顔を上げなさい。久しぶりに会うのだから、もっとちゃんと話をしたいじゃないの」
「はい、義姉様。お久しぶりです」
 顔を上げたフィシュアはふわりと笑みを浮かべた。皇太子妃は、それを見やって満足そうに頷く。
「今回は少しばかり遅かったな」
「義姉様は相変わらず、兄様と仲がよろしいようで安心しました」
そうでもない、と皇太子妃は不満げに花びらのような艶のある唇を曲げた。
「オギハは忙しいと言ってはあまり構ってくれやしないんだから。私は、今日も多忙な皇太子殿下様の代わりとしてここに居るのよ。久しぶりなのに出迎えが私一人で悪かったわね」
「いいえ」
「―――して、フィシュア。後ろに控えてるのがジン(魔人)とその契約者?」
 つと皇太子妃の紺碧の双眸が細められた。フィシュアとは色を異にする瞳は少年と黒髪のジン(魔人)に留め置かれる。
 吟味するかのように乗り出された体の動きに合わせて、右肩から流されている薄茶の長い髪がさらりと音を立てて揺れた。
「……テトはすでにシェラートの契約者から外れております。元より、彼ら二人を巻き込ませるつもりは毛頭ありませんよ」
「あら」と皇太子妃は紺碧の瞳を丸くさせた。けれど、そこに驚きは微塵も感じられず、わざとらしさからは彼女が面白がっていることが感じられるのみだ。
「情でも移ったの、フィシュア?」
「二人には関係ないでしょう、義姉様? 私たちだけで方が付きます。その為に連れてきたわけじゃない。
 ただ、彼らを連れてきたのが私自身である以上、何の不自由もなく皇都で暮らせるように、皇宮での滞在と、それを認めてもらう為にここへ連れて来ただけです」
「まあ、いいんだけどね……」
 皇太子妃は背もたれに体を沈めて、笑みを深めた。
「ファッテ、客人の為の部屋の用意を。できるだけ、フィシュアの近くの部屋にしてやるといい」
 皇太子妃の命を受けて、侍従は深く頭を垂れた。
「歓迎しよう、シェラート殿に、テト殿。申し遅れたが、私の名はイオル。フィシュアの義姉で……ああ、従姉妹にもあたるわね。
まあ、それはいいとして、皇宮内は自由にしてくれて構わないよ。フィストリアの客人だ。それ相応の態度で迎え入れないとね。どうせ部屋は余っているのだから、気にせずに滞在するといい」
皇太子妃の言葉に、返事は無かった。ただ、ジン(魔人)のしかめられた顔と睨んでくる翡翠の双眸を、イオルは単純に面白いと思う。
「フィシュア、もう退出してもいいよ。積もる話は後でまたゆっくり。今は旅の埃を落としなさい。今日はゆっくり休むといい」
「はい、有難うございます」
 フィシュアは微笑んで立ちあがる。一度礼をすると、イオルに背を向けて、テトとシェラートの方へと歩みよった。
 立ち並んだ奇妙な三人組みを、イオルは肘掛に凭れかかって見やる。
「フィシュア」
 呼ばれた名に、フィシュアは義姉へと振り返り、少しばかり首を傾げた。
「サラディエ候が来てる。今日はいいけど、待っているようだから明日にでも顔を出してやりなさい」
「サラディエ候ですか……まあ、彼ならましな方か」
 思案するフィシュアの姿に、イオルはクスクスと笑い声をたてた。
「財力と権力さえあればいいと言っていたはずでしょう?」
「そうですね」
 艶やかに笑んだフィシュアの顔は、前とはさほど変わらない。これから先も彼女を変えるのは恐らく酷く難しいこと。
 
 今度こそ退出していく三人に、イオルは口の端を上げて、顔を綻ばせる。
 
「まあ、いいんだけどね。今はまだその時ではないから」
 
 ただ、なおも謁見の間に残っていたロシュと侍従の二人だけが、皇太子妃が零した意味深な呟きに、揃って静かな反応を落としただけだったのだ。
 
 
 
 
 

(c)aruhi 2008